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星の子

はじめは、兄のことを考えるだけで、自分がバラバラになって崩れるような気分だった。
砕けたかけらをひとつひとつ拾い集めるのには時間がかかった。
そのうち年月がたつと、崩れるまではいかなくなったが、いちいち切られるような痛みがあった。
まるで、自分を繋ぎ止めている楔に少しずつ亀裂がはいるように。遅かれ早かれ崩壊するのに違いはない。

兄の部屋をひっくり返して、テスルは探し物をしていた。
兄の持ち物は少ない。着古した服、自動車整備に使う道具、撮影に使う道具、写真の雑誌、本。写真に関連するものばかりだった。
写真は至る所に貼ってある。兄弟で映った写真が多い。思えばしょっちゅう記念撮影をしていた。


兄と自分は似ていない。母親似の自分と、父親に似た兄。
見た目も、性格も違った。
いつも兄は、テスルを事あるごとに褒めてくれた。

「テスルは賢いなあ、いろんなことを覚えてるんだな。兄さんは覚えられないから、代わりに写真を撮るんだよ」

よく弟にカメラを向けて言った。
「ほら笑って。いいから。笑うときれいなんだよ」

テスルは床に積まれた大きな段ボール箱の蓋をあけた。今までにも数えきれないほど、何度も中を確認した箱だ。
請求書や領収書の束、証書などのいろいろな紙類のほかに、兄が撮り溜めた大量の写真が無造作に投げ込まれている。取り出して、一枚ずつめくった。

兄は風景や人物など、いろいろな写真を撮った。一番多く撮った被写体は、いつも一番近くにいる弟だった。
何かの包み紙や雑誌の端や、書けるものになら何にでも計算式を書き連ねる手が止まらない姿。時計から始まり、電子レンジやテレビを分解しては組み立て直している姿。テサンに冗談を言って笑う姿。

思い出の風景、なんてことない静物、テスルの横顔、自画像。
写真の構図の練習として撮ったようなものも多い。
兄さん、印画紙を使いすぎじゃないの、いまどき紙も安くないんだから。
そう言った覚えがある。
紙くらいケチケチしなければ良かったな。


段ボールの中にある写真を眺めながら、テスルは自分と兄が写ったものだけをより分けた。

目当てのものは、やはり今日も見つからなさそうだった。


探しているものもまた写真だった。ただ特別な、兄と自分だけしか知らない秘密の写真。秘密にしなければいけない写真。
2人が恋人同士だったことを示す証拠写真だった。


はじめは、夜中にパニックを起こしたテスルを落ち着かせるために始まったのだった。

発達した頭脳を持て余した、幼いテスルは不安定だった。神経が昂って、暴れたり自傷することがよくあった。
その度に兄はテスルを抱きしめ、大丈夫、大丈夫、と弟が落ち着くまで、いつまでも慰め続けた。

テスルは10代の半ばだった。ある夜、テサンは荒い息をつく弟に起こされた。
「助けて兄さん、変な夢をみた。気持ち悪い」 
テスルは大きくなった自分のものを兄に見せた。
「今までで一番苦しい。どうしたらいいの」


初めての強い欲求に戸惑う弟に、どう教えていいか兄もわからなかった。
こうするんだよ。テスルのものを優しく両手で包んで摩擦した。

自分でするよりも、兄に触ってもらうほうが気持ちがよく、その後はよく眠れた。普段から不眠症のテスルにとって、それは大きな意味があった。


眠れない日が続いて辛いと、兄を起こして助けてもらう。朝から晩まで仕事をしてどんなに疲れていても、兄は応えてくれた。
そんな兄に報いたい気持ちでテスルもまた、兄に触った。

お互いが兄弟以上のものだと、2人はとっくに知っていた。テスルにとって、兄弟でありながら恋人関係になるのは、なんら不自然ではなかった。兄の困った顔は、見ないふりをした。
テスルは自分のために苦労している兄に、尽くしたかった。兄が弟を思うのと同じように、喜ぶことならなんでもしてあげたかった。

手や口でするのに物足りなくなった頃、テスルは兄のものを触りながら、ねえ、僕にいれて、と懇願した。
誰に教わった訳でもないのに。
早熟で幼い、いびつな弟がテサンはおそろしく、不憫で、愛らしかった。
そして結局願いを聞き入れてしまう。テサンはテスルの庇護者であると同時に、しもべでもあったからだ。

兄さんはお前のためなら、地獄だって行けるよ。
それが口癖だった。

テサンは弟の写真を撮った。
俺は好きなものしか撮らないんだ、と言いながらベッドの上のテスルにレンズを向けた。
物憂げに目を閉じた弟。
蕩けるような表情の弟。
可能な限り近づいて、瞬間を切り取った。
テスルは、最中の自分を撮ってもらってもよかったが、兄は拒んだ。もっぱら事後の姿をよく撮った。
撮るたびに、きれいだろ、と言って見せてくれた。


数えきれないほどあったはずの写真は、いま一枚もない。
あれは夢だったのだろうか。

中でも兄が気に入っていたのが、テスルを逆光で撮った白黒写真だった。
顔をカメラの方に向けた裸のテスルが、ベッドにうつ伏せになっている。
肩から差し込んだ朝日は真っ白で、肌や髪が透けるように照らされている。顔半分は陰になっていてよく見えないが、テスルの右目にはっきりピントが合っている。そこにだけ、どこからか反射した光が当たって、瞳の中の虹彩が不思議に輝いている。幻想的な写真だった。

兄はその写真の裏に鉛筆で
(星の子)と書き込んでいた。写真のタイトルだ。

撮ったのは朝なのに、なぜ星なの?

なんだか、宇宙の感じがするだろ?

うーん、そう?
それとも宇宙人みたいだから?僕が。

そうかもな。いつか星に帰ってしまうんだ。俺を置いて。

何言ってるんだよ。どこにも行かないよ。

テサンの作業台の一番よく見える所に、何枚かの写真と一緒にそれは貼ってあった。今は剥がされていて四角い壁紙だけになっているのを、テスルは指でなぞった。

飛び級で大学に入り、テスルが才能を開花させるようになると、周りに人が集まり出した。兄との恋人関係は自然に終わり、テスルの裸の写真は全部、ネガごと処分された。

燃やしたよ。
こんなの撮る方が間違っていた。お前の将来にあってはいけないものだ。

後悔してる?

兄はテスルの問いかけには答えなかった。


兄弟は、大人になってそれぞれの道を歩き出した。そんなある日、兄は自殺した。
死因はわからない。事故かもしれない、と周りは言うが、兄の精神が壊れていたことも皆が知っていた。

時間をかけてゆっくりと、自分が兄を壊したのだ。認めたくない事実だが、テスルは頭のどこかでわかっていた。

2人きりで身を寄せあって生きてきて、ただでさえ早く大人にならなければいけなかった兄。
テスルはお構いなしに好きなだけ甘えて、兄の全部を貪った。時間と若さと、人格すらすべて弟に捧げ、残ったのはなんだったのか。自分がすべて奪ったあとの、燃え尽きた薪のような人生とはなんだったのか。

俺のこと恨んでるよな。
俺が兄さんの青春を、全部飲み込んでしまった。
あの夜、罪を犯そうと持ちかけたのは俺なのに。自分を許せずにいたんだろう。
共犯と呼ぶには、兄はテスルに弱すぎた。ただの被害者だ。
罪の意識に苦しんで、だんだん壊れていったのだ。


探し回るのに疲れて、手を止めた。体が重かった。
テスルはその場に座り込んだ。夜に眠れない代わりに、突然気を失うように眠気に襲われることがあった。
そのまま床に横たわると、胎児のように丸くなった。

フラッシュバックする。
テサンが裸の自分を抱きしめてくれている。幸せな幼い兄弟がいた。
胸にキスしてくれる兄の顔を見ようとすると、顔がない。

驚いて目が覚めたと思ったら、まだ夢の中だった。
床に丸くなって眠る自分の隣に、兄が立っていた。

おい、こんなところで寝るなよ、と声をかけてくれる。

兄さん、どこ行ってたんだよ。
聞きたいことがあったんだ。

快活だった頃の兄の笑顔が目の前にあった。優しく、なんだよ、と言う。

やっぱりなんでもないよ。

夢の中でさえ聞けないのだ。
目が覚める間際にかけられた声が、耳に残った。

テスル、そんなにつらそうな顔をしないでくれ。

笑えばいいんだろう。兄さんが好きだったきれいな笑顔で。

時間が経つにつれテスルは、愛し合っていた記憶はすべて自分の妄想なのかもしれない、と思い始めた。
写真を見ればきっとわかる。
そう思って、定期的に箱の中をひっくり返すのを繰り返してきたのだ。


兄の気配が消えてからも、そのまま横たわっていた。

 

寝転んだままの視界に、ふと何かが映った。棚と壁の間に挟まっているものがあり、端の部分だけがはみ出ているのが見えた。
棚を動かすと、挟まれていたものが落ちてきた。小さいポスター、鉛筆やクリップ、メモや請求書のような小さい紙類がいくつか。棚の後ろに落ちてずっと引っかかっていたようだ。
その中に1枚だけ、写真があった。
テスルは恐る恐る拾い上げた。
モノクロの裸の子供が、片方の目だけでこちらを見ている。

あの(星の子)だった。
写真は一度小さく丸められ、もう一度伸ばされたように深くしわが寄っていた。

見た途端、ぎゅっと首の後ろをを何かの手に掴まれるような気がした。湿った夜明けの空気や、冷たいシーツの感触が甦った。
鼻の奥に小さな痛みを覚えた。

写真の中のテスルは、記憶より幼い顔つきをしていた。
罪が切り取られて、写真の中に閉じ込められていた。美しい名前をつけられて。
本当の俺は、きれいでもなんでもないのに。
 

気がつくと、ドクドクと耳が脈打つのが聞こえた。
自分の身体に、いきなり血が通い出した感覚がした。まるで冷えていた心臓が、強くまた鼓動を始めたように。
自分でも驚くような、はっきりとした感情があるのに気づいた。

兄さん、俺は後悔していないよ。
愛していたから。
苦しめたことだけ、申し訳ないと思う。

写真をポケットに入れて部屋を出た。

扉の外ではテサンが待っていた。幻の兄だ。幽霊かもしれない。
 
嬉しそうだな。探し物が見つかって。
夢や妄想にしておけばいいのに。現実だったと証明して何になるんだ。
聞きたいことがあったんじゃないのか。

いいんだ。
愛してるよ兄さん。

俺もだよ。
だけどお前が愛してるのは、自分自身だけなんだ。

違うよ。そんなこと言うなよ。

テスルがそう言うと、兄は悲しげに笑った。

しばらくもうここには来ないよ。じゃあな、兄さん。


外に出てからまた、名前を呼ばれた気がした。
振り返ると、カメラを構えた兄がいた。
テスル!笑って。


弟は微笑んだ。
兄が好きな、きれいな笑顔で手を振った。




おわり

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