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【つの版】日本建国15・国譲り

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

オオナムチは葦原中国(日本列島)を平定し、出雲を中心とする「天下」を造り出します。その版図は筑紫・ヤマト・越国に及び、地上の神々(国津神)も人民も彼に服属しました。しかし、その治世も終わりを迎えます。

古事記 上卷-5 葦原中國の平定
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_05.html

◆天◆

◆使◆

天若日子

『古事記』を見ていきます。スサノオが去ったのち高天原は平和でしたが、ある時アマテラスが「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国(葦原中国の美称)は我が子オシホミミが統治する国だ」と言い出し、彼を天降らせます。スサノオを追放し、オオナムチの国造りにも協力しなかったくせに(堕天したスクナビコナはいましたが)、随分身勝手で横暴な話です。オシホミミは天浮橋に立って下界を眺めましたが、荒振る国津神たちがガヤガヤと騒いでいたので、「随分騒がしいぞ」と恐れをなし、逃げ戻ってきました。

そこでタカミムスビとアマテラスは、天安河原に八百万の神々を集め、事情を説明して御前会議を開きます。オモイカネが議長となって会議を取りまとめた結果、「アメノホヒを遣わすのがよい」と結論が出ました。彼はオシホミミの弟です。兄がだめなら弟を、という理屈はわかりますが、出雲に天降ったアメノホヒはオオナムチに「媚び付き」、三年経っても報告ひとつ寄越しませんでした。彼の徳を慕って臣下になり、高天原を裏切ったのです。彼は出雲国造の祖であり、『出雲国風土記』では任務を全うしたとされます。

困った神々はまた集まって会議し、オモイカネが「アマツクニダマの子であるアメノワカヒコを遣わすのがよろしい」と提案しました。神々は彼に天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)・天波波矢(アメノハハヤ)という霊力ある弓矢を授けて天降らせましたが、ワカヒコはオオナムチの娘シタテルヒメ(タカヒメ)と婚姻します。「娘婿としてこの国を受け継ごう」という考えでしたが、八年経っても報告ひとつ寄越しませんでした。

神々は三度集まって会議を開き、オモイカネが「雉の鳴女(ナキメ)を遣わし、ワカヒコを詰問させよう」と提案します。鳴女はさっそく天降り、ワカヒコの家の楓の木の上にとまって神々の伝言を述べます。しかしワカヒコに仕えていたアメノサグメ(探女、兆しの意味を探る巫女)が「この鳥の鳴き声は不吉です。殺しなさい」と告げたので、ワカヒコは神々から授かった弓矢で鳴女を射殺してしまいました。地上に長居したせいで神通力が衰え、雉の伝言が聞こえなかったのでしょうか。

その矢は雉の胸を貫通した上、凄い勢いで高天原まで昇っていき、天安河原のアマテラスとタカミムスビ(高木神)のもとへ届きます。高木神がその矢を拾うと、ワカヒコに授けたものであり、血がついています。高木神は矢を神々に示し、「もし命令を誤らず、悪い神を射たのであれば、ワカヒコに当たるな。もし邪心があって射たならば、この矢に当たれ!」とコトダマを唱え、矢が突き破った足元の(雲の)穴から投げ落としました。

ワカヒコは雉を射たあと仰向けになって朝寝をしていましたが、投げ返された矢が彼の胸板を貫き、即死しました。これが「還し矢(相手が射た矢を拾って射ると必ず命中する、という呪的俗信)」のもとであり、また「雉の頓使い(行ったきり還らない使者、または副使をつけない使者)」というコトワザの起源である、と古事記に書かれています。

ワカヒコの妻シタテルヒメは嘆き悲しみ、ワカヒコの父神も高天原から降りてきて服喪します。一族郎党は集まって喪屋(殯宮)を作り、鳥たちが喪の役目を勤め、八日八夜にわたって喪儀が行われました。シタテルヒメの兄アジスキタカヒコネも義弟の死を悲しんで天降りましたが、彼はワカヒコと姿がよく似ていたため、遺族らは「ワカヒコ様は死んでいない」と勘違いし、手足に寄りすがって泣いて喜びました。

ワカヒコならぬタカヒコは「おれは愛する友を弔いに来ただけだ!なんでおれを穢らわしい死人と間違えるのか!」と大いに怒り、剣を抜いて喪屋を斬り伏せ、足で蹴り飛ばします。喪屋は遥か美濃国の藍見河(長良川)の川上に落下し、喪山という山になったといいます。そして名乗らず雷電と共に飛び去りましたが、シタテルヒメ(タカヒメ)は兄を思い出し、歌で彼の名を告げたといいます。タカヒコは葛城鴨氏の祖神ですから、たぶん本来オオナムチのように「死んだ神が蘇生する」という神話だったのでしょう。

『日本書紀』本文でも大筋は同じです。ただアマテラスではなくタカミムスビが皇祖として活動しており、オシホミミに娘を娶らせて産まれたニニギを葦原中国の主とするため、地上の「邪神・邪鬼」を平定すべく神々を遣わしたとしています。またアメノホヒは息子の大背飯三熊之大人(おおそびの・みくまのうし)を遣わして報告しています。一書ではアマテラスによってアメノワカヒコが先に派遣され、彼が還し矢で死んだ後、オシホミミを遣わそうとしたとあります。

タカミムスビの神名はカミムスビと対にするためのもので、本来は高木神だったようです。アメノミナカヌシやクニノトコタチは活動しない神であり、アマテラスの前には彼が高天原の主宰神でした。

建御雷神

神々は四度会議を開き、オモイカネらが「イツノオハバリを遣わすのがよろしい。もし断られたら、彼の子タケミカヅチを」と推薦します。イツノオハバリとは、かつてイザナギがカグツチを斬った十拳剣の神霊で、天安河の上流にある天の岩屋に鎮座し、川の水を堰き止めて道を塞いでいました。

神々が悪路を踏破できる天迦久神(アメノカク、鹿の神)を遣わして事情を伝えさせると、イツノオハバリは「私の子タケミカヅチを遣わしましょう」と答えます。かくしてアメノトリフネを副使(乗り物)とし、タケミカヅチが地上に降臨します。彼が鹿を神使とするのはこれによるのでしょうか。

タケミカヅチは出雲西部の稲佐の浜に降り立つと、剣を抜いて波の上に逆さに立て、剣の切っ先にアグラするという恐るべきバランス能力を見せて威嚇します。雷神なので剣の上にアマクダリして見せたのでしょうか。集まってきたオオナムチらを前に、タケミカヅチはこう勧告します。「天照大御神と高木神の命令により、使者として参った。『お前が領している葦原中国は、我が子の統治する国だ』との伝言である。あなたの心はどうか?」稲佐の浜とは「否然(いな・さ)」、ノーかイエスかを迫ったことに由来します。

オオナムチは奥ゆかしく礼儀を尽くし、こう告げます。「私には申し上げられません。我が子の八重事代主神(コトシロヌシ)が申し上げましょう。彼は御大之前(美保関)で漁をしており、まだ戻って来ておりません」

コトシロヌシは物事と言葉(コト)を司る託宣神で、美保神社の祭神です。後世にはヒルコと共に恵比寿(えびす)神とされ、父が大黒天と習合すると「恵比寿・大黒」と並び称される福の神になりました。

そこでタケミカヅチはアメノトリフネを遣わし、コトシロヌシを稲佐の浜に連れて来ました。コトシロヌシは海の上から父に「恐れ多いことです。この国は天津神の御子に奉りなさいませ」と告げます。そして自分の船を踏み傾け、天逆手(あめのさかて、呪いの拍手)を打って青柴垣(あおふしがき)に変え、身を隠します。海に身を投げた(根の国へ去った)のでしょうか。

タケミカヅチらはオオナムチに「あなたの御子はこう言い終えた。他に意見を述べる子はおられるか」と問います。すると「我が子タケミナカタがおります。他にはいません」と答えました(アジスキタカヒコネは前段で天へ去っています)。両者が話している間に、タケミナカタは千人引きの岩を指先で持ち上げるという怪力キャラにありがちなアピールをしながら現れます。

彼は「我が国へ来て、こそこそと物を言っておるのは誰だ!おれと力競べをしようではないか!」と豪快に宣言し、タケミカヅチの手を掴み取ります。するとタケミカヅチは神通力で自らの手を氷に変え、また剣に変えました。ターミネーターめいた恐るべきジツです。タケミナカタがびっくりして手を離すと、今度はタケミカヅチが彼の手を掴み、若い葦を引っこ抜くように投げ飛ばしました(腕を引きちぎったとも言います)。

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タケミナカタは恐れをなして逃げ、タケミカヅチはこれを追いかけます。ついに信濃国の諏訪湖(州羽海)まで追い詰めると、タケミナカタは命乞いし「私はこの地から他所へ行きません。我が父の命令にも、コトシロヌシの言葉にも逆らいません。この葦原中国は、天津神の御子に献上致します」と告げました。

出雲から船で東へ向かったようです。タケミナカタはヌナカワヒメの子ともいいますから、母の故郷の糸魚川から姫川を遡って安曇野に出、南下して諏訪湖に着いたものと思われます。彼の子孫が諏訪氏で、諏訪大社に仕える大祝(おおはふり)は天皇や出雲国造のような「現人神」とみなされ、崇敬を集めました。そのため諏訪の地から出ることがなく、「この地から出ない」とはこれをもとにしているのでしょう。なお諏訪では祭神が負けて逃げてきたとは記さず、出雲から来て土着の神を服属させたとしています。

タケミカヅチは出雲に戻ると、オオナムチに「あなたの子らは『天津神の御子に従う』と告げた。あなたはどうか」と詰め寄ります。オオナムチは「私も同じです。葦原中国は献上しましょう。ただ、私の住処は立派にして頂きたい。私はそこに隠居します。私の大勢の子らも従いましょう」

そこで出雲国に大きな宮(出雲大社)を建立し、食事を作る神々をつけてオオナムチを祀らせました。事が終わるとタケミカヅチは高天原へ帰還し、葦原中国を平定したことを報告しました。天地を揺るがす大戦争で征服したのではなく、説得によりほぼ戦わずして服属させる事に成功したのです。

天津甕星

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『日本書紀』でも大筋は同じです。タケミカヅチの副将にはフツヌシが立候補しており、タケミナカタとの話が省かれています(天鳥船は乗物扱い)。またオオナムチを服属させた後、まつろわぬ鬼神たちをタケミカヅチとフツヌシが誅伐したとされます。

タケミカヅチは鹿島神宮、フツヌシは香取神宮の祭神です。共に東国の軍神として蝦夷との戦いを支援し、まつろわぬ存在を服属させる神でした。後にタケミカヅチは藤原氏の氏神とされ、春日大社の祭神ともなります。

一書でなく挿入された一説によると、二神は邪神や物言う草木・石類を懲らしめて平らげましたが、ただ星の神・香香背男(カガセオ、輝く男)のみが最後まで従いませんでした。そこで倭文(しどり、織物)の神・建葉槌(タケハヅチ)が遣わされ、服属させたといいます。戦いによるのか説得によるのかは定かでありません。

第二の一書によると、フツヌシとタケミカヅチが葦原中国平定を命じられた時、二神は「天に悪神があり、名を天津甕星(アマツミカボシ)、またの名を天香香背男(アメノカガセオ)という。まずこの神を誅伐し、それから葦原中国へ行こう」と相談しました。この時、東国の楫取(香取)に坐す神の齋主(イワイヌシ)がどうにかしたようですが、途中で話が途切れており、二神は出雲へ降臨しています。齋主とはフツヌシのこととも言います。

日本神話には太陽や月の神はいますが、星を神とする例は少ないようです。アマツミカボシとは「天の強く輝く星」を意味し、太陽(アマテラス)に逆らって輝く大きな星と言えば、明けの明星・宵の明星たる金星ではないか、とも言われます。金星の悪神というと、西洋の悪魔学におけるサタンの異名ルシファー(ルキフェル、光をかかげるもの)を思い起こしますね。

◆金◆

◆星◆

かくてタケミカヅチは天津神の命令どおりオオナムチら国津神を服属させ、葦原中国を平定しました。いよいよオシホミミが降臨するかと思えば、彼の子である「天孫」ニニギが代わりに降臨します。しかもせっかく平定した出雲かヤマトではなく、日本列島の南西の端、日向国(宮崎県)でした。いったいなぜそんな場所へ降臨したのでしょうか。

【続く】

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