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Scarlet Red

標的は女だ。
音もなく尾行する。
距離を詰め、真後ろに忍びより、上着の襟元を掴んで強く引っ張る。
女が倒れる。
馬乗りになって頭を殴りつける。一発、二発。
三度目に振り下ろした右手を女に掴まれると、ひねって体を返される。腕を後ろに回されて押さえられた。女が怒鳴る。
「やめなさい!!」

ナイフを取り出して振り回す。 

ーー左手で?

ナイフが女の肩に当たる。手ごたえを感じる。
相手がひるんだ隙に腕を振り払う。女と目が合う。
とっさのことに大きな目を見張り、言葉を失っているハン・ヨジン警部補。  
荒い息づかいが聞こえる。

街灯の少ない薄暗い路地。
シモクは目を伏せて深呼吸をすると、再び犯人の思考に立ち戻った。 

もう一度刺すか?それとも。
こちらへ向かう足音が聞こえ、身を翻す。
逃げるつもりで走り出すが、追ってきた女刑事に蹴られ、転倒する。
「待て!」
慌てて立ち上がり、再び逃げる。


血痕がまだ生々しい現場。
血が点々と続いていた。
殴ったのは右手。ナイフを持っていたのが左手だ。
犯人が転倒したと見られるあたりを調べる。道路脇の側溝が目についた。
側溝の蓋で覆われている下を、隅々までライトで照らす。何かが見えた。折り畳みナイフだった。


その日シモクは、担当している強盗事件の用で龍山署にいた。ヨジンは別の事件を追っており、お互い忙しかった。顔を合わせれば挨拶はするが、まともに話をするような暇はなかった。
ヨジンの帰宅時に事件は起きた。
署では、一報を聞いた刑事たちがざわめいていた。
連絡を受けて、病院から戻ってきたチャン・ゴン刑事から事件のあらましを聞いた。 

「顔を隠した男にいきなり後ろから襲われて、逃げられたそうです。切創は左肩に一ヶ所、そんなに深くないですが大きいです。あと殴打されて、ひどいもんです。顔がパンパンになって…
なんでこんなことに…。ああツイてないな」

「強盗目的か、乱暴目的か、個人的な怨恨か、どれかですね。似たような通り魔事件が近くにないか調べてください」
と返すと、ムッとした顔で言う。

「本当に驚かないですね。心配じゃないんですか。被害者は誰でもないハン警部補ですよ?知らない他人ではないのに…」

犯人が逃走しているのが気になります。早く犯人を特定して捕まえるのが、警部補にとって先決ではないんですか。
シモクは思ったが口には出さなかった。

急いで現場に向かい、ヨジンに電話をする。
「大丈夫ですか」 
「みんな大げさなんですよ。大丈夫です」
「声が変ですね」
「口の中も切れちゃって。聞こえにくくてすみません」

乱暴な容疑者相手に格闘して、いつもよく傷を作るヨジンだが、武器で切られたり一方的に殴られることはシモクの知る限り初めてだった。声を聞いた途端、かなり腫れているというヨジンの顔が容易に想像できた。心臓のあたりが変な感じがした。

「事件の詳細を聞いても?もし負担なら、明日でも」
「あら、気を遣ってくれてるんですか。嬉しい」
わざと明るい声を出しているのだと誰が聞いてもわかる話し方だった。状況を聞き取り、お大事に、と言って通話を切った。


現場で見つけた証拠品からは、指紋は出なかった。入手経路を洗うが、特定の情報には結びつかなさそうだった。


ヨジンは顔の腫れが引くと出勤した。
署に着くと刑事たちがざわついている。
労ってくれるというより、気の毒そうな目で見られるのはどういうことだろう、とヨジンは思った。
「もう出てきたのか。大丈夫なのか」チーム長が心配顔だ。もちろん、と答えるが、チームの皆の顔色が普通ではないのがわかった。
「気をしっかり持てよ」

机のPCの画面にインターネットの掲示板が表示され、写真が大きく映っている。
殴られている最中のヨジンだった。目をつぶり、鼻と口から血が流れ、防御しようと手をあげている。ほぼ同じ角度のものが3枚続いている。

「龍山署のハンヨジン 人の人生をめちゃくちゃにしたクソ女」

犯人が撮ったのか。まったく気づかなかった。衝撃のあとに悔しさがこみあげてくるが、唇を噛むしかできない。
チーム長が心配そうに言う。
「昨夜らしい。すぐ通報があってもう削除はされてるが、投稿がこの一件だけとも限らない」
「先輩、心配しないでください。僕らが先輩を守ります」見るとスンチャンが涙目になっている。チャン刑事は腹を立てている。「こんな異常者、すぐ捕まえないと」ヨジンは口を開くと泣けてきそうで、軽口も出ない。「お前がどこの誰かわかってて狙ったんだ。しばらく署に泊まれ」チーム長が言うのを黙ったまま聞いた。

現職の警察官が襲われたことで刑事たちは憤っていたが、別で進行している事件の捜査も正念場で、十分に人手を出せないのが現状だった。
人が少なくても、IPアドレスの追跡、なにより警部補の担当した過去の事件からの洗い出し、特に刃物を使った事件。そこから捜査していけば遠からず容疑者は特定されるはずだ。
シモクはプリントアウトされた画像をデスクに広げて考えた。
個人への恨みと、強い加虐心。自己顕示欲。
ほかに手掛かりがないか写真を丹念に見るが、被写体になっている血まみれの顔は、軽く眺めるだけにしてすぐ目を逸らした。
どうせ頭の中で反芻するから同じことだったが。
ぼんやりと、逝ってしまった人たちのことを思い出す。
ヨジンの声が聞きたくなった。

その日シモクは仕事を終えると龍山署に立ち寄った。


薄暗い刑事部屋のデスクで、ヨジンはテレビを見ていた。「警部補さん」
呼びかけて、シモクはビニール袋から取り出して焼酎を見せた。「どうですか」
ヨジンはにっこり笑った。

2つ並んだマグカップに焼酎を注いで乾杯した。
「署で飲むなんて。チーム長でもしないのに」
楽しそうだ。

世間話からはじまって、直接関係のない仕事の話など、当たり障りのない話をした。

「毎晩眠れないですよ。家じゃないしね」
酒が進み、ヨジンが自分のことを話し始めるのをシモクは静かに聞いた。

「あの写真。
今までたくさん見てきた被害者たちと同じ顔でした。暴力に踏み付けにされた女性たち、無念に死んでしまった人たち。
みんなどんなに怖かったか、わかっているつもりでいました。
でも、殴られた時。 
悪意を向けられて、思ったんです。暴力だけじゃなくて、恐怖が命を奪うんだって。心が殺されるんです。
たまたま死ななかった。
何が違うんでしょうね?死んでしまった人たちと、私と」

淡々と話すヨジンの目は充血しており、その周りも赤い。
マグカップをぐっとあおって、続けた。

「実は犯人の目星、ついてます」
 
疑わしいのは、1年ほど前に同級生の女子を暴行して逮捕された大学生だった。示談になったが、在籍していた有名大学を退学になったことが、ヨジンを襲った動機ではないかとのことだった。

「乱暴された女の子はショックで田舎に帰ったそうです。人の人生をめちゃくちゃにしたのはそいつなのに」

ヨジンの目が光っている。涙かと思ったが、違った。
まるで怒りが鉄のように赤く焼かれ、火花を散らしているような輝きだった。

「明日ちょっと顔を見てきます。なんでも好きなようにできると思ったら大間違いです。今度はこっちから行ってやる」
シモクが驚いて言う。
「証拠がまだじゃないですか」
「証拠なんてなくても、顔を見て、相手がどう出るかで全部わかりますよ。簡単」
「簡単ですが。荒っぽい」
「そうかもね。相手を殺さないか心配してください」
笑っているが、表情は闘志に満ちている。
普段は冷静で穏やかな人なのに、今は気が立った手負いの獣の雰囲気だ。

「死なずに生きているから。前に進まないといけません。
相手が何者なのかわかりさえすれば、怖いことなんてないんです」
シモクは危険な感じがしたが、生気を取り戻したような顔を目の前にすると何も言えなかった。
 
犯人を捕まえれば、自分の中の恐怖が消えるだろうか。
もし消えなくても、生きていかなければいけない。そのために勇気が必要だとしたら、それはどこから来るのだろう。
心に大事にしまってある温かいものを燃やし続けて、いつか尽きてしまう時はこないのだろうか。

ヨジンが眠そうになってきたところで、その日はお開きになった。


シモクは翌朝早くにチーム長に電話して、警部補の行動に注意するように伝えた。説得するという返事だったが、しばらくしてパク・スンチャン刑事から連絡があった。まわりに聞こえないように小声だ。
「チーム長が、ただでさえ人が少ないし無茶しないように先輩に言ったんですが、なんというか、意志が固いみたいで…
あ、今から大学生のところに向かうようです。応援はいません。僕だけです」

シモクは頭を抱えながら、いま聞いたばかりの住所へと向かった。
ヨジンは腕がたつし、パク刑事もいる。相手は1人だろうし心配ないはずなのに、こうも気が急くのはなぜなのか、自分でもわからなかった。


目星をつけた人物のマンション。ヨジンとスンチャンは部屋の呼び鈴を押すが、不在のようだ。
ちょうどその時、住人が帰ってきた。上背はあるが猫背気味の若い男。当人だとヨジンは確信した。

「こんにちは。私のことわかるよね?ちょっとお話を」
男は踵を返して走り出した。追いかける。

静かな住宅地だが、朝なので出勤する人たちや学生たちが歩いている。その人波を縫って追いかけた。
挟み撃ちにするつもりで二手に別れたが、入り組んだ路地に逃げ込まれ、見失う直前だった。
男のスピードが落ちてきたところでヨジンが飛びかかって服を掴み、もろとも後ろに倒れた。
もみあい、掴み合いになる。ヨジンは男に首を掴まれ、息ができなくなる。掴んでいる指をありえない方に曲げると、男は叫びながら突き飛ばしてきた。ポケットからスタンガンを出し突きつける。

「そんなもの持ってたんだ」
ヨジンは鼻で笑う。
「来なさいよ」

シモクが通行人の騒ぎを見つけ近づいていくと、ちょうどヨジンが男へ膝蹴りののち、右ストレートを放ったところだった。命中し、男の手からスタンガンが落ちる。急いで駆け寄って男を後ろ手にし、確保した。
パク刑事も走ってきて、鼻血を出している男に手錠をかけた。
「公務執行妨害で逮捕します」


ヨジンはまだ我慢ならないふうで男に言う。
「…あんたねえ、前にもやってて、やり直すチャンスをもらったのに自分でドブに捨ててるんだよ。
あんたが傷つけた人は、それをなかったことにできないのに。なんか言ってみなさいよ。
やっぱりネットでしか何も言えないの?」


「…女が… 」
男が憎々しげにうめいた。

「なに?聞こえない!女だよ、文句あるか!」
シモクは男を小突いて、また手が出そうな勢いのヨジンから離した。


騒ぎを聞きつけてパトカーがやってきた。パク刑事が、ここは任せてください、と言って男を連行した。

シモクはそれを見送ると、息を整えているヨジンのほうへ振り返った。
「大丈夫ですか」
首に絞められた痕がまだらになって残っている。何も言わず、前に切られた肩の傷のあたりを押さえている。
「傷が開きましたか」
見ると手にも大きな擦り傷ができて血が滲んでいた。  
シモクがハンカチを差し出すのを受け取った。

アドレナリンのせいで感じていなかった痛みと疲れが、ヨジンに急に押し寄せてくる。
張りつめていた糸が切れたように、両目から涙がぽたぽたと落ちた。
こぼれ落ちる涙で前が見えないでいると、2本の腕が、おずおずとした動きで背中に回ったのがわかった。
ふわりとした吐息を感じた。宥めるように背中をぽんぽんと叩かれる。
意外なところから優しくされたのに驚いて、一瞬動きが固まるが、すぐに嗚咽になった。シモクの肩に寄りかかり、しばらく声を出して泣いた。

大きく息をするとヨジンは、ああすっきりした!と言って割とあっさりと肩から離れた。涙の残る顔で、シモクに照れたように笑った。

「検事さんもいいところありますね」
はにかみながら、そんな自分を笑い飛ばすように言った。
「使い道があって良かった。この立派な肩!」
バチンと叩かれた。
シモクは痛いが、今日は怒らない。 
自分が今日ここに急いで来たのは、このためだったのだと理解した。

泣き顔を見つめているあいだ、ふと思った。もしかしたらこの涙が、いつか彼女の心の中で、なにか別の温かいものに変わるのかもしれない。
そして今、自分がすぐ近くで感じている温もりも、同じようにいつか何かに変わったらいい。


「行きましょうか」
こちらに呼びかけるヨジンの声を聞いて、足を踏み出した。
今日も長い1日になりそうだった。



おわり

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