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幽霊

眼球、ぬめる粘膜、表皮の質感と懸け離れた人体の中でまるで異質なそれがこちらを見ている。
いや、見ているようでまるで見ていやしない。
黒目をこちらに向けながらも、彼女は手前自身の頭の奥の、何処かの誰かを絶えず見ている。

そんなもんだ、と言い聞かせる。
こちらの眼に落胆の色が映らないように。
そんなもんだ、僕だって今見ている彼女が本当に彼女自身か解りゃしない、
と何遍でも脳内で繰り返し、反芻し、口内まで迫り上がる言葉を咀嚼しては飲み下す。
何度もそれを繰り返していると、最早彼女自身のことすらどうでもいいような気がしてくる。

僕は彼女を愛していたはず、であったのに、最早それすらよくわからなくなってきた。

そもそも愛とはなんだ、好意とは、なんだ。
粘膜での接触で確かめられるもんなのか、世間が言うように、なんの見返りを求めず何か与えたいという精神がそれなのか。
しかしながら、僕という卑しい生き物は、見返りなど要らないと思いながら、彼女自身から、僕が持っているのと同様の感情が返ってくることを無意識に求めていた。
これを見返りと言わずして、何といえば良いのだろう。

愛とは、何なのだ。

少なくとも、あの粘膜と粘膜と粘液でべとついた、繁殖本能の変容のような行為で確かめられるような容易なもんではないだろう。
精神の繋がりなんぞ、目に見えないからこそ無防備にも手放しで相手を信用する以外ないではないか。
しかしながら、人間という生き物は嘘というものが吐けるように出来ている。裏切るということすら、容易にできるのだ。

ともすれば愛だとかいうもんが存在するとして、確かめる術など有るのだろうか。
そもそも愛なんぞというもんが、実在するのだろうか。何処かの誰かが作り上げた実体のない理想を、皆が皆、さもそこに有るようなふりをしているだけではないのか。
考えれば考えるほどに、愛というもんが、まるで掴み所のない幽霊のような得体の知れない、薄気味悪いものに思えてくる。

最早、僕の目の前で一言も発さず、微笑むように口角を上げ、こちらを見つめるふりをし続けている彼女などどうでも良くなっていた。

唯、愛という気色の悪い存在に対してひたすら嘔気を催す他、僕に選択肢は無かった。

#小説 #文学 #短編小説 #耽美 #無頼 #愛

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