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さようなら大嫌いな早稲田大学

 春は、曙よりも夜がいい。桜のあとの、気怠げで、剣呑で、官能的な夜の中を歩いていると「綺麗に生きたい」と強く思う。あまりに強く思うから涙が出そうになるが、「綺麗」がなんのことかは、まだ知らない。体を売らないことだろうか?体を売ることは汚いのだろうか?嘘をつかないことだろうか?自分に?


 私が桜の中、初めて大学に新のスーツを着て行った数年前の晴れた日を思い出す。春の陽の淡い色調に、スーツの黒が眩しい感じで浮いていた。入学式の日に偶然話した数人とは、まだ時々遊んでいる。各々色んなことが変わったのに、なかなかないことだと思う。たとえば、ハンサムショートの彼女はまだ髪が長かった。たとえば、もはや別人なのではないかというくらい性格が柔らかくなった子もいる。私はなぜか今より3cmくらい背が低かった。毎日鏡を見て泣いた。200万円かけて顔を変えた。特別だと思ってたものは、思っていたよりもくだらなかった。2人はそれなりに醜く終わり、私はそれなりに彼を憎んだ。「なによりも」ではなく「それなりに」だとは最近知った。そこから二度、桜が散る姿を見た。折に触れなければ、彼を思い出さなくもなった。

 ここに至るまでに、何度血反吐を吐いたのかわからない(比喩表現ではなく血を吐いていた)。ありふれた苦しさかもしれないが、私にとってはひとつだけの大切な痛みだ。大学生活の全てを憎んだ。流され流され高校から続けた軽音楽 、捨ててしまった選択肢、無碍にしてしまった人たち、蔑ろにしてしまった自分のこと……
 大学には今でも決して行きたくない、大隈重信像など見てしまったら嘔吐しそう。だから卒論を書くために借りた本を今でも返していない。今が穏やかに幸せだから、忘れたままでいたい。大学から再三催促が来ている。すみません。17歳の時、なんとなくとはいえ、ちゃんと行きたいと思った大学だったのにな。すっかり自分が変わってしまったことをしみじみ思う。身長だけじゃなくて。トマトが食べられるようになったし、ビールが飲めるようになった。ぱっちり二重になったし、髪はショートになった。自分を大切にするようになったし、自分の精神が年相応よりかなり幼いことを知った。大学生活への怒濤のような気持ちを処理できないくらいに。本当はこうしたかった、こういうふうに振る舞いたかった、もっと大切にすればよかった、でもこれが最良だった、許せない、ごめんなさい、もうなんとも思わない、恥ずかしい……。悲しかったことばかりじゃない、忘れたいことばかりじゃない。なのにうまく言葉にできなくて苦しい。こんなにとりとめも脈絡も中身もない日記を書いたのは初めてだ。
 まだどうしたらいいか分からないから、思い出をなんて呼んだらいいか分からないから、もっと私が大人になるまで、今はひとまず「大嫌い」ということにして、もうさようなら大嫌いな早稲田大学。本は来週返します。

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