私はボラード病患者であるべきなのかもしれない(読書感想)

吉村萬一『ボラード病』を読んだ。

これはディストピアの話。我々の現実の延長に起こり得た、一つの可能性の話。

私は「ない話」を「あるかも」と言ったりするのが大好きなので、この本に対してもそういう風に吹きまわる姿勢だ。

しかし、それを否定できる人間がいるのか?

この話は絵空事だと(絵空事なんて素敵な話でもないのだが)。現実とは全くの無関係だと。こんなに愚かな人間たちは実在しないと。言い切れる人間が。

まあ、非難はされそうだけど。


この話が現実世界と我々をモデルにしていることは馬鹿の私でもわかる(いや馬鹿だからそう思ってしまうのか?)。
しかし、それにしては薄気味悪い違和感を与える描写が各所に散りばめられている。

一人称形式で子供を語り部にしているからか。
言語能力の拙い子供の視点ならこんなものか。
それともこの子は「ちょっとかわった子」という位置づけなのだろうか。
だからこの子を通して我々に届く世界観はこんなにも歪んでいるのか。

こっちに横顔を向けている級友が、私を見ている気がする。
年下の子達が互いに寄り添って人の字の形になって歩いているのが可愛い。
友達が書いた別の子の似顔絵。それを真似て書いた絵を「あなたの似顔絵」とプレゼントする。友達は喜んでいると思った。
級友が自分の誕生日にくれた似顔絵を見て「ちゃんと私をみて書いている。世界はこれで良かった。見たままなんだ」と嬉しくなる。

歪んでいるのは、病気なのは、どちらなのか。


これは、社会により停止させられた思考を再起動するためのワクチンです。

”正しい”世の中が嫌いな人間には、丁度いい。


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