“ない”
「もう何年も前からになるのよ」
日向さんは、某所教室で人に絵を教えている。
たくさんの生徒を受け持っていて、彼女自身も個展を開いたりしている。
「もう何年も前。うちの教室に1人の女性が通っていたのよ。主婦の方。その方、何枚も絵を描いて手慣れてきた時に、今は家にある物で一等気に入っている物を描いてるのよって話してくれたの。それは子供の頃から大切にしてる人形で、フランス人形だったのだけれど絵に描いてあげたいっていうのよ。それはいいですね、って話していたの」
件の彼女の絵は、淡い桃色のドレスをふんわりと身に纏った、ふわふわの金髪をしたとても煌びやかなフランス人形である。
教室に来るたびに着々と描き込まれていくのだが、どうにも顔の部分が納得いかないようで最後の最後まで顔を残して絵が描きあがっていった。
「お人形の服はもういい感じに描き込みができているから、全体のバランスを見るために次に来た時に顔を書き込んでいきましょうよって話したんですよね」
そうですね、そうします、と朗らかに笑って帰路に着いた女性が帰り道に自殺し亡くなった事を知ったのは彼女が教室に来るはずだった1週間後の日だった。
「遺族の方が電話をくださったんですよ。今日ここに来るはずだったんですけれど……って。それで亡くなったのを知ったんです。絵画教室にきた日、おかしなことはなかったか?って散々聞かれたんですけど、来週は絵を完成に近づけようと話していたのでそんな風には見えませんでした、ってお話ししてね」
完成一歩手前の、顔のないフランス人形の絵は遺族の方に返された。
「絵を引き取った彼女の母親が絵を見た時に泣き崩れたんです。慰めているうちに少しだけ話を聞いたんですけれど、彼女はマンションから飛んで亡くなったんですって。アスファルトに叩きつけられて顔が真っ平に潰れてしまって、この絵は顔のない娘の最後を思い出してあまりにも苦しくてつらいって」
絵を引き取ってくださいませんか、と、絵を引き取りに来た女性の母親は泣きながら日向さんに訴えた。
「わかりました。ってお引き受けしたんです。捨てるわけにもいかないですから、それっきりアトリエの奥の棚に仕舞っていたんですけど」
それから2年ほどしたとある日。
「うちってこども絵画コースっていうのもやっていてね。とある日に“先生、こういうの描きたい!”油絵の画集を持ってきて女の子が言ったんです。その子はまだ小学生だったけれど、油絵に興味があったのね」
日向さんは、何事もチャレンジだからと見守る事にした。
「やっぱりね、好きなだけあってとても綺麗な大人顔負けの下書きを描くし、侮れないの。だから、完成がとても楽しみでね……」
そのうち、下書きの絵の中にとても綺麗な女性が1人現れた。
「完成が楽しみね、って言ってたんだけれど」
その子は下書きの中で微笑む貴婦人のドレスを綺麗な白で塗り始めた。
「たぶん、ルノワールとかに憧れていたの。ふんわりした可愛いドレス、ふわふわの髪の毛の女の子を描こうとしていたみたいでした。何日かしたらドレスは白から綺麗な薄桃色になっていて、ほぼ描き上がってて」
ただ、顔がない。
「お顔はまだ?」
「うーん、なんかね、ピシッと決まらないんだ……お顔、かわいくしてあげたいんだ……」
「お洋服は描き上がってきたから、次に来た時にお顔を描いて全体を整えていこうか」
「うん。次の教室の日にがんばる」
そういって片付けをして、少女を家に帰した時。
見送った背中にふとデジャヴのようなものを感じた。
「あれ、あれ、どうしよう、このやりとりした事がある……って思って……」
まだ乾ききっていない帰ってしまった女の子キャンパスを改めて見ると見た事あるような、懐かしいような既視感を感じた。
絵は毎日のように見ているし、似ている絵なんてごまんとある。
見たことのある何千何万の絵の中のどれかに、この絵は酷似している。
「私咄嗟に、その女の子を追いかけたんです。頭の中に数年前の事が“わー”って蘇ってきたの。女の子の描いてる絵は、数年前に自殺してしまった彼女の絵によく似ていて……彼女とも“来週は顔を書き込みましょう”って話をしていたから……取り越し苦労なら、それでいいと思って」
アトリエで絵を描いていた顔見知りに、さっき帰った子供に忘れ物を届けにいくと告げ外に駆け出した。
「後ろから追っかけて、すぐ追いついたのよ。その子、アトリエの近所に住んでて、お節介だけど家まで一緒に帰ったのね……それで、ばいばいって」
女の子の自宅玄関付近で、ばいばい、と手を振って別れた。
日向さんはアトリエに戻ってやっと心が落ち着いた心地がしたと言う。
「取り越し苦労だー、って本当にホッとしたのよ……。絵を描く時に顔を最後に残すなんて普通によくある事だわ……って……。私だって好きな絵の書き方があるのよ。顔はお化粧を乗せるような感覚で描きたいから、顔や目の仕上げは最後にしていたりね……。それをすっかり忘れて、自分の思い出に引っ張られちゃった、って思ったのよ。……でも、ね、」
次の日、アトリエから近くのスーパーへと買い出しに出かけた日向さんは一つの立て看板を目にしたという。
「……うちに来てた子の、名前が……名前が、あって、看板に……白と黒の……それはお葬式の案内で……」
あまりの事に絶句したという。
何があったのか知りたかったが突然押しかけて事情を聞くのは憚られた。
なんせ自分は、ただの絵画教室の先生でしかないからだ。
連絡がないうちは何もできない。
「……1週間後の絵画教室の日に、あの子のお母さんがやって来て、娘が亡くなったので教室を辞めることになった事と私物や絵の引き取りを、って言ったんです……」
心臓が、潰れたような感覚がした。
あの時確かに自宅まで送り届けて、取り越し苦労だとホッとしたはずなのにどうして、と。
「描きかけになっていた絵を、返そうとしたんです」
絵画を一目見た母親はその場で泣き崩れた。
そしてあの時の遺族と同じように「絵はこちらで、引き取ってください……娘の顔を思い出してしまう……」と訴えた。
「……断れなくて、それも引き受けました。それで教室に残していた私物を纏めて……。結局、何もかも深くは聞かなかった……」
顔の部分の描かれていない絵画を見て、娘の顔を思い出すと泣き崩れた母親と、数年前に同じように泣き崩れたあの母親が重なった。
あの子も顔を酷く傷めたのだろうかと思うとやりきれない思いで一杯になった。
「……それだけで、終わらなくて。3人目は旦那さんが亡くなってしまって自分一人で暇になったから、絵画教室に来てみたのって話してくれたおばあちゃん。見よう見まねで色んな絵を描いてるうちに、フランスのお姫様みたいな素敵なご婦人を描いてみたいわって言ったから“いいですねえ”って軽く言っちゃったんです……」
彼女もまた、ドレスをとても美しい薄桃色に塗り上げたあと「来週は顔をちゃんと描かなきゃね」と笑った。
帰り際、もう暗いし送りますよ、とポロリと零した日向さんに「大丈夫よぉ」と笑ったのが、最後のやりとりになる。
「…………踏切、電車待ってる時によろけて、」
通過してゆく列車が彼女の横顔を潰して行った。
身寄りのなかった一人暮らしの彼女の絵は、日向さんの手元に残される事になった。
「……わたし、お寺に行ったんです。こんなの嘘だって思いながら拝み屋さんにも相談したんです。でも“貴女は見てるだけで関係ないからどうしようもない”って行く先々で言われるんです。すごく当たるって、霊力があるって言う占い師さんにも聞きました。でも、貴女にはどうしようもないってその人も言うし、お代はいらないよ、どうにもならない、って口々にそういうの。でも、そんな、そんな事」
彼女の手元には現在、顔のない絵が5枚ある。
彼女は密やかに手を尽くした。
生徒の見送りはもちろん、時間の確認と嘘をついて夜に電話もかけてみたりした。
仲の良かった歳の近い女性には“今日はうちに泊まらない?”と声をかけた。
美味しい手作り料理とワインを楽しんだ後、彼女はふらりと姿を消し大通りを行き交う車に飛び込んだ。
トラックに頭を潰された彼女を発見したのは、深夜、部屋から出て行った事に気づいた日向さんだった。
警察で事情を聞かれたが、泣き喚き憔悴した日向さんは何を話したのか覚えていない。
ただ、同じように彼女の描きかけの絵は自分が引き取る事になった。
自分には見守る事しかできないととある時に悟った。
「ねえ……どうにもならない、どうしようもない、なにもできない、全部ないって言わないで、助けてほしいんです。私、どうしたらいいんでしょう……何もできない……。私、本当に、何にもできないんです……」
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