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週報。具体のデザインと抽象のルール

先週はひたすらにPCのクラッシュと闘い続けてて。ちょっとGPUを頑張らせるとプッツンするへそ曲がりを宥めすかしてを作業していた。

そんな日々に隙間はなくてご飯とPCの写真しかない。カッピカピのCPUグリスとテッカテカのステーキ。


ルールブック作りは具体と抽象の行き来ぽい

ルールブックを作るのが妙に難しい。
デザイン作業は具体的で、可読性と情報量をコントロールして。
ルール作りは抽象的で、プレイヤーの感情や体験を設計する。
これを同時に行うには具体と抽象の両方の思考をやり続ける必要がある。できるはずもなく初版のルールブックは以下の惨状である。

やめないか。情報の洪水を「バァーッ」と浴びせるのは

うーん、情報が漏れている。また、説明なしのゲーム内用語の乱発。キャラ紹介にスペースを割きたいがために、パッケージ都合のB5四つ折り用紙の上には情報が無造作に配置されている。

なぜこんなに難しいかを考える。
例えば、TCG(トレーディングカードゲーム)がそのまんまではない程度に似たような用語と動き(タップ/アンタップに対するアップ/ダウンであるとか、スタンド/レストであるとか)をするのは巨人の肩に乗ることに近しい。先駆者によるユーザへの教育にタダ乗りしている。これが出来れば楽だが「カタンみたいに…」と書いてあるルールブックは存在しないし、それが言えるのは聞き手がカタンを知ってる確信があるインストの時だけである。完全新規のボードゲームではそうはいかない。中途半端に紙面を設計して配置するも、書きながら情報不足を自覚して、都度都度書き足した結果ですな。

悲惨な初版をコテンパンにしてもらうためにEJPテストプレイ会へ行っていた。やっぱり頼れるのはデキる人の目である。

本当に圧倒的感謝。細部の見た目に執着して全体の構成を見失った破綻をしっかり言語してもらった。自分からコテンパンにされにいったもののちょっと挫けたが、立ち直って出来たのが第二版。

よ、余白が足りない…

情報がぎゅっと詰まりすぎている点が見づらい。が、これを言えるのも一通り書き上げたからこそである。書き終わる前から俯瞰はできない。文体の美しさを意識しながら、メッセージの構成を思案することはできないし、コーディングしながら設計の美しさを思うことはできないのと同じ。

意識的に見方を切り替えるにはそう…、媒体を切り替えるのが明確なトリガーになりうるだろうか。ルールブックであれば印刷して書き込みをするのがいい。デザインツールに向かってる時には見えない構成の悪さが可視化される。

とりあえず書き切ったルールブックを↑の予約フォーム内に掲載した。よければ見てやってください

行動の積分が習慣となり、習慣の積分が能力となる

これを信じている。が、行動のやり方にも注意すべき点はあるよね、と。

『ミステリという勿れ』最新刊を読んでいるとエア整くんが「努力の方向が大事だと思ってて」と述べていた。

特に同人的な制作活動は〆切に向かって二次関数的に投入リソースが増大していく。同時に発揮される生産量も増大していき〆切前日にその能力は極大となる。そして、一日中"それ"に没頭することができる。

これは楽しいが習慣にできる努力ではない。毎日〆切前日のパフォーマンスを「やれるわけがない」というのは誰にとってもそうだろう。

また、極大のパフォーマンスは他の習慣を破壊する。毎日やるようにしてた運動や、食生活、よりよく生きるためにしているあらゆるものを押し潰すのは差し引きマイナスのようにも見える。

文化祭前夜のような働き方は「楽しいが有効ではない」。だって、そうだよね。仕事も夏休みの宿題も「毎日コツコツやれ」って言ってくるのだから。

グエーって言いながらタスクを細分化して〆切を設定していくしかない。仕事みたいだ。
逆に言うと、安定したパフォーマンスを生み出すための仕事で使われている進め方が同人活動においても有効でないわけはないのであった。

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