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【つの版】ウマと人類史:近代編11・列強介入

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1821年、ワラキアとギリシア(ルメリア南部)で正教徒らによる武装蜂起が勃発します。これはロシアの送り込んだ工作員や秘密結社によるものでしたが、ロシア本国は西欧列強とのパワーバランスもあって介入せず、オスマン帝国は必死で反乱軍を鎮圧していきます。

◆This◆

◆Fire◆

炭焼革命

 フランス革命とナポレオン戦争の後、欧州とロシアはウィーン体制を樹立し、正統な(伝統的に主権者とされてきた)政権による国家間の勢力均衡を国際関係の基本原則としました。ナポレオンが造った衛星国は解体・再編され、ライン同盟は解体されてプロイセンを加えたドイツ連邦を結成し、オーストリアが盟主となります。英国やロシアは領土を獲得した一方、王政復古したフランスは敗戦国として多額の賠償金を課せられました。

 しかし、この体制に逆らう者たちがいました。1806年頃、ナポリ王国において結成された秘密結社「カルボナリ(炭焼党)」です。彼らはナポレオンが兄ジョゼフをナポリ王とした時、これに随行してカラブリアに入った旧ジャコバン派の共和主義者らによって誕生したと考えられており、フランス革命の狂熱を受け継いで、現状に不満を抱く多数の反体制派を糾合しました。その勢力は欧州全土に広まり、英国や中南米にも党員がいたといいます。

 フリーメーソンが石工ギルドから派生したように、彼らは炭焼人ギルドの徒弟制度を模倣した階層構造をとり、仲間内にのみ通じる記号や符牒、隠語やサインを用いて連絡を取り合いました。その目的は暴君(専制君主)の打倒、すなわち革命による人民の「自由と平等」の実現でしたが、秘密結社なので過激派はカルト化し、裏切り者は死をもって排除されました。

 のちにマルクスとエンゲルスから「空想的社会主義」と呼ばれたフーリエやサン・シモン、オウエンらの思想は、この頃に生まれています。古くはプラトンやトマス・モア、カンパネッラ、フランシス・ベーコン、スウェーデンボリらも理想の社会について哲学的・神学的議論を巡らせました。彼らはキリスト教的な千年王国を、人間の知恵と理性によって現実世界にもたらそうとしたわけですが、人々の間に広まるにつれてカルト化しました。人間社会ではよくあることで、別にユダヤ人の陰謀というわけではありません。

 1820年から21年にかけて、彼らカルボナリは欧州各地で武装蜂起し、スペインやナポリ王国、サルデーニャ王国などで立憲革命(専制君主制を改め立憲君主制とする革命)を起こします。オーストリア宰相メッテルニヒは革命の波及を恐れて鎮圧に乗り出し、英国・ロシア・プロイセン・フランスと協議して革命軍を弾圧するため出兵しました。このような時にワラキアやギリシアで武装蜂起が勃発したのですから、オーストリアも英国もロシアも介入するわけにはいきません。やれば「なぜ我が国では弾圧するのか!」とカルボナリが調子づいて面倒です。こうして各地の革命騒動は鎮圧されていきましたが、カルボナリは本拠地を密かにパリへ遷し、次の革命を準備します。

 1825年11月、ロシア皇帝アレクサンドルが47歳で病没すると、専制君主制に反対する一部の貴族将校らが反乱を起こします。彼らは12月(デカブリ)に反乱したことからデカブリストと呼ばれますが、計画的な反乱ではなかったため、たちまち鎮圧されています。

列強介入

 ギリシアでは独立運動が風前の灯でしたが、頑強な抵抗を続けるうち、次第に国際世論は独立派に同情的になっていきます。1824年1月、ロシアはギリシアを三つに分割して自治国とし、ロシアを含む列強が保護国としてはどうかと提案しますが、これはペロポネソスのギリシア暫定政府からも列強からも拒まれます。暫定政府は英国に庇護を求めますが、フランスやロシアもギリシアを狙っており、英国だけがギリシアを保護国とすれば戦争になりかねません。そこで英国はオスマン帝国とロシアに使節団を派遣します。

 新たなロシア皇帝ニコライはメッテルニヒを嫌っており、ギリシア問題に関しては英国と協調しました。その結果、1826年4月に英露間で議定書が作成され、オスマン帝国を宗主国とするギリシア自治国を創設することを前提として独立戦争に介入することが合意されます。のちフランスもこれに参加しますが、オーストリアはウィーン体制の維持を盾に介入を拒みました。

 1827年、三国の軍事介入によりオスマン軍とエジプト軍は敗れて撤退し、ペロポネソス(モレア)半島とその対岸の中央ギリシア(ルメリ)を領土とするギリシア自治共和国が誕生しました。初代大統領にはカポディストリアスが選出され、内戦を鎮圧しつつ国家体制を確立していきます。首都はペロポネソス半島の街ナフプリオで、かつての東ローマ帝国やアテナイ海上帝国の版図よりは遥かに狭くなりましたが、それでもギリシア本土には数百年ぶりに「ギリシア人(ロメイ)」の国が復活したのです。

 1828年にはロシアがこれに乗じてオスマン帝国へ宣戦布告し、バルカン半島とカフカースの二方面から侵攻します。オスマン帝国は必死で抗戦しますが敵わず、1829年にエディルネ(アドリアノープル)条約を結んで講和し、ギリシアの自治を承認させられます。エジプトも英国と講和して撤退しており、参戦時に約束されていたシリアの統治権を求めてオスマン帝国と対立する有様でした。しかしカポディストリアスは国内の自由主義者や対立派を弾圧するあまり反感を買い、1831年10月に暗殺されてしまいます。

 1830年7月にはパリで7月革命が勃発し、反動的なブルボン朝復古王政が打倒され、オルレアン公ルイ・フィリップが王位について立憲君主制が復活します。同年にはベルギーでオランダからの独立運動が起き、ポーランドで支配国ロシアに対する反乱が勃発、イタリア諸国やオーストリアでも革命騒動が起きます。メッテルニヒらはこれを抑え込もうとしますが、フランスとベルギーでの革命は国王を置いたことで認められたものの、ポーランドの反乱はロシアに押しつぶされます。そこで列強諸国は「ギリシアにも国王を置けばよい」とし、列強と直接の利害関係が少ないバイエルン王国の王族オットーをギリシア国王に擁立しました。

 こうしてギリシア王国が建国され、1832年には正式にオスマン帝国から独立したものの、列強の妥協の産物に過ぎませんでした。現地のギリシア人はバイエルン人の支配に反発して反乱が頻発しますし、オスマン帝国との争いもやまず、オスマン帝国に取り残された正教徒/ギリシア人、ギリシア王国に取り残されたトルコ人/ムスリムの間にも不満や混乱が渦巻いていました。

帝国斜陽

 オスマン皇帝マフムトは、1826年にはイェニチェリを廃止して常備軍を置くなど軍制改革・国政改革を行い、国難に対処するため頑張っていました。しかし北方からはロシアが迫り、西ではギリシアが独立し、さらに北アフリカではフランスにアルジェリアが奪われ、南ではエジプトがほぼ独立したばかりか領土を要求して攻め込んでくるという苦境にありました。

 やむなくマフムトは1833年にロシアと手を結んでエジプトに対抗し、ボスポラス・ダーダネルス両海峡を通行する権利をロシア艦隊に与えます。英国ら列強はロシアの一人勝ちを抑えるため介入を強めました。マフムトは1838年には英国と不平等条約を締結して支援を受け、翌年エジプトと開戦しますが同年に病没します。英国はこれによって東地中海における権益を獲得し、ロシアとオスマン帝国を挟んで南北に対立することとなります。

 陸の帝国ロシアと、海の帝国である英国は、ナポレオン戦争終結後から宿命的な対決状態にありました。いわゆる「グレート・ゲーム」です。これは「東側」と「西側」の対立として19世紀・20世紀を経て現代にまで続いています。ここで欧州やオスマン帝国を離れ、さらに東へ向かうとしましょう。

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【続く】

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