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sniff

「今年の冬は、新型のインフルエンザと見られる疾患が大流行しています。
高熱の後にだるさ、頭痛、味覚や嗅覚の異常が見られるのが特徴です。予防の方法は…」
ニュースが流れるのを、はっきりしない頭でヨジンは聞いていた。高熱がようやく治まったのに、まだ治らないのか。すっかり流行に乗ってしまった。
体のだるさと、味覚と嗅覚の異常を感じた。食欲が戻っても、食事が全然おいしくない。医者によると、しばらくすれば元に戻るという。このままずっとこうだったらどうしよう。不安な気持ちを抑えて久しぶりに出勤した。

警部補、治ったんですね。
やつれたな。もう大丈夫なのか。

同僚から声をかけられ、にこやかに挨拶する。
ふと、香りがした。
あれ?鼻が治ったかな?
よく嗅いでみると、オレンジのような果物の匂いだ。チャンゴン刑事に、オレンジ食べた?と聞いてみる。いいえ。

チーム長からも匂いがする。バニラに似た匂い。チーム長、香水つけてます?いいや?
スンチャンからは、コチュジャンではなく焼き栗のような匂いがした。やはり怪訝な顔をされる。
鼻がおかしくなったみたい。ごめん、気にしないでください。
この症状は続いた。人によって香りは違っていて、何の匂いか判別できない人もいた。仲のいい、近しい人は食べ物や花などの良い匂い。苦手な人やよく知らない人は、タイヤやカーボンインクみたいな無機質な匂いがした。
ヨジンはだんだん面白くなってきて、いろんな人の匂いを嗅いでまわった。
留置所にも行ってみた。悪いことをした人間からは苦くて重い、工事現場のような匂いがした。


用があり、検察庁へ来たヨジンは、ファン検事に挨拶でもしに行こうかな、と思った。会うのは久しぶりだった。
エレベーターを降りたとたん、今まで嗅いだことない匂いに気がついた。
とても良い香りだ。食べ物のようにも香水のようにも思える。ドアをノックして開くと、その香りが強くなった。
面くらって動きが止まる。

「警部補さん。どうかしましたか」
ファンシモクが目の前に立っていた。

「お久しぶりです。検察に用があったので、顔を見に来ました」
挨拶しながら、香りを嗅ぐのに夢中になった。
間違いない、ファン検事の香りだ。
引き寄せられるように近づいて深く息を吸い込んだ。
怪訝な顔をするシモクをよそに、ただ荒く息をする。
落ち着くのに、癖になる香り。ずっと嗅いでいたいと思うような不思議な香りだった。

「大丈夫ですか。様子が変です」
「検事さん、いい匂いしますね」
「え?」
シモクは驚いて、自分のジャケットを引っ張って嗅いだり袖を嗅いで確かめる。香水はつけないし、何のことなのかよくわからない。

「ちょっと動かないでください」
ヨジンはシモクの首筋に鼻を近づけてゆっくり香りを吸い込むと、なんとも言えない、幸福感に似た気分の良さを感じた。頸動脈のあたりから首の後ろにかけてが一番濃い匂いがする。
両手でシモクの肩と腕をホールドし、しばらく目を閉じて嗅いだ。
シモクはヨジンの鼻先が肌に触れてくすぐったいし、頬や唇までが密着してしまいそうでどぎまぎした。距離が近すぎるのにヨジンに押さえられて、動けないでいた。ほんの何秒かが何時間にも感じられた。
ヨジンは、はっと我にかえると、ごめんなさい!と言ってあわてて逃げ出した。部屋には口を押さえて固まっている職員たちと、耳まで赤くなっているシモクが残された。

すぐにでもまたあの香りを嗅ぎたい、と頭の中はそれでいっぱいだった。自分でもおかしいと思った。病院に行くべきだと思ったが、あの幸福感をまた味わうためならなんだってする、という気持ちの方が強かった。
翌日もその翌日もシモクに会いに行った。何も言わず、近くでずっと自分の匂いを嗅いでいるヨジンにシモクは戸惑った。職員も自分も仕事に集中できないし、毎日来られても困るし、こっちも変な気分になるし。
その日は退勤の時間が近かったので、着ているスーツのジャケットを脱いで、ヨジンに渡した。

「これを僕だと思ってください」
ヨジンは感激した。

さっそく家でシモクのジャケットを羽織ってみた。
秋の森のような香りかもしれない。木の葉や果実の甘くて深い、懐かしい香り。説明できないし、頭では理解できない。ただ浮かされたように、香りの中に浸っていた。

問題が起きた。
何日か経つと、シモクのジャケットの匂いが薄れてきたのだ。すぐに電話する。

「別の服をください。家で着ているTシャツとか、パジャマとかないですか。
洗濯してないやつです!
明日、いや今からお宅に取りに行きますね。玄関先でもらってすぐ帰りますから!」

週末だったので、シモクはちょうど洗濯しようとしていたところだった。
手に持っているTシャツを見て、はあ、と返事した。嗅いでみる。冬だしそれほど臭わない、とは思うけど。

ヨジンはすぐに来た。
「クリーニングする余裕がなくて、ごめんなさい」
ジャケットを返す。Tシャツを受け取って、ではこれで、と帰ろうとするが、濃い香りに足が止まった。少し開いたドアから、香りが溢れ出てくるのがまるで目に見えるようだった。


だめだ。
「やっぱり、お邪魔します」
顔も見ないで足早に部屋に上がり込むヨジン。シモクは当惑する。

部屋は、その主の香りに満たされて濃密だった。ヨジンはくらくらした。またたびを与えられた猫のようだった。酔っ払ったようになって、ふらついて壁に手をついた。
「やっぱり警部補さん、おかしいです。
大丈夫ですか?」
おろおろとシモクはヨジンの顔を覗き込んだ。

「大丈夫です。動かないで、ここに座ってください」
手を引っ張ってソファに座らせる。
何が起こるのかと、手を膝に置いて座っているシモクから少し離れてヨジンも座る。鼻をひくひくさせて、香りの強さを確かめながらにじり寄っていく。
すぐ隣まで来ると、体を預けるようにして肩にもたれた。
ヨジンの意図がさっぱり読めないシモクは、呆然とヨジンを眺めるしかできなかった。心臓の音が外まで聞こえそうだった。


ヨジンはシモクにもたれかかって目を閉じ、深い呼吸を繰り返した。うっとりとした濃い香りにリラックスしつつも、気分が高揚するのを感じた。胸がドキドキして顔が熱くなる。
彼の部屋で隣にいるだけでこうなのに、もしも、今抱きしめられたら、どんなふうになるんだろう。
その考えで頭がいっぱいになった。


「検事さん」
甘い声を出して、潤んだ目で自分を見てくるヨジン。
いつもの警部補ではない。頭では理解できない状況だが、その表情は、シモクの男としての本能に訴えるものがあった。

これは世に言うところのいわゆる、キスをする状況なのだろうか。そうなのか?
静かに覚悟を決めた。生唾を飲み込む。
ヨジンの唇を見つめて、狙いを定めるように自分の顔を近づけていった。お互いの荒い息を感じる。
ヨジンは、香りの濃度が今までにないほど上がっていくのを感じて、目が眩むようだった。刺激で全身に鳥肌がたった。

唇が触れる間際、シモクが気がついた。
ヨジンの額を手で覆う。 

「すごい熱ですよ」

「冷たくて気持ちいい、こうしていてください」
ぼんやりとした声でヨジンが答えた。

「病院に行きましょう」
手を離すとヨジンが騒ぐので、シモクは自分のコートを着せた。大人しくなったので車に乗せて病院へ向かった。


一晩うなされ、高熱が下がると、今度こそ体は元通りだった。ちゃんと食事の匂いや味がわかるようになったし、人からフルーツやアスファルトの匂いがすることはなくなった。ヨジンは胸をなでおろした。
人の匂いしかわからなかった頃のことは、まるで夢のようだった。記憶がおぼろげだった。気が重いがファン検事に詫びなければいけない。電話をした。

「いろいろ失礼だったかもしれません。申し訳ありませんでした。実はあまり覚えていなくて」
「治ったんですね。良かったです」
「あれ?検事さんも風邪ひきましたか?声が変ですね」


シモクがいるのは病院の待合室だった。ほかの客から離れたところでヨジンからの電話を受けている。

「はい。…僕も同じ症状みたいです。
鼻が変なんです。うまく言えませんけど、人から匂いがするんです。
熱は下がってます。…はい。
あの、このあいだ警部補、マフラーを忘れていきましたよね。
取りに来てもらえますか?
…それで、別の、服かなにかを貸してほしいんです。いいですか?
警部補さんの匂いがするものを。お願いします」

通話を終えると、シモクは番号が呼ばれるまで目を閉じた。体のだるさはましになってきた。
自分のものではないマフラーが首にぐるぐる巻きになっている。それを口の上までずり上げて鼻で息をする。もうすぐ消えてしまいそうなヨジンの香り。こんなにほのかなのに、なぜ胸の中が暖かさでいっぱいになるのか不思議だった。
悪くない。とてもいい。
早く会いたい、とそればかり思った。




おわり

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