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【つの版】ウマと人類史:近代編13・阿片蔓延

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 インドから東には東南アジア諸国があり、清朝・日本などがあります。カザフスタンの東には清朝に服属した新疆やモンゴル高原、清朝の故郷であるマンチュリアが存在します。英国とロシアはこれらの地域にも進出し、南北に分かれてグレート・ゲームを繰り広げることとなるのです。まずは南側から見てみましょう。

◆水星◆

◆魔女◆

清朝全盛

 清朝の君主・康煕帝は1684年に海禁政策を一部解除し、広東省の澳門(マカオ)と広州(広東、カントン)、福建省の厦門(アモイ)、浙江省の寧波(ニンポー)の四港に海関(税関)を設置し、これらの港に限って外国との貿易(互市)を公認していました。日本や欧州諸国は朝貢国ではなく相互に貿易関係のある対等な(目下には置かれたものの)国とみなされます。ただ寧波は古くから日本・琉球との窓口として栄えており、江南の豊かな物産を輸出することから、多くの外国船がこちらに集まります。

 そこで広州での海外貿易特権を持つ商人ギルド(牙行)や、この地域に利権を持つ官僚、貴族らが朝廷に働きかけ、1757年に乾隆帝は西洋商人の取引窓口を広州に限定します。寧波はすでに日本・琉球との窓口であり、マカオにはポルトガル人が居留権を持っていたため、国内の経済発展が偏らないようバランスをとったのです。日本での西洋との取引が長崎の出島に限定されたのと同じですが、日本がオランダ一国とのみ取引したのに対し、清朝ではポルトガルやフランス、英国とも取引を行っていました。

 しかし、清朝は外国商人との取引に強い制限と高額の関税を課し、量的制限や輸出禁止措置をとり、居留地や港での騒動に対しては清朝の法律を優先しています。また清朝の中央政府と外国政府が直接交渉することもできず、あくまで「商人同士の取引」であるとの建前を崩しませんでした。欧州やロシアから近いオスマン帝国やイランでは、外国商人への優遇措置として治外法権を認めたりしていましたが、国力が衰えると軍事力で脅されて不平等条約を押し付けられたりしています。ムガル帝国に至っては衰退のあまり英国に乗っ取られました。清朝は、ロシアとは隣国ですが欧州本土からは遠く、国力も軍事力も全盛期であったことから、こうした要求をはねのけることができたのです。これは日本や朝鮮も同様でした。

 乾隆帝は、1755-59年にジュンガルを滅ぼしたのちも各地で戦争を行いました。西は四川省西北部に編入されたチベット系ギャロン族の反乱鎮圧(大小金川の役)、新疆およびバダフシャーンでの反乱鎮圧(大小和卓の乱)、南はミャンマー/ビルマのコンバウン王朝や台湾・ベトナム、さらにはネパールのグルカ王朝との戦争も行われています。

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 これにより清朝の版図は史上最大となり、東南アジア諸国は清朝に朝貢するようになりましたが、全てに勝利したわけではなく事実上の敗戦もあり、国内ではミャオ族や白蓮教徒が反乱を起こしたりもしています。また1773年にはイエズス会が教皇の勅令で解散され、清朝でも活動が禁止されたため、欧州からの情報や知識が手に入りにくくなりました。それでも清朝は人口3億(1790年頃)の超大国であり、当時の世界人口(10億人)の3割を占め、圧倒的な経済力と軍事力で周辺諸国に覇権を振るいました。

 欧州諸国でもチャイナの高度な文明や文化はもてはやされ、17世紀から18世紀にかけてシノワズリ(チャイナ趣味)やシノロジー(チャイナ学)が流行しました。ことにフランスはイエズス会士を支援して清朝に派遣し、その歴史や学問に関する出版物が刊行されていますが、フランスの絶対王政/専制君主制を擁護するためチャイナを理想化し過ぎた面もあるようです。これに対して啓蒙思想家も絶対王政やキリスト教を批判するためチャイナや儒教を理想化し、科挙、重農主義、文献批判の方法などを取り入れています。ドイツの哲学者ライプニッツは、自らの研究していた二進法による計算術とチャイナの易経の間に類似性を見出したといいます。

三角貿易

 フランスとの戦争に勝利し、インドをほぼ植民地化した英国は、さらに東へ目を向けます。東南アジア半島部(インドシナ)には比較的強力な諸王国が割拠しており、マレー半島や島嶼部はオランダの植民地でしたが、英国は1786年にマラッカ海峡北方のペナン島を現地のクダ王国から割譲され、貿易拠点とします。さらにオランダ本国がフランス革命政権によって侵略され、衛星国「バタヴィア共和国」になったことから、英国は動揺するこの地域のオランダ植民地を侵略していきます。

 マラッカ海峡の彼方の清朝とは広州で貿易を行うことができました。清朝の産物のうち英国で特に需要があったのは絹織物や陶磁器、そしてです。英国では17世紀から喫茶の習慣が根付き、酒よりは健康に良いというので大いに流行りました。清朝から輸出される茶のうち、18世紀前半には35%、18世紀末には77%が英国に輸出されたといい、決済にはが用いられました。

 これにより英国からは莫大な銀が流出し、貿易赤字となります。他に英国から輸出できるものは毛織物(羊は英国産)や綿織物(綿花はインド産)程度ですが、綿織物は主にインドへ輸出されたものの、清朝では大した需要がありません。そこで赤字を補填するため、英国東インド会社は1773年にベンガル産のアヘンを専売制として、広州へ秘密裏に持ち込み始めます。

 アヘン(opium,阿片)はケシの実の汁を乾燥させたアルカロイド系の麻薬で、古くから医薬品として使用されてきましたが、依存性や濫用による健康被害があり、危険視されてもいます。清朝では1729年にポルトガル商人が持ち込んだアヘンに対して禁令を出していました。英国はこれを密輸して銀で購入させ、茶の輸入で支払われた銀を回収したのです。こうしてインドを介して英国には茶が、清朝にはアヘンがもたらされることとなりました。密輸ですから広州のみならず他の港からもアヘンが流入し、現地の商人によって売り捌かれ、依存性があるため需要はうなぎのぼりに増えていきます。

 貿易拡大に伴い、英国では清朝政府と直接通商条約を結ぶべしとの声が高まり、ジョージ・マカートニーを首席全権とする使節団が清朝に派遣されました。1793年、使節団を乗せた船は広州に入らず東シナ海を北上し、山東半島を巡って渤海湾に入り、北京の外港である天津の大沽へ直接上陸します。

 マカートニーらは北京の北の熱河(承徳)で避暑中の乾隆帝に謁見しましたが、清朝は彼らを「互市の港に来なかったのだから朝貢使節である」と認識しており、マカートニーに「三跪九叩頭(三回ひざまずき、九回頭で地面を叩く拝礼)せよ」と命じます。オランダやポルトガルの大使も「郷に入っては郷に従え」として一応やっていましたが、マカートニーは怒って従おうとせず、英国式に片膝をついて手の甲に接吻するスタイルで乾隆帝に拝謁します。また乾隆帝は「我が国は地大物博(国土が広く産物が多い)であるから、他国と交易する必要はない」と告げ、英国の要求を断ったといいます。

 いかにも中華主義的なエピソードですが、実際には清朝はロシアとは対等に条約を結んでいますし、海外から銀が入らないと困りますし、外国と通商条約を結んで治外法権を許可すればトラブルのもとなのは目に見えていますから、安全保障上おいそれと条約を結べません。英国は世界の彼方のちっぽけな島国などではなく、いまやインドをも併呑して首都の外港に船で踏み込んでくる、危険な「隣国」なのです。

阿片蔓延

 この頃には清朝と英国間の銀の輸出入は均衡状態となり、清朝にはアヘンが流行していました。1796年、乾隆帝から譲位された嘉慶帝はアヘン禁止令を繰り返し出しますが効果はなく、19世紀に入るとアヘン流入量は激増し、清朝からはむしろ銀が流出していく羽目になります。清朝では税金を銀で換算して納入させていましたが、国内の銀が減少して高騰すると、銅銭は銀に対して安くなりますから、庶民にとっては税金が高騰するのと同じです。

 また清朝ではトウモロコシやサツマイモ、ジャガイモなど新大陸産の作物が導入されて人口爆発が起きており、困窮した農民たちは盗賊と化し、白蓮教などの宗教団体に吸収されて各地を荒らし回りました。中央軍である八旗は長年の平和と特権階級化により戦の役に立たず、地元の有力者が自衛のために集めた民兵組織「団練」のほうが強かったので、清朝政府は彼らを臨時の義勇軍として「郷勇」と呼び、盗賊鎮圧を任せています。やがてオスマン帝国のアーヤーンめいて地方の有力者が軍閥化していくわけですが、実際問題として広大な清朝の版図を効率的に治めるにはこうする他ありません。

 これに加えて、海では海賊(艇盗)が横行していました。これは現在のベトナム中南部を治めていた阮氏広南国が1777年に滅亡し、反乱軍が西山朝を建てて北の鄭氏東京国(ハノイ王朝)を滅ぼし、清朝と対立して海賊の後ろ盾となったためです。乾隆帝・嘉慶帝は軍を派遣して海賊を防がせ、欧州諸国とともに広南阮氏を支援して1802年に西山朝を滅ぼさせます。1804年、嘉慶帝は広南阮氏の生き残り阮福暎を越南(ベトナム)国王に封じ、現在のベトナムの領域をほぼ統一する国家(阮朝)が成立しました。ベトナムは建国時にフランスから支援を受けていたため、当初はフランス人を優遇してキリスト教も庇護していましたが、通商条約を結ぶことは拒否しました。また次第に清朝を真似てキリスト教を弾圧するようになり、フランスを始めとする欧州列強の反感を招きます。

 1820年、嘉慶帝が崩御し道光帝が即位します。嘉慶年間から引き続いて国内にはアヘンが蔓延し、銀が流出し、盗賊やカルト宗教が跋扈し、清朝の混乱は悪化の一途を辿っていました。1838年、道光帝はこの悪循環を断ち切るため、湖広総督の林則徐をアヘン問題解決のための臨時全権大臣(欽差大臣)とし、英国との交渉を委ねます。彼は地方行政官としてアヘンの害悪を理解しており、不正官吏の処罰やアヘン根絶運動を行って来た人物でした。

 1839年、林則徐は広州の外国商人に「今後一切アヘンを持ち込まない」と誓約させ、定められた期限までに保有するアヘンを供出すること、以後持ち込んだ者は死刑とすることを通告しました。英国の貿易監督官エリオットはこれを無視しましたが、林則徐は彼の滞在する英国商館に兵を差し向けて包囲し、保有する大量のアヘンを供出させて没収・処分します。エリオットは反発し、英国商人に誓約書の提出を禁止させ、彼らを率いてマカオへ退去しますが、アヘン貿易を行わない外国商人はそのまま広州にとどまりました。

 倫理的・法的に悪いのは明らかに英国側なのですが、エリオットは清朝の要求を断固として拒み続け、林則徐から食料供給禁止など圧力をかけられてマカオからも退去する羽目になります。アヘンを扱わない英国商人にも誓約書の提出が禁止されたため、彼らはアメリカなど外国の商人を仲介者として商品を取引せざるを得なくなり、高額の手数料を取られることとなります。やがてエリオットに従わず、清朝に誓約書を提出して普通に商取引を再開する英国商人も現れ、エリオットは追い詰められていきました。

 1839年10月、英国本国の議会ではこの事態に対して清朝に出兵するか否かの討議が行われます。「麻薬を密輸して利益を得るための不義の戦争ではないか!」との反対意見も当然出ましたが、外務大臣のパーマストンは「英国の国益を守るためである」と強硬に開戦論を唱え、賛成271票、反対262票で議決されます。悪名高いアヘン戦争の始まりです。

◆極道

◆麻薬

【続く】

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