見出し画像

なぜ誰に対しても誠実な人は不気味なのか

学生時代、「あいつは人によって態度を変えないからいい奴だ」と言われてる人がいたんですけど、今思えば全くそんなことないですよね。というのも相手によって態度を変えられる人の方が誠実であり、相手を思いやっていると思うんですよ。

相手によって態度を変えないコミニケーションスタイルは、そんなに素晴らしいのでしょうか。

コミニケーションの型に一貫性は必要か?

僕たちの価値観や判断基準には、一貫性があればあるほどその人らしさが出るのですばらしいとですけど、コミニケーションの型(スタイル)に関しては、柔軟性が重要だと思うんですよね。

というのも、例えば自分がポケモントレーナーだとしたときに、ジムリーダーに挑戦しに行きますよね。そのときに相手の手持ちポケモンを分析して自分の手持ちポケモンを変えたり、戦術を変更したりしますよね。なぜならそれがそこで行われているゲームの最適な行動だからです。

このジムリーダーへの挑戦の比喩は、「だれかとのコミュニケーション」の置き換えです。

もちろんこのポケモン対決でも、自分の価値観や判断基準は一貫させて大丈夫なわけです。「自分はこういう人」という軸自体は持っていてOK。言い方を変えると、目に見えないものは変えなくてもいい。ただし目に見えるものは柔軟に変えたほうがいいわけですよ。

なので話を戻すと、相手によってコミニケーションの形を変えない人とは、誠実なのではなくなにも考えていないだけなのでは?と考えられるわけです。だからまったく誠実ではないんですね。言ってしまえば、自分の価値観を押し付けているようにも見えます。

みんなに同じ面を見せる姿は誠実なのか?

前提として、僕は人によって態度をコロコロ変えるべきだと考えている人です。先程のポケモントレーナーの例のように、相手に合わせたコミニケーションこそが最適なものになると考えています。

言い換えると、箱に合わせたコミニケーションをするべきであって、箱を自分に合わせるコミニケーションはビミョーなわけです。

ここまでの考えを振り返ると、だれとでも同じ接し方をする人は、全員に同じ面しか見せていないことになるでしょう。僕で言えば、家族や友人や同僚や恋人には、人それぞれぼくの見え方が違うはずなんですよ。それが当たり前で、人によって違う面を見せているので印象は違います。

ただ個人的にはそれが当たり前だと思うんですよね。箱に合わせたコミュニケーションが全体を最適化させるわけですから。そういうコミュニケーションを箱の中にいる人がお互い行うことで、良質な関係が築かれていくのではないかと。みんなに同じ面を見せ続けるよりも、個別に違う面を見せるほうが合理的。

つまりどんな人にも同じように接する人は、そういう意味で怖い。その人の面が1つしか分からないので、友人から聞いても家族から聞いても同じような印象があると言うのは、素晴らしいように見えてちょっと不気味です。

コミニケーションをめちゃめちゃ考えているからその行動なのか、それともコミニケーションがめんどくさいからテキトーにいなしているのか、その理由によってその人の印象は180度変わるなと思うんですよね。

筋を通す場所がズレていないか?

話をまとめると、大事なのはどこに一貫生をもたせるべきか?という話に行き着きます。誰にでも同じ面を見せる姿は不誠実ですし、融通が利かなすぎます。ただし自分の軸をぶらしたくない気持ちもあるでしょう。

であれば大事なのは、価値観や判断基準には一貫生や自分なりのロジックを持ち、そこから落とし込まれたコミュニケーションスタイルには、柔軟性や構造の理解を重要視すればいいわけです。

画像1

図にするとこんな感じで、自分の大事な土台の一貫性は保ちつつも、その土台から見せる姿は、今のポジションや環境によって柔軟に対処すればいい。土台がしっかりしていれば、いくら柔軟に動いても価値観ベースでの一貫性は消えないでしょう。

むしろ色んな人に見せるいろんな面からあぶり出された共通点こそ、その人の価値観としてみんなに広まるはずです。価値観をぶらさないとはそういうことであり、誠実な対応とはそういう姿を言うのではないでしょうか。

読んでいただきありがとうございます。これからも読んでもらえるとうれしいです。