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【つの版】徐福伝説05・夷洲亶洲

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐福ら斉人、盧生ら燕人は、秦の圧政を逃れるため東海の彼方の新天地を目指したのかも知れません。しかし遼東半島や朝鮮半島には秦の軍隊が駐屯しており、通報されれば殺されてしまいます。秦の手が及ばないもっと遠くを目指したとすれば、どうでしょうか。

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漢徳変遷

秦が滅び漢が興った後も、燕斉の方士たちは盛んに活動し、天子を惑わしています。高祖劉邦は王族や貴族ではなく庶民から成り上がったので、天子・皇帝の権威に箔をつけるため、各地の神々を盛んに祀らせました。儒教はまだ数ある宗教のひとつに過ぎず、人々は各々土着の神々を祀っています。

文帝の時、魯人の公孫臣は騶衍の五徳終始説を持ち出し「秦は水徳だから漢は土徳である(土剋水)」と主張しますが、丞相の張蒼は「洪水が起きたから漢は水徳だ」と反論します。秦の天命を否定し、周の火徳から漢の水徳に遷ったとする意見でしょうか。のち武帝は漢は土徳だと決めますが、彼も方士を盛んに用い、始皇帝を真似て封禅を行い、不老不死の薬を求めました。

武帝は董仲舒の意見を容れて五経博士を置くなど儒教を庇護しますが、官吏の養成に便利だから用いただけで、本人は方仙道・黄老道と呼ばれる方士の教えに傾倒していました。儒教の方も神秘化が進み、董仲舒は「人間の行為を戒めるため天変地異が起きる」という災異説を展開しています。

前87年に崩御した武帝の後は昭帝・宣帝が続きますが、宣帝の子の元帝(在位:前48-前33)は儒教の理想主義に傾倒しており、儒教を建前として法家(覇王の道)を重視した宣帝を嘆かせました。元帝のもとで儒者は勢力を強め、商売敵である方士を「人心を惑わす詐欺師」として弾圧しました。元帝は宦官を重用して儒者を抑えつつ、儒教主義政策を推し進めたものの、あまりに現実離れしていたため失敗して財政破綻を起こし、漢の屋台骨は傾いて行きました。彼の皇后は王政君といい、王莽の叔母にあたります。

彼女と元帝の子・成帝(在位:前33-前7)は、酒色を好む放蕩息子でした。また鬼神を好み、跡継ぎを求めて多くの術士に祭祀を行わせ、金銭を浪費しました。臣下の谷永はこれを諌めますが、『漢書』郊祀志・下に引用されたその文言に「秦始皇初并天下、甘心於神僊之道、遣徐福・韓終之屬、多齎童男童女入海求神采藥、因逃不還、天下怨恨」とあります。伍被伝での引用に近いですが、「平原廣澤、止王不来」といった部分はありません。

また『漢書』李尋伝によると、成帝の時代に斉の方士・甘忠可が『天官暦包元太平経』十二巻を著し、人々に教授しました。これは「漢の天命が衰えているから、再び天命を受けて漢を延命すべし」という教えでしたが、人心を惑わすものとして逮捕され、前22年に獄死しています。方士は天子個人の延命ばかりでなく、天命の延命も可能だと主張し始めたのです。

李尋は儒学者でしたがこの教えに傾倒し、国政改革を行って陰の気を除かねば水害があると予言したので、漢の外戚の王氏に重用されました。前7年に成帝が崩御して病弱な哀帝が即位すると、李尋は甘忠可の教えに従い「再び天命を受けられよ」と勧めたので、哀帝は建平2年(前5年)を「太初元将元年」と改元し、号を「陳聖劉太平皇帝」と改めました。しかし特に効果はなく、李尋らは解任され敦煌へ流されました。

また漢の宗室の出自である劉歆は、宮中の図書を校訂・編集する過程でオカルトに傾倒し、「古文経」と称される『春秋左氏伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』を持ち出してきて儒学や歴史書に修正を加えました。これらは劉歆らが「孔子旧宅の壁中から発見された」と称して先行の諸文献から自作したものらしく、それまでの儒教の経典とは内容的に異なる文書群でした。

古代の文献と偽って経典や史書を捏造することはよく行われます。紀元前621年にはエルサレム神殿から「律法の失われた書物(申命記)」が発見され、これに基づいた国政・宗教改革が行われていますし、近年では青森県の和田喜八郎氏が「和田家文書」を捏造して人心を惑わせました。

劉歆は天体の運行を計算して三統暦を造り、古代の編年を行いました。また五行相生説に基づく新たな五徳終始説を唱え、漢は土徳ではなく火徳であるとしました。すなわち唐堯を火徳、虞舜を土徳(火生土)、夏を金徳、殷を水徳、周を木徳とし、(秦の天命を無視して)周の天命が直接漢に続いたとみなし、木生火で火徳としたのです。

『史記』にも劉邦が赤龍の子で、秦を象徴する白蛇を斬った(火剋金)とかいう伝説がありますから、漢を火徳とみなす説は古くからあったようです。五行では金は白で西、火は赤で南を表します。これは「南のが西の秦を倒すであろう」という予言を漢が取り入れたものと思われ、項羽も劉邦も楚の出身でした。漢は旧秦領に都したため秦の天命を無視できなかったのでしょうが、燕斉や楚など東方諸国では古い伝承が残っていたわけです。

これは漢の外戚である王氏を利するものでした。王氏は田斉の王家の末裔と称していましたが、田氏は河南の陳国の公族が姜斉へ亡命したとされ、陳氏が田氏に変わったと称しています。陳は殷周革命の時に虞舜の末裔が封じられた国とされますから、王氏は田氏・陳氏・虞舜の末裔という高貴な家柄になります。どうせ田斉王家の箔付けでしょうが、(劉歆の捏造した)経典にもそう書かれており、反論すれば権威と権力に逆らうことになります。

そして劉歆の理論では虞舜は土徳であり、唐堯から帝位を禅譲されたと伝えられますから、「天下太平のために、衰えた火徳の劉氏は、次の天命を担う土徳の王氏に禅譲するべきだ!」という完璧な理論が誕生します。果たして王莽は劉歆の説を天下に流布し、平和裏に漢の天子から禅譲を受けました。劉歆は国師に任じられ、古文経が正統な儒教の経典として認定されますが、地皇4年(西暦23年)に反乱を企てて失敗し、自決しています。

王莽を滅ぼして漢を再興した光武帝は、正統政権であるというプロパガンダのために劉歆の説を採用し、漢を正式に火徳と認定しました。ということは漢は永遠には続かず、次の政権は土徳となるはずです。果たして漢末の太平道は中黄太乙を奉じて「黄天まさに立つべし」と唱え(黄色は中央土徳を表します)、袁術や曹魏、孫呉や公孫淵も土徳を称したのでした。

琅邪于吉

その太平道も斉の方士(道士)が編み出したものです。『三国志』孫策伝の裴松之注や『後漢書』襄楷伝などによれば、徐州琅邪郡に于吉(干吉とも)という人がおり、五行・医学・予言に長け、先祖以来東方に寓居していました。漢の順帝(在位:125-144)の時、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽(江蘇省徐州市邳州)の泉で天仙に出会い、神書『太平清領書』を授かりました。それは170巻もあり、陰陽五行を中心として巫覡雑語が多く含まれていたといいます。内容や題名から、甘忠可の『天官暦包元太平経』を拡張したものと考えられています。

彼はこれに基づいて精舎(教会)を建て、香を焚いて経典を誦読し、符水を用いて病気の治療を行いました。順帝の永和5年(140年)、于吉の弟子の宮崇は『太平清領書』を朝廷へ献上しましたが、「妖妄不経」の書として宮中に収蔵されました。桓帝の延熹8年(165年)、冀州平原郡(山東省徳州市)の襄楷はこれを発掘して再献上し、政治改革を行うよう天子を諌めました。しかし用いられなかったので官を辞し、故郷に帰ったといいます。

それから間もない桓帝の建寧年間(168-172)、張角は冀州鉅鹿郡(河北省邢台市)において『太平清領書』を経典とする宗教「太平道」を創始し、布教活動を開始します。平原も鉅鹿も冀州に属しており、張角は襄楷かその一派から『太平清領書』を入手した可能性があります。襄楷は太平道とは一線を画していたようで、184年に黄巾の乱が起きても朝廷から罰されてはいません。のち朝廷に召されましたが出仕せず、家で没しています。

于吉/干吉はその後も生き続け、戦乱を避けて南方へ移り、呉会(呉郡・会稽一帯)の人々には彼を信仰するものが多くいました。彼は建安5年(200年)に孫策によって殺されましたが、人々は于吉が死んだと見せかけて仙人になった(屍解)と信じ、彼を祭って福徳を求めることをやめなかったといいます。虞喜は『志林』において「漢の順帝の時から建安5年まで60年余りが経過しており、于吉はこの時100歳に近かった」と推測しています。年老いても元気であったため、人々は健康長寿を願って彼を崇めたのでしょう。

天災戦乱が相次ぎ、政治が腐敗したマッポーの世にあって、こうしたカルト宗教が流行することは世の常です。方士たちは天子や支配層のみならず、多数の信者を獲得し、天下を転覆させるほどの大乱をもたらしたのです。太平道の主力が壊滅した後、残党は青州(山東半島、斉)を拠点として活動を続け漢朝を揺るがしましたが、曹操に降伏してその兵力となりました。その一部は海を越えて朝鮮半島へ、倭地へ渡来したかも知れません。

夷洲亶洲

220年、漢は魏王曹操の子・曹丕に帝位を禅譲して滅び、曹丕は元号を立てて「黄初」としました。これに対し、孫策の弟である呉王孫権は、222年に劉備を夷陵で破ると「黄武」と建元し、229年には呉の皇帝に即位して「黄龍」と改元しました。共に火徳の漢に続く王朝であることを表します。

『三国志』呉書の呉主(孫権)伝によると、黄龍2年(230年)正月、孫権は将軍の衛温と諸葛直に甲士1万人を率いさせ、海の彼方にあるという夷洲亶洲へ向かわせました。そこに徐福の名が現れます。

二年春正月…遣将軍衛温、諸葛直将甲士万人、浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中、長老伝言、秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海、求蓬莱神山及仙薬、止此洲不還。世相承有数万家、其上人民時有至会稽貨布、会稽東県人海行、亦有遭風流移至亶洲者。
長老が伝えて言うには、秦の始皇帝は方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入らせ、蓬莱神山と仙薬を求めさせたが、徐福は亶洲にとどまって帰還しなかった。子孫は代々続いて数万家があり、その人民は時々会稽に来て布を商うことがある。また会稽郡東部の県の人が海を行く時、風に遭って亶洲に流れ着いた者もいたという。

『史記』淮南衝山列伝の「平原廣澤」の話に尾鰭がついたのか、徐福の行き着いた先は「亶洲(たんしゅう、上古音 tˤanʔ tu)」とされています。洲は島の意ですから亶という名の島ですが、そこが蓬萊なのでしょうか。場所ははっきりしませんが、会稽郡(浙江省紹興市を中心とする領域、旧越国)の東の海の彼方にあり、しばしば人民が往来していたと記されています。

所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲数千人還。三年春二月…衛温、諸葛直皆以違詔無功、下獄誅。
衛温と諸葛直は夷洲の住民数千人を連れて帰国したが、亶洲は非常に遠くて行き着くことができなかった。翌年春2月、衛温と諸葛直は「詔に背いて目的が果たせなかった」として、二人とも獄に繋がれ誅を受けた。

二人は亶洲に到達できませんでしたが、夷洲から住民数千人を連れ帰ることに成功しました。夷洲は実在したようですが、どこのことでしょうか。

呉書陸遜伝・全琮伝によると、孫権は夷洲と珠崖(海南島)に軍の一部を割いて派遣し占領したいと考え、陸遜と全琮に意見を求めました。二人は「万里の海の彼方から禽獣のような民を連れて来ても、軍勢の足しにはならず、疫病のもとです」と諌めたが、孫権は聞きませんでした。また全琮伝によると、遠征軍は一年余りして帰還しましたが、士卒の中で疫病によって死んだ者は八割から九割にのぼり、孫権は深く後悔したといいます。

亶洲ではなく珠崖になっていますが、海南島には漢の武帝によって珠崖郡及び儋耳(たんじ、上古音 [mə-t]ˤam nəʔ)郡が設置されたことがあります。もしや亶洲とはここのことでしょうか。しかし海南島には雷州半島から容易に到達可能ですし、亶洲と儋耳はまた別と考えられます。

『漢書』地理志には「会稽海外有東鯷人、分為二十余国、以歳時来献見」とあり、『後漢書』東夷伝にはこの東鯷人と夷洲・亶洲の話が倭の条の次に記されています。東鯷人は不明ですが、夷洲と関係があるのでしょうか。

孫呉末年に丹陽太守であった沈瑩(280年に戦死)は『臨海水土志』を著しましたが、これに記された夷州のことが唐代の『後漢書』の注釈や宋代の『太平御覧』に引用されて残っています。

それによると夷州は臨海郡(257年に会稽郡から分割、浙江省南部の寧波、台州、温州)の東南の海中にあり、郡から2000里離れています。土地には霜や雪がなく、草木は枯れることがなく、島の四面はみな険しい山で、山頂に「越王の射的」という白い石があります。土地は肥沃で五穀や魚肉があり、住民は野蛮で多数の部族に分かれ、銅鉄はありますが鹿の角を矛とし、青い砥石を磨いて鏃を造ります。また生の魚肉を一ヶ月余り塩漬けにしたものを上等な肴とするといいます。

こうした描写は明らかに台湾島とその住民です。大陸から2000里(868km)もは離れていませんが、例の5倍誇張として400里(173.6km)でしょうか。そして夷洲が台湾なら、さらに遠くの亶洲は南のルソン島でしょうか。一応平原や廣澤はありますし、秦の手も届かないでしょうが、琅邪からは遠すぎる気もします。

結局、亶洲がどこなのかは謎のままです。徐福が辿り着いたというのも伝説に過ぎません。于吉が琅邪から会稽に来て布教を行ったりしたため、徐福伝説も南方に伝わって台湾に関する現地の伝承と結びついた、とするのが穏当なところでしょうか。

神仙伝

晋の葛洪(283-343)が著したと伝える『神仙伝』には、呉郡の沈羲を迎えに来た天神の使者として徐福が登場します。沈羲は蜀で方術を学び百姓を救済したため、天神は三人の仙官を遣わして彼を迎えました。

侍郎薄延者、白鹿車是也、度世君司馬生者、青龍車是也、送迎使者徐福者、白虎車是也。

沈羲は昇天して老君(老子)に謁見し、不死の薬を飲まされて仙人となり、病気を治す符術を授かって地上に戻りましたが、既に400年余りが過ぎていたといいます。要はありがたい符術の箔付け話ですが、徐福はすっかり神仙として扱われ、天界の仙官として活動しています。

また于吉の弟子で漢朝に『太平清領書』を献上した宮崇(宮嵩)も『神仙伝』に現れます。彼は大いに文才があり、道書200余巻を著し、雲母を服用して地仙(昇天しない仙人)の道を得ました。のち会稽の苧嶼山(舟山諸島)に行って仙去したといいますから、于吉の教団の流れをくむ宗教組織がそのように伝えていたのでしょう。

のち呉や会稽には五斗米道が伝わり、于吉系の太平道と合流します。東晋末期には孫泰が教団を組織しますが弾圧され、甥の孫恩は信者を率いて海上の島(舟山諸島)に逃れ、狂信的な反政府テロ活動を行いました。彼らにとって徐福は偉大な先達であり、崇敬の対象だったことでしょう。

◆Freek'N◆

◆You◆

徐福伝説の広がりが見えて来ましたが、彼らがどこへ行ったのかはまだわかりません。少なくとも、史記・漢書・三国志・後漢書などチャイナ側の史書には「徐福が倭に漂着して王になった」という記述は全く見いだせません。徐福と倭が結び付けられるのは、もっと後の話なのです。

【続く】

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