見出し画像

「差別だ」「事実だ」という言葉だけでは終わらせられないヘイト談義

前置き

 本年5月に書き出して、そのまま途中で放置していた記事を雑にまとめて供養します。筆者は心理学・社会学関連の専門的な知識は持っていませんし、記事内には何らかのエビデンスの提示もなく、あくまで個人の思考体験の綴り書きですので、ご了承ください。

序章

 迷惑な人がいる。だったら、皆、その「迷惑な個人」に怒っていればいいのだ。しかし、世の中には「属性へのヘイト」が溢れている。人種、性別、血統、国籍、宗教・思想・信条、支持政党、職業、収入、学歴、趣味、恋愛経験、性的指向、容姿、疾病・障碍の有無などなど、様々な人間が各々他者をカテゴリーでくくり、個人の枠を越え「属性」にヘイト感情を向ける。何故、こんなことが起きるのか。

 主体者が最初から「悪意の差別主義者」なら、好き好んでやっているだけとも解釈できるが、主体者自身「どこかおかしい」「あのカテゴリーの人、皆がそうではない」との理性的な認識を持ちながら、それでも『属性への嫌悪感』を抱いてしまう場合さえあるのだから、不思議である。当記事は、この後者のパターンにフォーカスし「属性にヘイト感情が向く仕組み」を紐解き、そこから「感情としての属性ヘイト」には「一定の正当性」が見受けられるとの見方を提示しつつ、同時に「理性としての属性ヘイト」は基本的に不合理であり、危険性を持ったものとして言及する構成となっている。

 ありとあらゆる差別が吹き荒れる世の中にあって、当記事の考察が、自分の身の内に生じる「属性へのヘイト感情」と如何に向き合うべきか、また、そういった感情を他者から向けられた場合にはどう受け止めたらいいのか、誰かが思考するに当たって一助となれば、この上なく嬉しい。

何故、嫌悪感が個人に留まらないのか ~ 感情としての属性ヘイトの正当性 

 初っ端から何だが「感情としての属性ヘイト」はほとんどの場合で正しい。ここで言う「正しい」とは社会正義に適っているとか、優れた感性という意味ではなく、全く不合理に生じるものではない、程度の意味だ。個人への嫌悪感が「属性に派生する」事象にはそれなりの理由がある。具体的には、次のようなものが考えられる。

1.異端嫌悪

2.防衛意識

3.代替攻撃

4.属性強調

 この中で土台となっているのは「属性強調」だ。筆者は「属性強調こそが『個人への嫌悪感が属性に向く仕組み』」そのものだと捉えている。他の3つは、この土台の上で絡み合う「ヘイト感情の発現型」のバリエーションのようなものである。

 他方で、理性的な観点に立つと「属性ヘイト」は一転して不合理である場合が多い。これもまた当然である。感情に任せて個の問題を全体に適応させようというのは乱暴であるし、その内容ややり方によっては手酷い非礼に当たる。非礼が何故駄目か、他人の感情を無闇に傷付ける行為に正当性がないのは勿論だが、非礼を働かれれば、相手の心には新しく憎悪、反発心、不信感等が生じやすくなり、多くの人がそういったネガティブな感情を抱えている状態というのは、社会の形として望ましいものでもないだろう。感情論の枠を越え、下手をすると治安の悪化や秩序の乱れにも繋がりかねず、社会における安全保障の観点からも良くない。

 属性へのヘイト感情には、このように二つの面がある。個人の感情としての正当性と、理性的な観点から見た際の不合理性だ。よって、属性ヘイトを抱いてしまう人間は「自身が抱いてしまう感情」を頭ごなしに否定する必要はなくとも、その感情のままに振る舞うべきではないだろう。「自身が抱いてしまう属性ヘイト」の不合理性を認識し、向き合っていく姿勢が求められるのではないか。

 また、この二面性を意識することは、自身が他者から「属性に紐付くヘイト感情」を向けられた場合の心理的対処にも役立つものと思える。次項以降ではこの点を踏まえ、先に記載した「個人への嫌悪感が『属性に派生する』理由」を順に解説していく。

飛び火する嫌悪感の原因1 異端嫌悪

 「個人への嫌悪感が『属性に派生する』理由」について、1番に紹介するのは異端嫌悪である。異端なものは嫌、理解できないものは嫌、慣れていないものは気持ちが悪い、といった感情は多くの人が持つ。この「未知」や「不確実性」への嫌悪感が「属性」と結び付いた場合に生じるのが「異端嫌悪による属性ヘイト」である。

 ぱっと見で不快感を煽られたものに対して反射のように蓋をしたがる、あるいは、どうにも馴染めない、奇妙に見えて不気味、気持ちが悪いと思ってしまうものに、まとめてシャッターを下ろそうとする拒絶的な心理が関係しており、その過程に「個人への視点」や「情報の精査」は存在しないからこそ、異端なものへの嫌悪感は容易に「属性全体へのヘイト感情」に発展するのだ。つまり、逆から述べると、この属性ヘイトには無知や不慣れが密接に関わっている。

 失礼な話である。つくづく胸の内に感情を持つのは自由だが、態度として表に出すのなら、そこに正義はない。感情の主体者としてこのヘイトと向き合うのなら、うっかりヘイト感情を吐き出してしまう前に「不慣れなものへの条件反射をしようとしているのではないか(=この嫌悪感に理性に照らせる正当性はないのではないか)」と自問するだけで良いだろう。

 他者から、このヘイト感情を向けられた場合には「多分、この人は自分のような人間に不慣れなんだな」との解釈で一応の納得はつけられるかもしれない。

 他方、この仮説では、ヘイト感情を持つ主体者が「これは、特定の個人の問題だ」と認識できている場合でも「属性ヘイトを抱いてしまう」事例については、機序を説明できない点に注意したい。異端への嫌悪であれば、そのまま直接的に属性全体への拒否感情に繋がるのが順当だろうが、そこに「個人への視点」が介入しても、なお、異端への嫌悪感情が属性に向いている、という場合には恐らく関係が薄い。

飛び火する嫌悪感の原因2 防衛意識

 「個人への嫌悪感が『属性に派生する』理由」について、次に紹介するのは防衛意識である。異端嫌悪と重なる部分もあるだろうが、こちらは要するに「犬に噛まれたことがあるから、犬が嫌い」のような嫌悪感である。属性で嫌うことによって自分を守ろうとしているわけだ。

 嫌な目に遭った経験ゆえに、その記憶を呼び起こす属性に忌避的な感情や不快感を抱いてしまうのは自然である。また、一度嫌な目に遭ったのに、その時の気持ちを忘れて同じことを繰り返してしまっては学びがない。この属性ヘイトはそういった本能的・感覚的な「学習」の結果、生じるものと推察できる。

 しかし、現実的に考えるのなら、一匹の犬に噛まれたからと言って、その後、人生で遭遇する全ての犬が自分に噛みついてくる可能性は高くないだろう。具体的な行動に反映させるとすれば、やはり、合理性には欠けている。それでも、犬を避けるのも嫌うのも、個人的な範疇では自由だろうが、表立って嫌悪感を表明することに「個人の感情」の範疇を越えた正当性はない。

 感情の主体者としてこのヘイトと向き合うのなら、自分自身の「素直な感情」はそのままで無理に消そうと頑張ることはないのではないか。経験に基づく不快感は理屈で拭えるものではないからだ。一方で、理性ではその感情に付随する「合理性の乏しさ」も自覚する。犬を嫌いになってしまったのなら、無理に犬と関わる必要はないにせよ、自分の経験はあくまで他者にとっては無関係と認識する分別は持っておきたい。

 向けられた場合のアプローチも同様で「感情そのもの」は否定しない。ただ、その感情を論拠に不合理な振る舞いが見受けられるなら、それを受け入れる義理はないものと捉える。

 他方、この仮説では、一つ目にヘイト感情に伴う攻撃性、二つ目に嫌う範囲が絞られる原因はそれぞれ包括しない。憎悪の感情は攻撃性を伴って発現しやすいが、属性全体への嫌悪感の理由を防衛本能に集約するこの仮説では、ヘイト感情に伴う攻撃性は説明できない。カバーしているのはあくまで、忌避感や恐怖心といった消極的な感情が中心である。

 さらに「犬に噛まれたことがあるから、犬が嫌い」だとして、そこで嫌悪感のターゲットが敢えて「犬」にのみ絞られる原因も守備範囲外だ。例えば「公園で犬に噛まれたから公園が嫌い。全ての公園が憎い」とはなりにくいだろう。「犬に噛まれたことがあるから、犬が嫌い」となるなら、その人は恐らく「不快な行動の主体」として「犬」を認識しているはずなのだが、その主体が個人に留まらず、やはり属性に向いている。これは、別の機序によるものと考えられる。

飛び火する嫌悪感の原因3 代替攻撃

 「個人への嫌悪感が『属性に派生する』理由」について、次に紹介するのは代替攻撃である。名称から察せるかと思うが、これはことにアグレッシブな属性へのヘイト感情だ。

 横道に逸れるようで申し訳ないのだが、スプリーキラーと呼ばれる犯罪の類型があり、これは短期間の内に多くの人を殺害したタイプの殺人鬼を示す言葉なのだが、聞くところ、このタイプの殺人鬼には「実際に殺した人たちとは別に、本当に殺したい人間がいる」ことが少なくないらしいのだ。不謹慎かもしれないが、代替攻撃による属性ヘイトが発生する機序には、その流れと類似した向きを感じる。

 スプリーキラーの犯罪について、あるスプリーキラーに「本当に殺したい相手」がいるとする。その人物は、過去にスプリーキラーを苛めたり虐待したりしていて、世間の感情においても有責と見なされるとしよう。しかし、どのような事情があろうと赤の他人を手にかけたなら、スプリーキラーの犯罪は世間の感情としても基本的に肯定されないはずだ。むしろ、世間からは「最初から、そいつだけを殺せば良かったのに。そしたら同情の余地だってあった。周囲を巻き込むな」のような突っ込みが降り注ぐことになる。

 だが、この架空の世間の声とスプリーキラー型の犯罪を照らし合わせて考えてみると、筆者はどうにもしっくりこないものを感じる。つまり、スプリーキラーにとって、殺害した無関係の人々は「本当に殺したい相手」への憎悪を発散するための身代わりであったのではないかと思えてしまうのである。ろくでもない話だが、そこに人格は必要なく、ただ「抑圧された憎悪を発散するための対象」が欲しかったのではないかと疑ってしまうのだ。

 これに対し「本当に殺したい相手」は人間である。スプリーキラーと「本当に殺したい相手」の間には関係性が存在し、相手も人格を持つからこそ、スプリーキラーは苦しみ、抑圧されたのではないだろうか。ならば、そこで相手を殺してスッキリとなるのだろうか。その先には、自分自身の人生を破壊しかねないほどに関心を持たずにいられなかった相手と、ついにリレーションを築くことができなかった敗北感さえ付きまとうのではないかとも思えてしまう。

******

 素人による犯罪心理の分析ごっこはここまでにし、話を戻そう。1対1で人と人が関わる時、そこには関係性と事実が存在する。人は人との関わりの中で、鏡に身を写すように自分自身を知っていくし、事実の上で結果に対する責任は配分され、中々、相手だけを悪者にすることはできない。あるいは、相手が他の人々からも本当に「どうしようもない奴だ」と評されるような人物である場合には、もう片方の人間には心理的にも物理的にも「決別」という手段が提示される。

 感情や仲間意識だけで同調できるコミュニティーに所属しているのなら話は別だが、本来、そこに客観的な視点が存在するのなら、相手が人格を有している以上、一方的に憎悪を発散してスッキリとは行かないようになっているのである。だが、相手から人格を奪えば、一方的に憎悪を発散し、スッキリできる対象が出来上がる。その方策の一つとして発生するのが代替攻撃による属性ヘイトなのだ。

 特定の個人によって味わされた不快感を、特定の個人に絞って吐き出すと、自分の至らなさや執着心も浮き彫りになってしまう。それはみっともないし、事実として存在する双方の関係性の中での自分の責任を追求される恐れもある。そこで「本当の憎悪の対象」をぼかし、話を「相手の属性」に拡大することで、気持ちよく感情を解消しようとする

 このタイプの属性ヘイトは、SNSが発達した現在、可視化され、より多くの共感を集められるようになり、まさに今が全盛期のようにも感じられる。「抽象的な概念」へのヘイトとも言い換えられる。

 感情の主体者として、この属性ヘイトに向き合うのなら「嘘を吐かないようにする」「現実を捉える」これに尽きるだろう。他者から向けられた場合には、相手の詭弁を見抜くことだ。この属性ヘイトに溺れる者は、傾向として嘘つきで卑怯者である。他人を都合のいい妄想の中で悪者にして憂さ晴らしするばかりで、現実では進歩から逃げている人間である可能性が高い。それは知っておくことである。

 他方、この仮説でカバーしきれていないのは、愚痴をこぼしたい、怒りの感情を発散したいという思いとは無関係に生じる「属性ヘイト」である。純粋にじんわりと「属性に対して向くヘイト」は、この仮説では説明できない。そもそも、当記事のスタンスは一貫して「属性へのヘイト感情は、本人の理性的な認識に反して生じ得ることがある」といったものなので、属性へのヘイト感情全般を代替攻撃への願望と解釈するのは乱暴だと思うことも明記しておく。

飛び火する嫌悪感の原因4 属性強調

 さて、いよいよ「個人への嫌悪感が『属性に派生する』理由」について、最後の仮説となった。始めに記載した通り、これまでの仮説はあくまで「ヘイト感情の発現型」のバリエーションのようなもので、土台にあるのはこちらだと筆者は認識している。

 属性へのヘイト感情が生じる理由としての属性強調とは何か。ざっくり書くと「身勝手な言動が往々にしてその人の素の属性を強調させる」現象を指す。この為に、個人に対する嫌悪感は、度々その個人が所属する属性への嫌悪感およびイメージダウンに繋がる。

 同じように身勝手な振るまいをする人間がいたとして、その身勝手の内容にも寄るが、人々の感性が「身勝手でない人」と「身勝手な人」という区分での認識をせず、それぞれの『身勝手な人』に対し、何故か属性への嫌悪感を生じる場合があるのもこの仮説では説明できる。また「属性ヘイトはあっても、その逆、つまり『個人の業績から、属性そのものへの賛美的な感情が発生する事例』はあまり見受けられない」理由についても一つの答えを提示する。

 それというのも、身勝手な言動というのは、実行主体者の視点が大概の場合で "私的" なのである。そこに公的な視点はないか、もしくは、ないように見えることが多い

 その属性の人が持ちやすい素の欲望に沿った行動が、身勝手なものとして体現されるのだ。公的な視点の持ち主であれば、属性に応じた欲望を持っていても、周囲の様子を伺って抑制する。そこにはあるのは協調性であり、属性の個性ではない。属性に寄らず、他人への思いやりや秩序を重んじる気持ちのある人なら皆そうするのだ。だから、そこで属性は強調されにくい。

******

 解説がこれだけでは分かりにくいかもしれないので、架空の具体的な例示をする。例えば、多様な動物たちが暮らす王国があったとしよう。そこでは草食動物も肉食動物も仲良く暮らしており、補食するもの・されるもの、という関係性はないものとする。

 だが、そこである日、草食動物の誰かが肉食動物の誰かに食べられてしまったとする。そういうことをした肉食動物は、沢山いる肉食動物の中のたった一頭だ。しかし、皆、肉食動物は「本来、草食動物を補食できる」ということを知っているし「肉食動物なら、草食動物を食べたいという欲望を持つもの」というのも分かっているのだ。また、仮の話として、もしも補食事件を起こした肉食動物が、草食動物に生まれていたら、今回のような事件は起きていないということまで、誰もが想像できるものとする。

 どうだろう、嫌な感じがしないだろうか? こうなってしまうと、肉食動物たちに「結局、お前らは」という目を向けるものも現れそうではないだろうか。属性強調による属性へのヘイト感情とはつまり、属性原罪論に根差しているのである。

 なお、ここでは、肉食動物、草食動物、そして食欲に引っ掛けて話をしたが、私は枠を狭めた話をする気はない。ことに食欲は性欲のメタファーとして使われがちであり、そして、性欲の話になると、昨今の情勢では何かと男性が槍玉にあげられやすい印象を受けているが、女性がいわゆる「女性に特有の武器」や「女性の特権」を使い「女性の本能」に忠実に身勝手な振るまいをすれば、その女性の言動は恐らく、個人の話の枠を越え、他者の内面に女性という属性への嫌悪感を呼び起こすのではないだろうか。これが「嫌な人」で話が済まず、わざわざ「嫌な女」となる由縁なのである。

ヘイト感情の探求

 個人への嫌悪感が、個別の問題として収まらず、属性に対するヘイト感情として派生する根源には属性原罪論が存在しやすく、それは「個人の私的で身勝手な行動」によって煽られやすい、以上が筆者が現在持っている認識だ。

 改めて「感情としての『属性ヘイト』の正当性」と「理性としての『属性ヘイト』の不合理性」にも触れるが、ここまで書いた通りに「属性ヘイト」にも発生する由縁があるし、ことに最後に記載した属性原罪論については、動物たちの王国において、肉食動物に向けられる可能性が想定できる「差別的な視線」にも気持ちとして共感できるものはなかっただろうか。

 動物たちの王国において、肉食動物に「差別的な視線」を向けた者たちに「差別は駄目だよ」と言ったところで、彼等が肉食動物に抱いた不信感、嫌悪感は拭いされないだろう。何故なら、彼等の感情にもきちんと理由があるからだ。彼等の「感情」のみであれば、頭ごなしに否定できるものではないと思う。

 しかし、それでは肉食動物たちはたった一頭の、同属性だっただけの他者のために、原罪論をぶつけられ、属性ヘイトを向けられることに甘んじなければいけないのか。筆者はそんなことはないと思う。他の人が持つ「感情」は仕方ないかもしれない。だが、その感情の扱いには責任が生じる。これは、実は肉食動物と草食動物の両者に言えることなのである。

 属性が何であれ、他の肉食動物は何も悪いことはしていない。それなら、彼等への加害は「悪」であろうし、ヘイトスピーチをぶつけたところで、どちらかが王国を出ていく目処が立たないのなら、それは隣人との関係を悪化させ、不信感を増幅させる蛮行にもなり得てしまう。

 仮にもし、草食動物たちがヘイト感情のまま、肉食動物に加害することが「悪」でないのなら、肉食動物側としても、王国の規範に従う意味が薄れてしまうだろう。何せ、相手は「自分の行い」という変えられる点ではなく「自分の属性」という変えられない点を取り上げて憎悪を向け、加害してくるのだ。その時点で話し合いは困難になり、どんなに「お前らが悪いから嫌われているんだぞ」と言われようと、唯々諾々と従うばかりではなくなる流れも予想できる。「無法な一頭」の問題に留めておけば、それで済んだかもしれないところで、王国の秩序が深刻に崩壊してしまう可能性がある。そして、秩序が失われた先にあるのは「力こそ全て」であり、弱い者にこそ不利な無法地帯のディストピアだ。

ヘイト感情の不合理性

 感情としての「属性ヘイト」は仕方のない面がある。理由があって生ずるものだし、内心は自由だ。しかし、理性的に考えるのなら、感情のままに属性ヘイトを表に出す行動は今一つ合理性に欠ける。「属性原罪論」と、それを根拠とした「他者への攻撃」を肯定するなら、自分自身もいずれ「"存在から" 否定され、攻撃に晒される」恐れもある

 まとめとして「属性強調」による属性ヘイトに感情の主体者として向き合うのならば「大局的・社会的な視野で考える姿勢」を意識することが重要ではないだろうか。あとは他者への「思いやり」である。憎悪に駆られ、自分と直接的には関係のない他人を傷付ける振る舞いに何の正当性もない。そして「正しくない行い」とは「悪い結果を招くからこそ」正しくない。一時の合理に反した激情に身を任せれば、ゆくゆくは自分の首を絞めかねないのだ。

 さらに、激しい感情を道義的に「正しい」と思ってしまうと、そこで冷静さは失われる。かつて、ドイツではアドルフ・ヒトラーという政治家が、特定の人種への嫌悪感を煽ることで独裁政治をものにし、国の頂点に立って戦争に突き進み、そして、敗戦した。アドルフ・ヒトラーはその生涯で「民衆が思考しないことは、支配者にとっては幸いである」との言葉を遺したとされており、その大衆煽動術の肝は「利口な人たちの理性よりも愚かな人たちの感性に訴える」といったものであった。特に著名な例を引いたが、いつの時代でもどこの場所でも、冷静さを欠いた大衆は、利権家の良いカモなのである。

 属性原罪論に根差したヘイトを向けられる側としては「自分にも権利がある」と信じることだろうか。同属性の犯した罪は、同属性であるという点で他山の石や反面教師にできる部分もあるかもしれない。しかし、最終的に罪を犯したのはあくまで「当人」であり、自分ではない。そこを間違えないことだ。迷惑な個人に遭遇したことで、属性ヘイトを抱くようになってしまった人には、時に同情できる部分も共感できる部分もあるかもしれない。だが、その感情が他の誰かを傷付ける免罪符にはなりえない。

 一応、現代は誰にでも「基本的な人権」があるとされている。不当な行為を前におもねる必要はないし、他人にもそういったことを強要してはいけない。自分にとって不快な人間も、嫌悪感を持ってしまう属性の相手も、共に社会の一員であり、頭ごなしに否定しても、その行いが良い結果をもたらす可能性はほとんどないだろう。

注釈

※当記事のトップ画像はphotoAC様からお借りしました。

※当記事では文字ばかりで怖いので、この後、画像の追加を行うかもしれません。

おまけ

当記事の話題にも関連し、過去に興味を引かれた呟き/記事の宣伝。

■自尊感情に焦点を当てた仮説

■差別という概念との付き合い方


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?