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週報。実在性と創造性のトレードオフ

流石に春だと言っていいでしょう。そんな日にカフェ巡りがてら茶葉屋さんに行ったところ「お花見ですか?」と訊かれた。話しかけられること自体珍しいけれど「紅茶屋巡りです」と答えるとさらに珍しがられる。男の集まりでのそういうのって見たことないらしい。へー。という話をした店で一目惚れして買ったのがヘッダー左下の紅茶缶。茶葉はアニバーサリーブレンド。ダージリンの良し悪しはまだよくわかんないかも。英国における煎茶みたいな位置づけという理解をしてるけど。


ゲームはコンピュータ

「改造は悪」な意識はチートとごっちゃにしてる。mod文化はコンピュータ遊びとしてのゲームという意識が生きてる。

鈴村健一のラジベースというラジオがあって、意識して毎週聴いている。タイトルコールで本編を始めるまでのアバン?の時間がとにかく"あの頃のオタクトーク"的に濃くて。鈴村さんは今49なので自分も知らないようなゲーム、特撮、アニメの話なのだけど。

その中で昔の雑誌に「ファミコンを改造しましょう」と広告が載っていた時代の話題があった。昔はソフトのコピーが当然のように出回ったとか、それがコピーガードで対策された、とか。
それでパソコン文化の延長線上だったのだなぁ、と。パソコン自体は自作PCに限らず、自分で改造とか普通だものね。ゲームの分野で今に生き残ってるのはMod文化か。なんとなくmodに対して忌避感があったけど、知らずにチートとごっちゃにしていたのだな、と。長らくやっているのがポケモンだからかも。対人要素があるし。
個人で、あるいは参加者の了解の上でなら好きに遊んでもいいのよね、と認識を更新。

ラジベースというラジオで好きなところは、そういうパーソナルな思い出が出てきて、自分の思い出が連想させるところ。
ラジオって作られていない現実に近いメディアなんだな。関わってる人数が少なく話し手のパーソナルが装飾されづらいという意味で。対してテレビはたくさんの人数が関わって虚構を作り上げる。

少し前、「30分尺のアニラジは短い」という話をしたがそれはパーソナルが出てくる前に終わるから。用意してきた話題だけで終わってしまうのだ。もちろん、30分尺でも意図してパーソナルを見せているラジオもあるし、好きだけど。

寝起きで900、全力換気で600弱

半年前?くらいからゲームを中心とした批評コミュニティのようなdiscordに属している。概ね読み専なんですけれども。

そこではゲームに対する語り合いは元より、日常のよしなし事も投稿されてて。良さそうだったから二酸化炭素系を導入した。なんだか、似たような思想で日々を生きてる人々に感じて、真似するのが効率的に感じたから。

二酸化炭素濃度をメトリクスにして扱えるようにすると日々の脳への酸素供給に注意を払うことができる。午後の眠気とか、朝目覚めた時の清々しさとか、そういうことを気にすることができる。これが数値化することの優位性だと思っていて。体重計しかり、睡眠スコアしかり、掴めるようにして初めて改善に取り組める。

測りすぎの世界に近づくけど。

今週のコンテンツ

『シチズンスリーパー』

起動してすぐはテキスト表示のUIからディスコエリジウムと比較してしまったが、実際にてるのはテキストアドベンチャー。

シチズンスリーパーでは3Dモデルでのフィールド移動など、まどろっこしいことはしなくて2Dのマップで行き先を選択して、行動を選択することを繰り返す。これは長尺の物語を語る上で有効性があって。身体性をすてると「一日経った」の一文で時間を進められる。身体があると時間の経過を現実の尺度に縛られる。リアルとフィクションのトレードオフ。

身体がないことで、2-3時間で何日もの時を過ごし、濃厚なスリーパーとしての経験を積んだ。
想像力に委ねると描写を省ける。よって1秒1秒の説明が不要になれば進行が早くなる。なるほど。ARPGでの「意味ないな」と思う移動時間の原因はこれか。

シチズンスリーパー、クリアには10時間ほど。くりあというか平定、という感じ。大きなイベントをこなすことで平和になり、その世界での暮らしが日々の暮らしとなる感覚。まるで現実のように、やり直しのチャンスは与えられるし、変化のない日々から脱出したくなる。
しかし、この世界に居場所を作ることで離れられなくなる。港ができる。そんな感覚に人生を感じた。良作。


最近はダイエットを試みていて。まずは一日の中で食事する時間を減らそうとしている。そして一度の食事を減らすために毎食小さなコースを作る。つまりデザートを食べれば食事の終わりというフラグ管理だ。あとは最初にスープを入れて腹を膨らます、とか。結果は出るかなぁ。

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