見出し画像

【つの版】邪馬台国への旅09:其餘旁國と狗奴國01

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

さて邪馬臺國に到着したわけですが、魏志倭人伝はまだまだ続きます。次は21の「其餘旁國」と、その先にある狗奴國です。

魏志倭人伝冒頭に「今使譯所通三十國」すなわち「帯方郡と使節と通訳を通じて交流がある倭人の國は三十ある」とありますが、對馬・一支・末盧・伊都・奴・不彌・投馬・邪馬臺と、ここまで8國しか名前があげられていません。そこで残りの22國を数え上げ、辻褄を合わせようとしている部分です。

邪馬臺國を起点として数えられているようなので「邪馬台国『からの』旅」とすべきでしょうが、めんどいのでそのままにします。「への」にはタイムシフト的ななんかも含まれていることにして下さい。

◆傍◆

◆役◆

其餘旁國

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
女王國(邪馬臺國)より以北は、その戸数・道里(距離)をおおよそ記載可能であるが、その余(ほか)の旁國は非常に遠くかけ離れていて、(戸数や道里を)詳しく記すことができない。

「旁」とは「傍」「徬」の右側(旁、つくり)で、「かたわら」「わき」「そば」などを意味します。女王國=邪馬臺國の属国となった周辺諸国を指すのでしょう。邪馬臺國は7万戸ありますが、それらを構成する倭人諸国とは別かと思われます。「非常に遠くかけ離れている」とは、女王國からも、帯方郡の使者がいる伊都國からも離れているということなのでしょうか。

次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都(郡)支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。
次に斯馬國があり、次に已百支國があり、次に伊邪國があり、次に都(郡)支國があり、次に彌奴國があり、 次に好古都國があり、次に不呼國があり、次に姐奴國があり、次に對蘇國があり、次に蘇奴國があり、 次に呼邑國があり、次に華奴蘇奴國があり、次に鬼國があり、次に爲吾國があり、次に鬼奴國があり、 次に邪馬國があり、次に躬臣國があり、次に巴利國があり、次に支惟國があり、次に烏奴國があり、次に奴國がある。これが女王の境界の尽きるところである。

國名だけが並んでいます。数えると21國あり、最後の奴國が「女王の境界の尽きるところ」すなわち(ここでは邪馬臺國ではなく)「倭の女王卑彌呼に従う諸国」の最辺境に位置することになります。北部九州の2万戸の奴國と同じなのか、同名の別國なのかは記されていません。これに続いて、

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
その南に狗奴國がある。男子を王と為し、その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。

とあります。となると狗奴國は奴國の南にあるようです。卑彌呼が率いる倭國と戦争を繰り広げることもあり、その規模は卑彌呼が遠く帯方郡へ救援を要請する程であったようです。これら旁國が脅かされたのでしょうか。実際は邪馬臺國のすぐ南にあるのを、間に旁國の記述を挟んだせいで遠くだと思われた、という見方も一応あります。

方角

これらの國がどこにあるか探る前に、女王國からどちらの方角にあるか考えてみましょう。並ばずにアトランダムに散在している可能性も否定できませんが、とりあえず「女王國から北にはない」「最後の奴國の南に狗奴國がある、かも」ということはわかります。となれば、東か南か西になります。

804247 - コピー - コピー

mig - コピー - コピー - コピー - コピー

「女王國の北」というのは、これまで辿ってきた通り對馬・一支から不彌國の「南」にある投馬國(実際は東北です)までの諸国で、確かに戸数・道里(距離)をおおよそ記載されて来ました。但馬から上陸して南下し、邪馬臺國に着いたわけですから、その間の諸国だとか、奴國や投馬國や邪馬臺國を構成する国々でもないわけです。「女王國『以北』に置かれて諸国を監視する一大率」が伊都國にいるのは、魏志倭人伝の記述上では伊都國が邪馬臺國よりも「北」に位置することになっているからです(実際は西です)。一大率は北部九州諸国の総督とすれば、投馬國は監督下になさそうですね。

東へ

では、東でしょうか。不彌國から南を東と読み替えたのですから、東に進むことは考えられます。邪馬臺(ヤマト)國から東へは陸地が存在し、東海諸国や関東まで交易路が通じているはずです。纒向遺跡からも東海地方の土器などが出土しました。ならば旁國は東海諸国であり、狗奴國は関東か東北のどこかにあるのでしょうか。

古墳時代の関東には、「毛野(けの)」という地方勢力が存在しました。『日本書紀』『古事記』にも書かれ、多数の大型古墳が築かれてもいます。現在の群馬県と栃木県を令制国の呼び名では上野国(かみつけのくに)・下野国(しもつけのくに)といい、古くは上毛野国・下毛野国と書きました。これは吉備国が備前・備中・備後、筑紫国が筑前・筑後、火国が肥前・肥後、越国が越前・越中・越後と分割されたように、巨大な毛野国が分割されたもののようです。

記紀によれば、両国の国造の祖は崇神天皇の皇子・豊城入彦命です。父は後継者を決めるため、息子たちに夢占いをさせましたが、兄の豊城入彦命は「御諸山(三輪山)に登って東方へ矛を振るう夢を見ました」といい、弟の活目入彦命は「御諸山に登って四方に縄を張り、雀を追い払う夢を見ました」と言いました。父は「豊城入彦は東国へ行って戦え。活目入彦はここに留まって治めよ」と言い、活目入彦が跡を継いだ(垂仁天皇)といいます。彼が狗奴國の男王であるなら、ヤマトの女王(倭迹迹日百襲姫命か)に従わない理由もわかります。記紀には伝承がありませんがヤマト本国に対して反乱を起こし、大王の位を求めたのでしょう。

しかし、考古学的に関東の「毛野」に大型古墳が建設され始めるのは3世紀中頃ではなく、4世紀に入ってからです。3世紀中頃には千葉県市原市に神門古墳群が現れ纒向型前方後円墳が出現しますが、毛野地域ではありません。

東渡海倭種國

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
女王國から東に海を渡ること千余里、また國があり、みな倭種である。

魏志倭人伝を読み進めると、上記のように「東海の彼方にまた倭種の國がある」とあります。これは『後漢書』東夷伝倭条で狗奴國と混同され、「自女王國東度海千餘里、至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王」とあり、考古学的にも狗奴國を濃尾・東海地方の勢力とみなす説もありますが、魏志倭人伝では狗奴國や旁國と東海の彼方の倭種の國は分けられています。『後漢書』は『三国志』より150年も後に編纂されたもので、後漢末期の状況などは魏志などを参考にし、文飾や改変を加えています。

『漢書』地理志・燕地の顔師古注で引く『魏略』逸文には「倭在帯方東南大海中。依山島為國。度海千里、復有國、皆倭種」とありますが、「依山島為國」と「度海千里」がもとの『魏略』で繋がっていたかどうかはわかりません。注釈はよく原文の途中を省略して引用することがあります。

女王國の東に海があるだって?じゃあやっぱり九州じゃないか!」「これは四国だ!」「琵琶湖を渡ったのでは?」とかいう人もいますが、落ち着いて下さい。奈良盆地から名張・伊賀を通り、加太越(かぶとごえ)で鈴鹿山脈を越えると、そこは三重県…伊勢国です。目の前には伊勢湾が広がっています。これを渡った先は愛知県の知多半島ですね。愛知県や静岡県など東海地方にも、倭人は古くから住み着いていました。しかし邪馬臺國を盟主とする倭國連合には、この時点では加わっていなかったようです。

「伊勢湾? 北に歩けば陸続きだろ」とおっしゃるかも知れません。しかし北に行くと長良川や木曽川の河口部で、昔から洪水の多い沼沢地でした。そこで古くから、このルートは船で伊勢湾を渡っていたのです。『日本書紀』大化2年3月の記事に「東国から馬に乗って来た旅行者は三河か尾張で馬を預け、船で伊勢に向かう」と書かれていますし、江戸時代ですら東海道のうち熱田・桑名間だけは陸路ではなく船に乗る「七里の渡し」でした(これは日本の近世の里で1里4km、7里は28km)。差し渡しは千里どころか200魏里(86.8km)もありませんが、壱岐から呼子間の27kmも千里とされたのですから、海を渡った距離が適当な数であることは察せられます。

こうしたわけで、女王國の「東」に遠絶旁國や狗奴國を求めると、東海の彼方の倭種の國についての情報とかぶります。それとも東海を北海と読み替えて、北陸や佐渡ヶ島とみなせばいいのでしょうか。つのはやめておきます。

南へ

では、やはり南でしょうか。奈良盆地の南には紀伊半島の山々が連なり、様々な山の民が割拠していたことは想像に難くありません。あるいは吉野川・紀の川流域の民や、和歌山市以南の沿岸の漁民でしょうか。紀伊半島南端部には「熊野」があり、これを狗奴國と見ることもできるでしょう。日本海ルートを唱えた笠井新也氏らもそのようにしました。

神武東征伝説に現れる熊の姿の悪神は、まつろわぬ民、後に土蜘蛛や鬼と呼ばれた狩猟民であったかも知れません。山伏やニンジャの祖先です。あの徐福が熊野に漂着したという伝説も(中世以後ですが)あります。

しかし、7万戸を擁する邪馬臺國連合を南から脅かすような勢力が、この重畳たる山並みに潜んでいたとは考えにくいものもあります。まずもって大人口を抱えることが不可能です。ベトコンめいた山岳ゲリラと化して山伝いに三輪山へ迫り、纒向を脅かしたこともあったかも知れませんが、その程度の奴らを鎮めるためにわざわざ帯方郡まで救援を要請するでしょうか。

第一、関東や濃尾や熊野に狗奴國があったとして、魏や帯方郡からは邪馬臺國よりもさらに遠い、海の彼方の話です。親魏倭王の背後が脅かされているとしても、「自分でなんとかしろ」としか答えようがありません。帯方郡や楽浪郡だって韓や濊貊、高句麗との折衝で手一杯ですし、魏には呉や蜀漢という大敵がいて、遠く倭地まで遠征することは不可能です。卑彌呼や倭人もこんな奥地まで魏が介入して来ることを、希望も期待もするでしょうか。

西へ

それなら、西はどうでしょうか。邪馬臺國までは日本海ルートで来たため、瀬戸内諸国や四国に関しては手つかずです。北部九州と近畿を結ぶ大動脈として、瀬戸内海航路が利用されなかったはずはありません。山陽地方には吉備という大勢力が弥生時代から存在しました。また和歌山県(紀伊国)・淡路島・四国の諸国は律令時代の五畿七道のうち南海道に属しており、近畿から淡路島を経て四国へ渡れますし、愛媛県(伊予国)から佐田岬半島に沿って西へ進めば、幅14kmの豊予海峡を渡って九州へ行くこともできます。

瀬戸内にしろ四国にしろヤマトから西へ進む場合、21旁國の最後の「奴國」は、北部九州にあり2万戸を擁する「奴國」と同じになります。そう書いてはありませんが、そう解釈はできます。奴國の中枢は福岡平野にあったとしても、北部九州諸国連合としての奴國(倭奴國)は福岡県・佐賀平野・大分県にまたがる大国であっておかしくありません。べったり領域支配していたというより、各地の小さなクニを交易路で繋ぎ合わせ系列化した、フランチャイズ・チェーンみたいな感じでイメージして下さい。

独立のムラとして細々と農耕や漁業で自給自足するより、商品となるものを海や山から集め、市場を開いて交易し、遠く外国から来る珍しい品々を買い求めれば、どうでしょう。ご家族は喜び、生産性は上がり、社会全体が向上していいことづくめです。貨幣経済、資本主義こそグローバルスタンダードです。まずは真珠を獲って来て下さい。 ――識者

狗奴國=熊襲

そして、奴國が福岡県・佐賀平野・大分県を覆う地域大国であるとすれば、必然的にその南、熊本県以南狗奴國(上古音*Cə.kˤroʔ *nˤa)となります。その男王は卑彌弓呼(上古音*pe *m-nə[r]ʔ *kʷəŋ *qʰˤa 、卑彌弓呼素とも)という卑彌呼と紛らわしい名ですが、官にある「狗古智卑狗(上古音*Cə.kˤroʔ *kˤaʔ *tre-s *pe *Cə.kˤroʔ)」は「ククチ・ヒコ」、おそらく肥後国菊池(きくち、くくち)郡にあたる領域を支配していた豪族と思われます。

狗奴國とは記紀にいう熊襲(クマソ)である、というのは古くからある説です。邪馬臺國を北部九州に限定した場合でも、狗奴國は熊襲とする説が有力ですが、邪馬臺國ヤマト説であっても問題はありません。むしろ自然です。

熊本県は多くの弥生時代の集落遺跡があり、免田式土器を使用する文化圏が存在しました。また鉄器を多く所有し、5万戸や7万戸とまではいかなくとも相応に栄えていました。ヤマトより北部九州、半島や大陸に近いのですし、早くから拓けていたでしょう。熊本に邪馬台国があったという説も根強くあり、北部九州説よりはまだしも蓋然性があると思います(つのは畿内ヤマト派ですが)。熊襲は肥後国球磨郡、大隅国曽於郡に名を遺すため、熊本だけでなく南九州も含まれていたでしょう。

※追記:と考えていましたが、改めて考えてみると狗奴國は熊襲ではなく菊池川流域の國に過ぎないかも知れません。

しかしあまりにも山岳地帯が多く、また北部九州の倭奴國が交易ルートを抑えていたため、地理的にどうしても後塵を拝することになります。

これを打破するには、武力や調略で北部九州を征服し、半島との交易ルートを奪い取るしかありません。当然筑後川流域で衝突が起きます。大分・佐賀・長崎でも騒動が起きたかも知れません。敵軍が数百人程度であったとしても、帯方郡や魏との交易ルートが脅かされれば、親魏倭王卑彌呼を頂く邪馬臺國を盟主とする、西日本の倭人諸国連合全体の危機です。

かつて倭奴国の支配体制が揺るぎ、東方諸国が台頭したのも、この狗奴國の問題が要因のひとつだった可能性はあります。倭奴国にも倭国にも加われなかった狗奴國は、危険な敵対行動に出たのです。記紀に熊襲征伐が盛んに語られているのも、ヤマト王権にとって存続を脅かす重大な問題だからです。6世紀には筑紫君磐井が新羅と手を結び、ヤマトに反乱を起こしました。

状況としては島津氏対豊臣秀吉の構図が近いですが、まだ緩い隣保同盟に毛が生えた程度の当時の「倭國」に、東方から遠路大軍を動かせるような権力も能力もないでしょう(4世紀後半に可能となりました)。ならばケツモチである魏の帯方郡に救援を要請しても、なんらおかしくありません。位置的に呉と手を結ぼうとする可能性もあります。このような地政学的条件から、つのは狗奴國は熊本県あたりにあると考えます。何か問題あるでしょうか。

ここまでの位置関係を地図にすればこうです。だいたいわかりました。

Map_ofThe_east_barbarian_1 - コピー - コピー - コピー (3) - コピー

◆島◆

◆津◆

今回はここまでです。次は一応旁國について考えてみましょう。しかしこれらの比定は非常に難しく、正直言ってつのにもわかりません。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。