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ダンサー・イン・ザ・ダークのほうへ(3)

1.チタンについてとやかく思ったこと覚書

 *今回は「チタン」のネタバレを含みます*

 この連作は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」から端を発してフィクションや人文界隈をつなげて考えていくことの試みのつもりで始めたわけで、第一回目から「フレンチディスパッチ」など別の映画を言及しており、おまけに一向に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の分析をしていないものだから、読む人から顰蹙を買うだろう。残念ながら今回を起稿した段階でも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の2週目は済んでいない。節題のように、今回は4月から公開している「チタン」について触れる。幸い、この映画にもいくつかダンスが登場するから絡めれるだろう。

 ゲテモノ映画好きなのかはさておいて、評判や口コミという手垢がつくととたんに見る気が失せる私なのだがミッドサマーの時のようにそうした映画をノリで見に行ってくれる友人がいるもんだから今回もそのようにして映画館に足を運んだ。私のように中途半端に知識かぶれしておらず、さっぱりした子なので私が映画をみおえた後ウジウジしなくて済む、全く感性が違う子だからすぐに俯瞰に戻ることができるからとてもありがたい存在である。この場でいつも(というほどでもないが)ありがとうと伝えておきたい。

 カンヌだとかなんだか知らないけどそうした権威などによってアレコレを見るというのは口コミなどの手垢の上位互換なわけなんだが、たとえば予告編を見たりする時、あいかわらず日本の配給会社のセンスのないそうしたテロップは無視して、無惨に編集された本編映像の断片を見て、そうした分析的な視点というよりかは、感覚的に「みてみたい」を誘発させることで、見にいきたいと思うしかあるまい。少なくとも今作の予告編は訳がわからない。あえて海外の予告編を引用するが、日本版のものも対してセリフもなかった気がする。

 この予告編に、中盤あたりからゾンビーズという60年代あたりのイギリスのバンドの楽曲「She's Not There」が流れる。後追いの世代、というよりか後追いの後追いの世代の人間だとしビートルズくらいしか知らなかったのだが、少なくともビートルズなどからなるブリティシュロックブームの一端にゾンビーズがいたらしい。日本版のもの同様、主人公のアレクシアが階段を駆け下りて女を羽交締めするなどのシーンに流れるからかなりキャッチーで耳に残る。フランス映画、アメリカ映画に限らずの話だが、私感だといまパッと思い浮かぶもので申し訳ないが、本編はまだ見てない「DUNE」の予告編に出てきたピンクフロイドの「eclipse」(これは頓挫したホドロフスキー版の制作の段階でピンクフロイドが関わる予定だったって経緯込みだろうが)や、「スーサイドスクワッド」の予告編で流れるクイーンの「ボフェミアン・ラプソフィ」といった、近年の洋画ってやたら古い音楽の引用を挟みがちなきらいがある。
 「チタン」の本編でもこの楽曲は流れる。もちろんダンスをするシーンである。



 「チタン」ではやたらダンスを踊るシーンがある。冒頭ではカーウォッシュガールが洗剤を車体に胸などで当てつけたり、燃え盛るデザインの塗装がされた車体の上で妖艶にストリップばりに足を開き、仰向けになって身体中を弄られているかのような動き、あるいは四つん這いになって後ろから挿入されているような、性行為の真似事のように腰を振る姿が出てくる。開始して幼少期のやや説明気味なAパートの次の映像なので劇場に入ってすぐ客席に男性が多くいたのはこのためかと感じてしまったが、車を見にきた男性、あるいは映画を(そういう目線で)見にきた男性が女性を性的な消費で見る「性的な挑発」という経路でこのシーンは撮られていない。アレクシアの嗜好、車が欲動の対象であることが示されている。ここの誤解が発端で話が推進していく訳なのだが、これは未だ異性間のやりとりに限らず、いくつのレベルでも往々にして起こり得ている事柄だろう。
 本編が始まる前の他の映画の予告編を見ていても、トランスジェンダーの子供が周囲の人間に理解を得ようとしていくというストーリーの作品がでてきたりと、少し前だとキャストを女性に変えてリブートする(「ゴーストバスターズ」「オーシャンズ」シリーズなど)やLGBTQの問題意識を下敷きにした映画がこの頃よく出てくるようになった。これは映画に限らないことだろうが、流行りの題材というより、そうした言論を普遍的にしていこうとするイデオロギーの拡散ともとれて、どこか説教がましい印象を受ける。自然に何もかも描けばいいのにまだそうした文化的どころか個々人間の関係にある摩擦を描くということが、ストーリーとして構築しやすいのも事実である。「チタン」においても同性愛的な絡みの場面があるが、アレクシアの嗜好は同性の身体ではなく身体に改造として施されているピアスの金属であり、車の部品を連想するのか、自身の頭部に事故で組み込まれてしまったチタンプレートに近いものとして認識したのか、それを引き抜こうとする。こうした全景を把握していないとその後の殺人シーン込みで主人公への理解を観客は行えない。わかるひとにはわかるというか、意図的にそうしたやり口をとっているように感じた。彼女の殺人は車への嗜好に対しての邪魔者を男性が性的に女性を暴力で獲得しようとすることへのアンチテーゼに近い。より行動的で見ている側はスカッとするが、逆に言えば世の女性はこうした視点(色目)を使われているということを突きつけられている訳だから、車の上で妖艶に踊る姿に興奮したくて見にきた男性は頭を冷やした方がいい。アクセル全開の暴走車の如くアレクシアの殺人は歯止めが効かない。踊り子仲間のジェロームだったかジェスティーヌだったか(マルキ・ド・サドの小説の登場人物から取っているのかなと感じた覚えがある)という乳首にピアスのついた女の友達の屋敷で髪櫛やら椅子やらで残虐に殺していくシーンは類を見ない痛々しい映像だ。

 話が逸れた。ダンスの話をしようとしていたのに。まあうまく絡むと思うからこのままLGBTQというか、もっと言えばスキゾフレニーじみた視点からあれこれ考えをまわしてみる。この映画はどうしても「車と性行為をして孕む」という奇想天外とも取れる展開が先行する(事実一緒に見に行った人間に提案するのにどんな映画か説明するのにそのように話してみた)が、たまたまそれが「車が好き」だっただけで、そして何より人外の類というこれまで流通している生物的にも文化的にも人間の定型から外れてしまったことで描かれる軋轢がこの作品の醍醐味なのだが、これがもし犬だとか、馬だとか、猫だとか、なんでも構わないが動物のいずれかであってもここまで関心を惹くものにはならなかっただろう。また「子を孕む」ということと「車が好き」あるいは「車が好き(ヤッちゃうくらいに)」が繋がってしまうことも面白い。男性だから、あるいは女性だからという意味ではないのだが、もし読者の中でそうした嗜好として「○○○が好き」というものがあっても、それとの間に子供が欲しいとまでいくものがあるのかわからないが、アレクシアはそのような意味合いでも「車が好き」だったのかもしれない。まあこれはミスリードで、自分の嗜好とは全く食い違った文脈で異性から性的に欲動を押し付けられた結果子を孕んでしまう、つまりはレイプの表象に、車の上で踊り子をやっていたがために犯された、という論理的な原因が捻りこまれていくという隠喩的な、あるいは寓話的なことを描いているのかもしれない。生物的に子を宿すことのできない男性は論理的に考えればレイプされて孕まされたのなら堕胎すればいいと容易なことを思うかもしれないが、私は少なくともこの二つのミスリードを保留にする。

 ともあれダンスである。次にダンスがあるのは中盤あたりに殺人で指名手配となったアレクシアが行方不明だったある少年のなりすましを行い、ずっとその少年の父親ヴァンサンの元へ逃れた先である。腹が子で膨らむ中、身体の特徴を隠し、自ら顔面に暴行を加えることで、性別を男性としてヴァンサンの息子として生きていく。そのとある夕食の場面、口論、というよりかは一方的に父親が怒鳴り、アレクシアが出ていこうとするところである。ゾンビーズの「She's Not There」を流しながら父親と取っ組み合いになる。歌詞を踏まえるとかなり皮肉で面白い。手を繋ぎ相手を振り回すような、私はダンスについて書こうとしているのにダンスの知識が皆無なのが痛手である。ここではヴァンサンの息子という状態が反映されているここまできた通り、この映画でダンスは身体の外側にある動きでありながら、その主体の事情を表象する。一方で内在するものは常に他者に認識がずれ続ける。一つ目のダンスが自らの嗜好「車が性的対象」(あくまでそう定義づけするならだが)を表象する身体の外部であるなら、鑑賞者たる他者は他者で持ち得る世界、車の上で妖艶淫靡に踊る異性が性的対象というパースペクティブで誤解する。二つ目のいまあげたダンスも、父親と息子の関係性を仕向ける。
 この映画の奇妙な点でなおかつ魅力的な捻りについて、車の子を孕むことの次に、全くの他人であるこの旧来的な父性であるヴァンサンと車性愛者アレクシアの定義という行為自体を不要とする無限の組み合わせの予感を覚える関係性はいかにして育まれるか、ということである。第3のダンスを指摘する前にまた話は逸れるが、アレクシアが股を開いて車と性行為をする場面、そして終盤の出産シーンでヴァンサンが助産を行う場面で、駆け抜けていったのがドゥルーズ+ガタリの「アンチ・オイディプス」を読んだ時の感銘である。
 私は「愛」などという通俗に被れた言葉を平気で使ってとやかくいうのが好きではないのだが、この本を読んだときに痛烈にその語の模範回答なるものを見出したように思えた。その本を読んでそこを掴めただけでもこの本は一読でも再読でもした甲斐はあった。有名な部分だろうが、いちおう考えの整理も兼ねて引用する。

愛をかわすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもなく、何十万にもなることなのだ。これこそがまさに欲望機械であり、非人間的な性なのである。ひとつの性も、二つの性も存在しないのであって、n……個の性が存在するのだ。分裂分析は、ひとつの主体の中におけるn……個の性の多様な分析であり、人間的形態の表象を超えていくのだ。社会はこの主体にこのような表象を押しつけ、また主体自身も自分自身の性愛についてこうした表象を自分に与えている。欲望的革命の分裂分析の定式は、まずそれぞれに複数の性がある、ということだろう。

(第四章 分裂分析への序章 第二節分子的無意識より)

 稚拙な読みで挑んだ本だったのでどこに何が書かれていたか怪しく、引用する際、その箇所を探すのに何日かかかった。この本特有の専門用語的な単語が混じっているが、端折らずに載せている。たしか分裂分析ってのは、エディプスコンプレックス的な視点のアンチテーゼのような立ち位置だったかに思える。
 3回目のダンス、もしくは4回目のダンスにおいて、この社会に押し付けられる表象というのが色濃く扱われる。3回目は2回目と違う和解のような、この引用を踏まえて言うならヴァンサンの性を受け入れるアレクシアというテーマがある。その代償として担がれた瞬間に膨らむお腹に痛みを抱く。鑑賞者との強い軋轢を、あるいは自身の表象と他人の表象のずれが色濃く現れている。これは4回目においては逆にアレクシアの自身の表象の結露によって1回目とは別の分野で鑑賞者に誤解を与える。妖艶なストリッパーのようなダンスを始め、肉体はみるみる丸みを帯びていくような変身を想起させるその動きは、その人物が男で上司の息子であるという前提の前にするとひどくその父親が滑稽に見えてならないのだが、これもまた前述したダンスの鑑賞者が必ず起こしている誤解である。そもそもアレクシアが女の肉体を持ち車性愛者である、もしくはいなくなった息子をいつまでも求め続ける老いと戦う父親たるヴァンサンという私のこの映画の見方もまた、そうした社会という者で押しつけている表象にすぎない。それは規範というより倫理観(例えば路上で通学中の女子高生を見て手淫するという行為がもちろん許されないように)によって管理されているのである。いまこうして通俗的な実にふしだらな例えをしてしまったが、社会のある視野で見れば女子高生をそうした目で見る人間もいるということが許されないという制約はないものの、女子高生という存在自体をもまた、性的な対象として消費しかねない、手淫をしている痴漢が倫理的に良くないという認識云々云々……… つまりそうした社会規範において考える中、アレクシアの欲望とはなんだったのか。それは欲望というカテゴリーに収めていいのか。ヴァンサンは最終的に息子を獲得するが、アレクシアには苦痛の解放として死が訪れる。逆だ。アレクシアはもう欲望が達成されていた。欲望の成就の先に待ち受けるのは絶え間ない苦痛ということが、あまりにも私には痛烈なものに見えてならない。


私たちの愛に関する選択が様々な「振動」の交点にあるということ、言い換えるなら、その流れの接続、離接、連接を表現しているということを確証するだけが重要なのである。流れは社会を貫き、この社会を出入りし、絶えずリビドーの地下鉱脈を辿りながら、この社会を他のもろもろの社会に結びつける。
(第四章 第五節 第二の肯定課題より)

2.ダンサー・イン・ザ・ダークに立ち返って

 こうした吐露を書き出しに使うのはお叱りを受けそうだが、私が3人目に付き合った異性は私とのそうした交渉を拒んだ。医療系に進む志の高い人で、そうした分野に身を置くためキャリアに影響する懸念をおそらくそのあたりで痴話を繰り広げる若い男女より数段防衛意識が強かったと記憶している。当時私は理解しようと試みたが、関係は 破綻する。そうした頓挫した先に読んだのがドゥルーズ+ガタリ「アンチ・オイディプス」なのだが、男女が性器を交えると言う意味だけでなく、もっと広義として「性」という概念を捉える時、ドゥルーズ+ガタリ的に言えば「n……個の性」なるものは、無数の摩擦を引き起こすと言う、より豊饒で途方もない絶望を覚えた。性はもとい、価値観についても同じことが言える。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でセルマがその最期まで固執していた息子への病の遺伝とミュージカルの世界は、前者は他者に受け止め難いもので、後者に至っては他人が入り込めない彼女の妄想の中でつくられた世界である。「チタン」における表象の空間、身体の外部にあるメディアの役割を果たすダンスとは違い、セルマにとってのダンスは彼女の欲望で満たされた世界を構築している。このダンスの鑑賞者は第四の壁を挟んだ映画を見る観客のみである。もう私はなんだかんだでこの辺りでこの回は締めたい上、だんだん「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の記憶が曖昧になってきてはいるのだが、あまりにもセルマが幼稚に思えてきてしまった。少なくとも生物的には男性の肉体を持ち、女性を性対象として見るよう資本主義なり社会なりに刷り込まれて人格形成を繰り広げてきた一個人として、結局のところ女性の肉体を持つ個人が子を孕むと言うことは如何なる動機があるのか、一節で挙げた「チタン」でのぼんやりとした箇所が、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では目が見えなくなる病を持ちながら、しかもそれが遺伝する可能性が大いにある中で子を抱きたかったと言う、いかにも悲劇的で肉体が男性である私からすれば答えになっているようでなっていないようなきらいがある。身体構造の問題として生理があったり、あるいは勃起があるように、子を孕むことは身体構造上の機能として捉えるなら、「チタン」において車と交わって子どもを産むと言うことになぜこの作品は突き進んだのか、という疑問と、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の子どもが欲しかったの云々は近いものなのだろうか。2節の前に引用した「アンチ・オイディプス」の文章で考えると、「子を孕む」ということは社会規範的に母親になることを同時に課せられてしまう。n……個の性の一つとして車と交わり子を欲するというものがあると仮定して、この欲望には母親になることも前提にあったのだろうか。

 とっ散らかってきたので、次回にこの問題を深追いしたい。

Well let me tell you bout the way she looked
The way she act and the color of her hair
Her voice was soft and cool
Her eyes were clear and bright
But she’s not there
(The Zombies / She’s not there)

(「ダンサー・イン・ザ・ダークのほうへ(4)」に続く)


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