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ダンサー・イン・ザ・ダークのほうへ(2)


今回は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の結末部のネタバレがあります

 このごろ、私の記事を読んでくれて、私の文章を好んでくれているという友人に、なんのために書いているのか、読まれていたいのか読まれたくないのか、読まれてどうするのか、あなたが文章に負の感情を押し付けても読者が困るだけです、書き手である側がお客さん面をしている、といった感じの意見をいただいたが、私にはどうしてもよくわからない。よくわからないというか、よくわからないようにものを書いているから読み手に何か煩わしいことをさせている、ということになるのだ。私がそれは誰かにわかってもらいたいと思って書いているのではない、とするならば、生産性のない徒労を読み手に押し付けているということになる。私はある映画から考えたことを自分の視野で言語化する試みが、誰に何を理解させることになるのか、全くわからない。
 枕が長くなり、またこのあたりを含めて吟味したいものだが、前回の続きで、
「余白もまた意匠である」
 とした場合それは仕組まれているのだろうか。 
 作り手が見損ねて細部から噴き出すのは破綻なのだろうか、見る側はその余白をどうにか埋めようとするだろう。映画に限らずあらゆるコンテンツを見る上で、私は近年偏執的なほどに視聴者が「考察を行う」という方法をとることに、なかば疲れている。もっとも妥当な見方、一理ある見方、論理が優れている見方というのもあるが、一方で単なる展開を整理しただけのあっけないものもある。ストーリーを追いかけてもただそれだけで要約できない場合の作品だってあるものだし、たとえばそれをあらすじとして語っていくとなんで退屈なのだろうと感じたことは、読者にもあるかもしれない。

 私は単にこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を考察するなんて野暮な真似はしたくない。単に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を起点に物事を考えてみるという試みをしてみたいという動機のもの、実に単純な走りではじめてみた。
 たまたまネット配信で期間限定で初めて視聴した作品を、記憶を辿って何度かに分けてこのようなまとまらない文章を綴るのはなかったことをあったことにしかねないため、見返すためにまたネットでDVDを入手した。特別版で2枚組、特典にメイキングビデオがついたものである。中古とはいえ、私が前回に挙げたにわかシネフィルが喜んで口にしそうなアーティスト思考の映画監督のDVDの部類と思っていたが、比較的安価に手に入った。
 しかし購入して家に届いても二、三週間そのままにしていた。とても見る気になれないのだ。私は筆を取ったはいいものの、あの映画をこれから繰り返し見るのかと思うと気が遠くなってしまったのだ。ビョークが頭を傾けて踊るような、穏やかさと不穏な薄暗さが混ざるパッケージをずっとほったらかしている。
 余白として「ダンサー・イン・ザ・ダークの方へ(2)」もまた、こうして本筋として作中への言及が少なるかもしれないが、私は見返す前に自身が行った、結末部のミスリードについて挙げて、これはどうしてそうした作用があったのか、追及の用意をここで行いたい。
 とはいえ、今回の冒頭にも挙げたように結末部に触れることは典型的なネタバレであって、それは作者たるラース・フォン・トリアー監督の意向に背く。私は特別版のDVDを手に入れて驚いたのはあのプラスチックの留め具についた冊子にわざわざそうした記述を行なっていたことである。もちろん結末部にどんでん返しが起こるといったサスペンスものの作品にネタバレは厳禁ではあるが、私は悲しいことに前回に紹介したラース・フォン・トリアーを教えてくれた方にネタバレを喰らっている状態で見ることになった。もっとも、生配信で近年話題になった2ちゃんねる創設者のひろゆきがいつかの配信で結末で大爆笑をしてしまったというエピソードを話していてそこでネタバレを喰らう場合も読者にはあっただろう。

試しに予告編をここで引用してみたが、確定的な部分はない。これを見て映画を見ようと思った人間は果たしてビョーク演じるセルマがどうなるのかという点で見るのだろうか。それは例えば「ある日虫になってしまったサラリーマンの男」という起点で始まるカフカの「変身」に、その男が元に戻るかをみたいと思って読み始めるのと同じなのかはわからないが、比較的近いとして、カフカの「変身」を読む能動性に結末部を知りたいという欲求はあるのだろうか。
 予告編を見る限りでは、「どうなるのか」を誘い込む手はあるだろうがそれ以上に「失明しつつある母親が子を思う姿」を愛情と変換してそれを描く美談のように映している。多くの予告編が、どこか配給の都合で本編とは不本意に改変されてしまっているということもあるが、少なくともそうした印象を抱く。芸術嗜好にベクトルが向いた作品の予告編にありがちな、ふわっとしたイメージだけが見る側に残る。

 しかしこのように躊躇いながら話をずらしながら、いきなり第二回目で結末部の私のミスリードについて書き記すのも、なんだか興醒めである。  
 物語が宙吊りで終わるというような考えがある。先のカフカの「変身」は主人公が元の姿に戻るのか、という主軸で読む人間はいないだろうが、仮にそれを軸にすると元に戻れない、戻る見込みがない流れを鑑みていくと、宙吊りに合う気持ちになるのだろうか。「変身」はあまりにも首尾一貫してグレーゴル・ザムザの家族が、家族の生活が変化していく様を記している。「変身」という「事態」が例えば家族の誰それが交通事故に遭い植物状態に陥り家計が破綻するなどといった家族構造のピースが崩れる様を基に、そこへ寓意性を持ち寄ったという読み方があるが「変身」という一捻りがこの作品を歪ませている。

結末が宙吊りというのは、ある映画評論家がクリストファー・ノーランの「ダークナイト」においてジョーカーとの対決軸が解決しないままに終わることについて指摘した際に出てきた言葉で、私はある固執した視点で作品を見た場合に起こる読み手、見る側が抱くストレスである、としたい。あの作品でジョーカーという問題は文字通り「宙吊り」になるのだが、続編の「ダークナイト・ライジング」では登場しない。往年のまだ監督が続けてアメコミの映画を撮るなら解決しなかった敵との固執は次作に引きつれるというのは、興行的にもストーリー的にもあり得そうだが、演者の逝去もあるのか、あるいはハナから「ダークナイト」に出てくるジョーカーは宙吊りになる前提だったかもしれない。いま覚えばー最もホアキン版ジョーカーが記憶に新しいがー「ダークナイト」のジョーカーは登場人物というよりかは、舞台装置、現象、展開そのものだったように思える。

 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」において、セルマが「息子の目の治療をしてもらう」という目的が達成される、これが宙吊りになっている。  
 私がミスリードで、歪んだ見方をした、あるいはより意地悪な見方をしてしまったというのは、この結末部でセルマが絞首刑になる最中、彼女が最期の歌を歌う中、執行人の連中らが電話を受け取る。これには息子の施術が失敗に終わったという連絡だと私は思ったのだ。
 なぜかはわからないが、もう絶望に絶望を重ねていままさに絞首刑にされる、床が抜けるか抜けないかのセルマにとどめを刺すような事実が突きつけられるのかと思ったのだ。彼女に向けられた不幸のいくつかを鑑みれば、そういう展開があってもおかしくないと私は考えたのか、いやいくらなんでもあんまりだし、少しフィクションじみた胡散臭い間の良さではないかと首を振った。もちろん私の読みは外れて詳しく言及はなかったが、あの電話はなんだったのか。あの電話で私なぜそうした誤解を抱いたのだろうか。
 そういうわけで私はこれを確かめるためにあの映画見返さなくてはならないらしい。

[ダンサー・イン・ザ・ダークのほうへ(3)へ続く]

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