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#62 物語と作者の関係性

昨日、某界隈での署名運動がちょっと話題となり、様々な議論を巻き起こしました。その中には

「運営が変わるべきなので、そのように大きく出るのは妥当」
「それだけ精神的苦痛を受けたから、降板するくらいの大きな代償は必要だ」
との賛成意見や、

「読者はシナリオライターを選ぶ権利は無い」
「署名なんてばかばかしい」
といった反対意見が見られました。

私の意見としては、署名をするという行為はまぁいいんじゃないかな、と思います。意見を表明して、共感してもらうという場ではあるので。ただ、なんかそこまで言うべきだったのかなぁ、という気はします。作者の描いたこういう表現が気に入らない、と言うのであれば「ここの表現は過激すぎるので、今に即していないので変えてくれませんかね」みたいにもう少し譲歩した表現を要請するのかなぁ、と思います。ライターを変えなくとも。

私はやはり1つの物語は1人の作者が書いたほうがいいと思うのです。
正直、某界隈についてはあんま知らないので、この件についての言及やめて今回は「作者と物語の関係性」という一般論について書いていこうかなぁと思います。

物語を書いた経験者としての考え

当たり前と言われればそうなのですが、物語を書くってクッソ難しいことです。登場人物についてもどんな性格か、どんな外見なのか等様々な事を事細かに設定を付けないといけない。そして、その人をどうやって動かすかとか、どういったことを主題に持ち込むんだとか様々な事を考えないといけません。こんな感じで、綿密に物語を作るためにはかなりの労力が必要です。

そして、割とここは注目してくれる人が少なくなりがちだけど、重要なこととして挙げられる点は、表現の点です。いくら物語を頭の中や、紙の上で描いてもそれを読者にとって伝わらなければ意味がありません。いくら精彩なストーリーでも表現が乏しければ彩りに気づくことは少ないですし、読者を引きこむような表現を使わなければ物語は一瞬にして色を失ってしまうことがある。

そして、物書きとして気を付けないといけないこととしては、書くことによって失われる情報が絶対にあるということです。物語を読んでもらった時に、なんでこのキャラはこのような行動に出たのか意味不明だとか、作者が意図していた方向ではない方に行ってしまって苦心したことはいっぱいあります。
ただ、その失われる情報を巧みに使っている人がいて、人によって解釈が違って面白いね、とか作者が引いたレールから外れて様々な視点から考えることができる、答えのない読書をすることを楽しいと思えるような本もあります。

そう考えると、作者を変えるというのはかなり大きいことです。作者自身が考えてはいるけど、言語化できない部分と言うのは書くことよりも大切なエッセンスが詰まっていることが多いです。その言語化できない部分と言うのは、キャラの倫理観、哲学といった私たちでも言語化が難しい部分だと思うのです。だって、私たちだって倫理観だとかどのような心情に沿って動いているかなんて正直分かりっこない。
作者の世界観って、文豪レベルになると独特になりますよね。例えば、村上春樹さんの作品に対して「セクハラだ!」といっても、「いやあの人の書いている世界観ってずっとあんな感じじゃん」みたいな反応が良く帰ってきます。そのように、現実世界でも実際に言語化できない事象と言うのが多く存在するように、物語を作る作者の中でも言葉にできない世界観と言うのは少なからず存在していて、読者はその言葉にできない世界観に惹かれていくのです。
だから、作者が誰なのかとかについて考えることは重要だし、作者を変えるということはそれなりに大きいことなのです。

作者って大切だけど

以上が私の著者と物語に関する話なのですが、例の一件についてはこれに加えて、企業という営利団体が絡んだり、それなりにお金をつぎ込んでいるからこその社会的影響とか様々な要因が絡んできます。企業が公に出しているストーリーと決してよくわからない人が適当に書いた小説だとか二次創作だとかと同じ土俵で戦わせてはいけません。別で考えることです。

ただ、創作というものをするにあたって作者って大切なことです。そして、物語を作ってそれを読んでもらうということはとても影響力が高いことです。ツイッターの変なつぶやきよりかやはり長い文章を書くなりには大きい影響力がついてくるってもんです。そんな感じで、作者ってすごく大変な仕事だし、私はそれなりにリスペクトしています。

私も物語を作ってみたいけど、頭の中で思いついたことを書くエッセイに慣れてしまった今、物語を作るのはもうめんどくさくてできないんだろうな~とか思っちゃいますね。

今日はここまで。また明日。