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【つの版】倭国から日本へ18・舒明天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

チャイナでは隋が唐に代わり、626年の玄武門の変で太宗・李世民が即位します。倭国でも聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇が相次いで世を去りました。新しい時代の国際関係はどうなるのでしょうか。

◆流◆

◆星◆

境部摩理勢の乱

『日本書紀』によると、厩戸皇子が薨去した後、推古天皇は皇太子を決めることなく崩御しました。ただ遺言で田村皇子に「天下を治めることは大任だ。しっかりやれ」と言い、山背大兄皇子に「お前はまだ若いから群臣に相談せよ」と言ったため、普通に取れば田村皇子を跡継ぎに指名したということになります。しかし、この事で論争が起きます。

田村は敏達天皇の孫ですが、蘇我氏の血を引いていません。山背は厩戸皇子の子で、父母両系で蘇我氏の血を引いています。馬子の子である大臣の蘇我蝦夷は群臣と会議を開き相談すると、田村派がやや優勢でしたが山背派もいます。特に境部摩理勢(さかいべの・まりせ)は馬子の弟で蝦夷の叔父にあたり、山背皇子を強力に推薦し、蘇我氏の中心人物になろうと画策します。

しかし山背皇子は即位を辞退し、摩理勢は怒って蝦夷に反旗を翻します。さらに山背の異母弟である伯瀬仲王と手を組みますが、伯瀬仲王が薨去したため後ろ盾を失い、進退窮まります。蝦夷は兵を遣わして摩理勢を攻め、絞殺させました。こうして蝦夷は田村皇子を擁立し、皇位につけます。

蘇我系でない山背皇子をなぜ蝦夷が擁立しなかったかは謎ですが、年齢的に田村が年上で山背が年下ですし、推古の遺言も群臣の意見も無視できませんから、それに従ったまででしょう。蘇我氏が強くなりすぎると政治的均衡が崩れ、逆に反蘇我氏の勢力が強まってよくありません。もちろん叔父という口うるさい目上の存在を排除し、あえて非蘇我氏の皇子を擁立することで、蝦夷の権力はかえって盤石になりました。

舒明天皇

1年近い空位の後、翌己丑年(629年)正月、田村皇子は群臣に推挙されて即位します。和風諡号は息長足日広額天皇、漢風諡号は舒明天皇です。

皇后は宝(たから)皇女といい、田村の異母弟・茅渟(ちぬ)王の娘で、田村の姪にあたります。母の吉備姫王は欽明天皇の孫娘であり、蘇我氏の血を引いていません。宝皇女は594年(推古2年)に生まれ、はじめ高向王(蘇我氏の血を引く用明天皇の孫)に嫁いで漢皇子を産みましたが、早くに死別し子も夭折したようです。のち彼女は同年代の叔父である田村皇子と再婚し、626年に葛城皇子(天智天皇)を、次いで間人皇女(宝皇后の同母弟である軽皇子=孝徳天皇の皇后)と大海人皇子(天武天皇)を産みました。

舒明を擁立した蝦夷は権力を握り続けますが、天皇も皇后も非蘇我氏系だと蘇我氏の権力や権威が弱まるため、外戚となるべく馬子の娘・法提郎媛(ほてのいらつめ)を夫人として娶らせます。彼女は古人皇子を産み、蘇我氏の血を引く新たな跡継ぎ候補がPOPしました。舒明には他にも妃や子女がいたようですが、跡継ぎ候補には数えられません。

遣唐使

舒明2年(630年)3月、即位を祝賀して高句麗と百済から使者が来て朝貢します。彼らは8月に都で饗応され、9月に帰国しました。8月には最初の遣唐使である大仁の犬上君三田耜(犬上御田鍬)、薬師恵日らを派遣します。また元年4月に掖玖(屋久島)へ派遣されていた田辺連が9月に帰国します。

10月、宮を飛鳥岡本宮に遷しました。雷丘の麓にあり、小墾田宮とさほど離れていません。推古以来天武・持統に至るまで、孝徳・天智を除く歴代の天皇はみな飛鳥(明日香)に宮居しており、これら一連の宮を「飛鳥京」と呼称することもあります。同年、難波大郡と三韓館を修理しました。

舒明3年(631年)3月、百済王の義慈が王子の豊章(豊璋)を人質として送ってきました。義慈は百済の武王璋の子ですが、この年にはまだ即位しておらず、翌年に太子に立てられています。後に百済最後の王となり、豊璋は祖国復興のため倭国を巻き込んで白村江で唐と戦うことになりますが、30年も後のことです。この年、天皇は9月から12月まで摂津国の有馬温泉へ湯治に行っています。

王子爭禮

舒明4年(632年)4月、唐から返答使として高表仁が派遣され、倭国の使者である犬上三田耜を送って対馬まで到来しました。また推古天皇の時に留学生・学問僧として隋に派遣されていた僧旻(日文)の他、霊雲、勝鳥養、新羅の送使らがこれに従ってやってきます。

唐使らは10月に難波津に入り、倭国は隋使裴世清を迎えた時と同じく飾り船や鼓吹を整え、歓迎パレードを催して恭しく迎賓館に案内します。彼らは倭国で年を越し、舒明5年(633年)に帰国しました。唐からの国書や賜物については特に書かれていません。

945年に編纂された『旧唐書』を確認しましょう。太宗紀には倭国の倭の字も出てきません。東夷伝を見てみると、「倭国」と「日本」という2つの項目がありますね。気になりますが後回しにし、倭国について見てみます。

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行、世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十余國、皆附屬焉。其王姓阿每氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束發於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。

なんか『隋書』や『魏志』『梁書』等の記述をごたまぜにしてありますが、だいたいあっています。「衣服の制度は新羅とよく似ている」とあり、冠位十二階などは新羅を参考にしたのでしょうか。遣唐使についてはこうです。

貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。
貞観5年(631年)、使者を遣わして方物を献じた。太宗はその道が遠いのをあわれみ(矜)、勅して「毎年は朝貢しなくてもよいぞ」と命じ、また新州(広東省雲浮市新興県)の刺史(知事)である高表仁を遣わし、節を持たせて(使節の節)行かせ、これを慰撫させた。しかし高表仁は遠方を安んじる才能がなく、王子と礼を争い、朝命を宣べることなく帰還した。貞観22年(648年)、また新羅が表を奉るのに随行して来たり、動静を通じた。

えらいことです。舒明天皇の王子というと葛城皇子(天智天皇)ですが、626年生まれなのでまだ6歳でしかありません。皇族(王族)の誰かか、蘇我蝦夷か、あるいは子でなく王(舒明)のことでしょうか。また「礼を争う」とは、倭国が何か無礼なことでもしでかしたのでしょうか。

1060年に編纂された『新唐書』東夷伝を見てみましょう。いろいろすっ飛ばして貞観5年のことを観ると、こうあります。

太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表(高表仁)往諭、與王爭禮不平、不肯宣天子命而還。久之、更附新羅使者上書。

王子でなく王となっていますが、だいたい同じですね。とりあえず使者の背景を洗ってみると、なかなか興味深い人物です。

高表仁

高表仁は渤海高氏で北斉の高歓と同祖ですが、祖父の高賓は東魏に仕えて出世したものの高歓から讒言を受け、西魏へ亡命して北周にも仕え、驃騎大将軍まで出世しています。父高熲は北周と隋に仕え、文帝の宰相となり、皇太子楊勇は彼を後ろ盾とするため自分の娘を高表仁に娶らせていました。

しかし598年の高句麗遠征の際、高熲は漢王楊諒の我儘を諌めて恨まれ、文帝も讒言を真に受けて彼を疎んじるようになります。599年には王世積の誅殺に連座して免官となり、庶人に落とされました。楊勇は後ろ盾を失って廃位され、次男の楊広(煬帝)が即位します。604年には煬帝から太常という名誉職に任じられたものの、607年に煬帝の政治を批判したため誅殺されます。高表仁も連座して蜀(成都)へ流刑にされますが、唐が興ると帰順して新州刺史に任命されるという数奇な人生を歩んでいます。

祖父が503年生まれで68歳で薨去し、父も607年に薨去していますから、1世代30年で測ると父は533年生まれで享年74歳、高表仁は563年生まれで599年には37歳、607年には45歳、631年には68歳です。

何があったかわかりませんが、おそらく倭国が「唐の臣」となることを拒んだのでしょう。「倭王自ら進み出て拝礼し詔勅を聞け」とか言われてムカついたのかも知れません。隋使の裴世清は若造の下っ端役人だったので友好的に遇されて気を良くし、倭王のメンツを立てて国書を読み上げたのでしょうが、上述のように数奇な人生を送ってきた老齢の高表仁はプライドが高く、「蛮夷の王めが」と見下した可能性はあります。そんなことで外交関係を悪化させられては困りますが、周辺情勢も踏まえてみましょう。

海東情勢

高句麗(高麗)は、王の高建武が盛んに唐へ使者を送り、チャイナとの関係修復に努めています。百済・新羅とは対立しており、その使者を妨害することもありましたが、唐の仲介で一応和解しています。

貞観5年(631年)、唐の太宗は高句麗に使者を遣わして隋の時の戦死者を慰霊させ、高句麗が立てていた京観(敵の戦死者を埋めて築いた戦勝記念碑)を破壊させました。このことで高句麗は唐を恐れ、扶餘(鉄嶺)から海まで千余里に渡る長城を築いています。そして貞観14年(640年)に至るまで9年の間、高句麗は唐へ朝貢しなくなりました。

一方、新羅は貞観5年に2人の楽女を唐へ献上しました。しかし太宗は「朕は『音楽を楽しむのは徳を好むのに及ばない』と聞いておる。また彼女らは遠くから来て、故郷が懐かしかろう。最近、林邑(ベトナム南部の国)が白いオウムを献じたが、故郷を懐かしんだので帰らせた。ましてや人間ではないか!朕は哀れに思うゆえ、家に帰らせるがよい」と名君っぽいパフォーマンスをしました。新羅と組んだ仕込みかも知れません。

なお真平王はほどなく薨去しましたが、跡継ぎとなる男子がおらず、王女の善徳が初の女王として即位しました。倭国にも女王がいたことだしよかろうという空気があった可能性はあります。

百済は貞観元年(627年)に「隣国と仲良くせよ」とありがたいお言葉を頂いただけで、貞観年間には11年まで朝貢記録がありません。かように唐と海東三国は微妙な関係にあり、倭国ばかりが無礼なわけではないようです。

天狗

舒明紀に戻ると、やたらと天変地異の記事が増えます。舒明6年(634年)8月には南の空に彗星が現れ、翌7年(635年)3月には東の空に現れます。7月には剣池に一茎二華の蓮が咲き、8年(636年)元日には日食が起き、5月に長雨が降って洪水が起きます。6月には火災で岡本宮が焼け、臨時に田中宮(橿原市田中町)を造って遷りました。この年は旱魃が発生しています。

7月、敏達天皇の皇子である大派(おおまた)王が「群臣が出仕を怠けている。卯の刻(朝6時)に出仕して巳の刻(午前10時)の後に退出させることとし、鐘で時刻を知らせよう」と蝦夷に提案しますが、却下されました。先進国である唐ではそうしていたようですが、倭国に時刻・時報の概念が持ち込まれるのは30年以上後になります。

舒明9年(637年)2月23日、大きな星が東から西へ流れ、雷のような音がしました。人々は「流星だ」「地雷(つちのいかづち)だ」と言い合いましたが、唐から帰国した僧の日文は「これは天狗といい、その声が雷に似ているだけだ」と答えました。天狗と言ってもフェアリーの一種ではなく、現代で言うところの流星の一種である「火球」で、地表近くまで届いた微小な流星が大気と擦れて轟音を放つものです。3月には日食がありました。

舒明紀から天文記事が増えるのは、唐の先進天文学が伝わって観測や記録が盛んになったせいと思われますが、チャイナでは古来「災異は天の警告である」という説があり、天子や大臣の不徳のせいだとして批判に用いられました。史書に災異が記録されるのはそうした意図もあるので注意が必要です。

上毛野形名

またこの年、東北の蝦夷が倭国に背いて朝貢しなかったので、大仁の上毛野君形名(かみつけののきみ・かたな)を将軍として討伐させました。しかし形名は敗れて砦に逃げ込み、敵に囲まれてしまいます。兵は逃げ去って砦は空になり、形名も夜のうちに逃げようとしますが、妻が嘆いて「ご先祖さまに恥ずかしくないのですか」と叱咤します。そして夫に酒を飲ませて景気づけ、自ら夫の剣を佩き、十の弓を張り、女を数十人集めて鳴弦させました。すると夫は勇気づけられ、武器をとって打って出たので、蝦夷は恐れて兵を引きます。逃げ散っていた倭国の兵は再び集まり、隊を調えて蝦夷を討つや大いにこれを破り、尽く捕虜としたといいます。

百済宮

舒明10年(638年)7月には大風が起きて樹木や家屋を破壊し、9月には長雨が降り、桃や李が季節違いの花を咲かせます。10月、舒明天皇は病気になったか再び有馬温泉に行幸し、翌舒明11年(639年)正月に帰還します。この間に各国から朝貢使節があり、新嘗祭もありましたが、災害復旧ごと放置しています。そのためか天候も怪しく、凶作の兆しである彗星が現れます。

しかし舒明は構わず、7月には百済川のほとりに大宮を建造し、また百済大寺を建立しました。「西国の民に大宮を、東国の民に大寺を作らせた」という大工事で、奈良県桜井市南西部にある吉備池廃寺跡と推定されます。710年に平城京へ遷都すると、この寺も一緒に遷り、大安寺となりました。

9月には唐の学問僧である慧隠・慧雲が新羅使に随行されて渡来します。彼らを11月にもてなした後、天皇は12月に伊予の道後温泉へ出かけています。そのまま年を越し、翌年4月に帰還しました。よほど温泉が好きだったのでしょうか。

◆温◆

◆泉◆

舒明12年(640年)4月、伊予から戻った天皇は厩坂宮(橿原市石川町)に遷り、5月には盛大な斎会を催して慧隠に『無量寿経』を説かせました。11月には唐から南淵請安高向玄理らが新羅を経由して32年ぶりに帰国し、新羅と百済の朝貢使を伴いました。天皇は彼らを歓迎して冠位を賜り、またようやく完成した百済宮に移り住みました。

しかし舒明13年(641年)10月、舒明天皇は49歳で百済宮で崩御します。宮の北に殯宮が設けられ、東宮(皇太子)の開別(ひらかすわけ)皇子(葛城皇子)が16歳で弔辞を読みました。順当に行けば彼が次の天皇となるはずですが、蘇我氏の血を引いていませんし、他の候補者に比べて若すぎます。それでは一体、誰が跡を継いだのでしょうか。

【続く】

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