見出し画像

おじぎ

「心霊スポットってさ、別に有名じゃなくても幽霊がいるかもしれない場所は全部スポットになるじゃん?わかる?」

大畑(おおばた)さんはかつて“全く有名ではない心霊スポット”……というか、自殺のあったとある部屋……つまるところ“事故物件”という奴に興味本位で住んだ事がある。

幽霊を全く信じていなかった大畑さんは、一度くらい幽霊とやらを体験してやろうじゃないかとそういう気持ちだったのだ。

「事故物件てさ、知ってるだろう?事故があってすぐ次に住む人間には告知義務があるけれど、2人目からはない、って。俺はさ、死人の次になろうと思って躍起になったわけ」

人死にのあった部屋をあえて探し出してそこに住んだ。

「最近はそういう興味本位の人間は少なくないみたいで不動産屋にもちょっと警戒されたけどさ……あったんだよ、人が溺死した部屋」

家賃はやはり激安だった。
駅が近く立地は最高なのにマンション一部屋1.5万円は破格だ。
ここまで安いのには事故物件である事に加えてもう一つ理由がある。
件の人が亡くなったバスルームの浴室は清掃のみで浴槽を替えてはいないというのが主な理由だ。

「引っ越しはすぐ、マジで契約してすぐだった」

大畑さんはワクワクとした気持ちで部屋に住みはじめた。
何が起こるのか、起こらないのか、いつか起こるかもしれない心霊現象がとても楽しみだったのだ。
何もなければなかったでマンションの一室に1万と5千円で住む事ができる。大畑さんにとってはどちらに転んでも美味しい話だ。

「何日目くらいだったかな〜、あの〜……あったんだぁ」

仕事から帰り脱衣所の扉を開けた時、その奥の風呂場に人影があったのだ。

(……はええ!あ!!!)

これがあの“風呂で死んだ人”の事なのではないか、とそう直感で感じた。
その人影は男で、風呂場にただひっそりと佇んでいる。
どうやらこちらには背を向けているようだ。

大畑さんが影をしばらく注視しているとその影はゆっくりとその場でお辞儀をし、そしてするりと消えていった。

「おお〜!って興奮してすぐに風呂場を開けたんだけど、やっぱ何にも残ってなくて」

その時に感じたのは“好奇心”だ。
幽霊は本当にいる!という事を知った驚きにアドレナリンが噴き出たのか笑いが止まらなくなったほどだった。

「だって馬鹿みたいだろう?死んでるのに、死んだ場所に未練があるんだって。死んだ事を後悔してるのか知らねえけどさ、ずっと自分が死んだ場所に居続けるなんてさ」

笑いながら酒を飲み夕飯を平らげると、さっきまで幽霊がいたと思わしき風呂に入りその日はぐっすりと眠った。

「その日からたまーに風呂に出るようになったんだ。男がおじぎして消えるっていうそれだけなんだけど」
それを見るたびに“おお〜、事故物件に住んでるんだ〜!”とそう思った。

「でもさ。何回か見てるうちに生で見たくなったわけ」

どうしようもない好奇心が大畑さんの中に渦巻いていた。
すりガラスの向こうではなく、直にこの目に幽霊が見てみたい、とそう思ったのだ。

「ガラス戸をその日から閉めるのをやめたんだよ。そしたらいつ出ても見れるだろ?」

大畑さんは何が何でも生で幽霊を見てやるという気持ちで、入浴中以外はずっと風呂の戸と脱衣所のドアを開け放って生活するようになった。

こんなに頻繁に見られるなら、いつか必ずガラス越しでなくても見られるはずだとそう踏んだのだ。
いつか必ず見られる日が来るかもしれないと思うと是が非でも見てやるという気持ちが湧いた。

その日はドアを開け放って生活をするようになって1週間経たないうちにやってきた。

帰宅後すぐに風呂場を覗いたが、特に何もいなかったのでがっかりしたような心持ちで風呂に湯を張ったのだという。
幽霊が出るとか出ないとか、溺死したバスタブは交換していないだとか、そういう事は大畑さんにとっては全く取るに足らない事だったのだ。

「掃除して汚れが取れてれば、それが死体の油でも自分の身体の垢でも変わんねえもん。死んでクリーニングしてピカピカなら、むしろ普通の浴室より綺麗な状態だろ?全く気にしてなかったね」

夕飯の途中、湯が張れたらしいアナウンスが浴室の方から聞こえてきた。

それを聞き流して夕飯を済ませてたっぷりと一息ついてから、さぁ風呂に入るかと意気揚々と歩いていった、その時。

脱衣所の向こうの浴室内に、男が立っているのがチラリと見えた。

「おお」と大畑さんは感嘆の声をあげた。

出た出た出た!と興奮を抑えられない。
どんな奴だろう?そう思うとワクワクとさえした。
勢いよく行けばもしかすると煙のように消えてしまうかもしれないと考えたから、興奮を抑えて抜き足差し足で近づいていった。

「いたんだよ、普通に男が立ってたんだよ、凄いんだよ」

浴槽を見つめるようにして男が立っていた。
近づいてみても消える事はなく、本当に生身の人間が立っているのではと見間違えるほどにリアリティがあった。
それが生身の人間でないと確信を持っているのは、帰宅してから鍵もチェーンもかけた部屋の中に忽然と現れたから、というそれだけの理由だった。

「暫くそいつを見てたんだけど」

じーっと。
身動き一つ取らずに佇む男を大畑は見つめ続けた。
こいつは何を考えているんだろう、何をしているんだろう、どうしてここにいるんだろう?
全てが好奇心を刺激した。

幾らか時間が経った時。
目の前の佇んでいる男が急に“すぅ”とお辞儀をした。

目の前には湯の張られた浴槽がある。
湯船に男の顔がちゃぽんと浸かるのが見える。

(何してるんだ)
水の中に何かが見えるのだろうか?そんな風にも思えるのだが、真相は定かではない。
一体どうしてそんな行動を?苦しくはないのか?あ、死んでいるのか、こいつは……。

“水の中は苦しかったろうに、死んでからもこいつは水の中に頭を漬けるのか……”

ふるり、と頭をつけた男の身体が目の前で揺れた。

確かにしっかりと一人の人間に見えていたその男の身体が、水面に映った鏡像のようにふるりと揺れたのだ。
何となく、呼吸が出来なくて苦しい、と言ったような仕草だと感じた。
その鏡像の揺らぎは段々と大きくなっていった。

綺麗におじぎをして湯船に頭を沈めた男は、その苦しさに震えているようだった。

「何だこれは、って流石に俺も固まっちゃって」

人が目の前で死んでいくのを静かに見守るような、奇妙な時間だった。

苦しみもがくのを表すように、ゆらゆらと男の身体が震えて揺らいでいる。
大畑さんはその場から動く事ができずにその揺らぎを見守った。
場の空気に飲まれて、自分の呼吸も忘れてしまうほどだ。

「瞬きも忘れて男の事を見てた」

ふるふる、ふるふる。
ふるり、ふる、ふる。

男の身体が窒息に耐えるように震えている。

ふるる、ゆらり、
ふる、

(あ、あいつ、もう死ぬ)
大畑さんはそう思った。
男の揺らぎが“力尽きた”ように見えたからだ。

その瞬間。

ばしゃん、と全身に冷や水を浴びせられた感覚がした。
そして、呼吸を忘れるほど見つめていた男が忽然と目の前から消えた。
急に新鮮な空気を吸ったせいで肺が痛む。
窒息をしていた、と言っても過言ではない。

「それを見た日からは、そいつの姿を見てないんだ」
その日限り、浴室で男を見ることは無くなった。

「でもさ、その代わりにさ、うふふ」

たまに、浴室内で気絶している時があるのだという。壁に身体をしこたま打ち付けて転がっているそうだ。

自分では何が何だかわかっていないのだが風呂に入ろうと支度をするとたまに記憶が飛んでしまう。

意識がない中、酷い苦痛で“はっ”と気がつくのだ。
気がつくと水中にいて、呼吸が出来ない。
鼻と口に水が入り込みゴボゴボと嫌な音が体内に響く。
そして苦しみの中でもがいて暴れ、必ず水を吐き出しながら目が覚める。
目の前には、なみなみと湯の張られた湯船がある。

「何となく、ああ、風呂にいた奴はとんでもなく怒ってるんだなって思ってさ。出て来たらおじぎでもして謝ってやるんだが……結局合えなかった」

大畑さんはこの後すぐに引っ越したが、最近は実家の風呂で昏倒しているのを両親に発見された。
何事か、と叫ぶ両親を尻目に浴槽を見て(あいつと同じく溺死するんだろうなぁ)と内心で呟いた。

「あの野郎は赦してくれないみたいだしな、多分。だからもう遺書は書いてあるんだ」

公開そのものを無料でなるべく頑張りたいため よろしければサポート頂けますと嬉しく思います。