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【つの版】度量衡比較・貨幣43

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1429年、日本の南西に琉球王国が誕生しました。この国は明朝・朝鮮・日本の間の交易を取り持って栄えます。その歴史を概観しましょう。

◆島◆

◆唄◆

南貝航路

 日本列島の南西、台湾との間に繋がる島々を「南西諸島」と総称します。これは日本列島(本土)からの視点であるため、中立的には「琉球諸島」と呼ぶべきでしょうが、この場合は歴史的に琉球王国の版図であった沖縄・奄美・先島(八重山・宮古等)の諸島を含むものの、種子島・屋久島・吐噶喇列島などは含まれません。ここでは大雑把にひっくるめて見ていきます。

 人類は古くからこの島々に居住しており、那覇では推定3万2000年前の旧石器時代の人類化石(山下洞人)が出土しています。日本列島とも縄文・弥生・古墳時代を通じて交流があり、この地方で産出する大型の貝の殻でできた腕輪(貝輪、貝くしろとも)が威信財として輸出されていたことが判明しています。代わりに黒曜石や土器や鉄器などが輸入されており、人も島伝いにやってきたことでしょう。

 5世紀後半から7世紀にかけて、この島々からの輸出品はヤコウガイの貝殻に代わります。奄美諸島の遺跡からは大量のヤコウガイ製品(匙・玉・札など)がガラス玉や鉄器とともに出土しており、朝鮮半島南部の古墳群からも複数のヤコウガイの匙が出土しています。当時は倭国が朝鮮半島南部に進出して植民地を作っていますから、友好国である百済などへの輸出品としていたのかも知れません。チャイナから螺鈿の技法が伝わるのもこの頃です。

『隋書』東夷伝には「流求国」の条があり、「(福建省の)建安郡の東にあり、水行5日で至る」と記されていますが、福建省福州市から沖縄県那覇市までは直線距離でも800kmはあり、当時の船で1日160kmもは進めません。続く記述からも、「天気が良いと海の彼方に見える」という証言からも、この流求国は沖縄諸島ではなく台湾島のことと思われます。福州市から台北市までは直線距離でも200kmあまりで、5日もあれば着きます。かつて呉の孫権が軍隊を派遣した「夷洲」も台湾のことで、沖縄が「琉球」と呼ばれるようになるのは後の話です。

 隋の煬帝はしばしば遠征軍を派遣して流求国を服属させようとしましたがうまくいかず、布でできた甲冑を持ち帰っただけでした。時に倭国の使者が来朝したので、これを見せたところ「これは夷邪久(いやく)国人の用いるものです」と答えたといいます。これは屋久島のこととも、その南方の島々を広くそう呼んでいたともいいますが、台湾と屋久島の間に交流があったかどうかは定かでありません。ただ倭国とこれらの島々に関係・交流があったことがチャイナ側の史書に記されてはいるわけです。文化的には、先島諸島の先住民はやや台湾に近い文化を持ってはいたようですが。

南嶋朝貢

『日本書紀』では推古天皇24年(616年)に「掖久・夜勾・掖玖(やく)の人30人がやってきて定住した」とあり、舒明天皇元年(629年)に「掖玖に使者を遣わした」とあります。斉明天皇3年(657年)には「海見(あまみ)嶋」から使者が来たとあり、同5年(659年)には遣唐使の船が「爾加委(にかい)島(喜界島か)」に漂着して原住民に略奪されたとあります。遣隋使や遣唐使の派遣ルートを通じて、倭国/ヤマトと薩南・奄美諸島が直接結びつき始めたのです。またこれら「蛮夷」からの朝貢は、天子を気取っていた倭王の権威を高めるものとして、隼人・蝦夷ともども歓迎されました。

 天武天皇6年(677年)には多禰(たね)島(種子島)人を饗応し、同8年(679年)には朝廷から使者が多禰島に使わされ、同11年(682年)には多禰人・掖玖人・阿麻彌(あまみ)人にそれぞれ贈り物がなされました。『続日本紀』では文武天皇2年(698年)に使者が南嶋に派遣され、同3年(699年)には多褹(たね)・掖玖・菴美(あまみ)・度感(とかん/徳之島か)から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載があります。

 大宝2年(702年)8月、倭国改め日本国は「薩摩・多褹が反乱を起こしたので征討する」と布告し、日向国西部を唱更(はやと)国(のち薩麻/薩摩国)、多褹嶋(種子島と屋久島)を多禰国として役人(国司・嶋司)と軍を派遣しました。和銅6年(713年)には日向国南部を分けて大隅国とし、この地域への支配力を強化しています。翌年(714年)には「信覚(しがき)・球美(くみ)」などの人々が来朝したと記され、これが石垣島久米島のこととすれば、史上初めて現れる先島諸島と沖縄諸島の記録です。翌年(715年)正月、元明天皇は奄美・夜久・度感・信覚・球美等からの朝貢使節を平城京の大極殿で迎え、蝦夷と南島の人々に位階を授けました。養老4年(720年)、聖武天皇の神亀4年(727年)にも南島人へ位階が授けられています。

 日本は朝鮮半島の新羅と対立していたことから、南西諸島沿いに遣唐使を往来させるルートを求めました。遣唐使には奄美語の通訳が随行し、奄美諸島には石碑が置かれ、停泊・給水所を整備させたといいます。753年には唐の僧侶・鑑真を載せた日本への帰国船が明州(現浙江省寧波市)を出て「阿児奈波(あこなは)」という島に到達しました。これは沖縄(おきなわ)本島に比定されています(口永良部島とも)。鑑真らは島伝いに北上し、屋久島を経て大宰府に到達することができました。南西諸島からは引き続きヤコウガイ製品が輸出され、唐や日本の文物が輸入されており、唐の銅銭・開元通宝も奄美から八重山諸島まで広く伝来しています。

喜界奄美

 824年に多禰国が廃止されて大隅国に編入され、遣唐使が停止した後も、日本国と奄美諸島以南の関係は続いています。奄美諸島の喜界島・城久(ぐすく)遺跡群では9世紀から15世紀まで続いた大規模な集落が築かれ、大宰府と交易していました。『日本紀略』によると長徳3年(997年)、対馬から薩摩に至る九州各地を高麗人や南蛮の賊(奄美人)が襲撃し、男女300人を拉致しました。同4年(998年)、大宰府は貴駕島(喜界島)に対して「暴れ回る南蛮人」を捕えるよう命じており、翌年大宰府が朝廷に「南蛮人を追討した」と報告しています。以後、喜界島は日本国の端とみなされます。

 また徳之島では「カムィ焼(亀焼、瓶焼)」と呼ばれる須恵器様の土器が作られ吐噶喇列島以南に流通しましたし、長崎県西彼杵半島で生産された滑石製の石鍋も先島諸島まで普及しています。考古学・言語学的な調査から、10世紀頃を境として日本列島(本土・九州)から多くの人間が南西諸島に流入し、農耕とともに様々な文化をもたらしたと考えられています。実際これらの島々の住民の言語は日本語と同祖(あるいは日本・琉球語族の一派)であり、韓国・朝鮮語やアイヌ語、台湾諸語や中国語ではありません。

 この頃、奄美以南では「グスク」と総称される石造の城が各地に築かれ、「按司(アジ)」と総称される豪族たちが各地に分立し始めます。実際の名称は地方により様々でしたが、これらの豪族たちが次第に統合され、沖縄本島を中心とする琉球王国へと発展していくことになります。

◆涙◆

◆そうそう◆

【続く】

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