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【つの版】ウマと人類史:近代編06・覇業失墜

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 フランス皇帝ナポレオンは、オーストリア、プロイセンを屈服させて神聖ローマ帝国を解体に追い込み、イタリアやスペインに傀儡政権を建て、ポーランドをワルシャワ公国として蘇らせて、欧州大陸部をまとめる大帝国を建設します。しかしロシアはナポレオンに対抗してスウェーデンや英国と手を組み、ここにフランスとロシアの戦争が勃発します。

◆雪の◆

◆進軍◆

対露遠征

 ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ナポレオンより7歳若く、社交的で魅力的な美男子でした。伏魔殿たるロシア宮廷や欧州政界で生き残るため充分な知性と教養、狡猾さと偽善さを備え、ナポレオンは当時のフランスの名俳優タルマやビザンツ時代のギリシア人に例えたといいます。彼は1807年にナポレオンと講和条約を結び、英国やスウェーデンに宣戦布告して、1809年にスウェーデンからフィンランドをもぎ取りました。またオスマン帝国とも1806年から戦争状態にあり、ドナウ川河口部のベッサラビアを併合しています。

 しかしナポレオンの大陸封鎖令は、英国への輸出ができなくなった大陸諸国を苦しめます。ことにロシアの貴族は大地主で、大量の農産物を英国に輸出して儲けていたため死活問題でした。またポーランドを巡る問題もあり、アレクサンドルがあまりナポレオンに肩入れすれば暗殺されたりクーデターを起こされたりしかねません。ナポレオンはロシア皇族の女性との結婚を申し出ますが断られ、オーストリア皇女と再婚したのち、アレクサンドルの妹が嫁いでいた北ドイツの領邦オルデンブルクにフランス軍を進駐させます。

 この挑発に怒ったアレクサンドルは、1810年に英国との貿易を再開し、軍を動員してワルシャワ公国との境に集めます。ナポレオンもロシア遠征を企画し、ワルシャワ公国とプロイセンに軍を集結させます。スウェーデンの摂政王太子ベルナドット(カール・ヨハン)はナポレオンの部下でしたが、この状況を見て祖国フランスを裏切り、ロシアや英国と手を組みます。1812年1月、フランス軍はスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島を占領して威圧しますが、ベルナドットはフランスと断交し、フィンランドの代わりにフランスの同盟国デンマークからノルウェーを奪うことを英国・ロシアと取り決めました。もはや待ったなしです。

 ナポレオンはロシア帝国へ最後通牒を送りますが返事がなく、1812年6月に同盟諸国からの援軍も合わせて総勢70万を超える大軍勢を進ませ、ネマン川を渡ってロシアに侵攻しました。対するロシア軍は40万ほどで、総司令官のバルクライは正面からの激突を避け、焦土戦術によって敵軍の兵站を絶つ作戦に出ます。スキタイ以来の伝統であり、百年前にはスウェーデン王カール12世をこの作戦で撃ち破った経験もあります。

焦土作戦

 ロシア宮廷は積極的に戦わないバルクライを解任してクトゥーゾフに替えますが、焦土作戦は続けられ、ロシア軍はフランス軍と小競り合いをしながら街や村を焼き払いつつ、ジリジリと退却を続けます。また民兵やコサック騎兵を召集して遊撃隊とし、フランス軍の補給線や背後、側面などを攻撃させます。70万の大軍は対応のため分散せざるを得ず、各地で飢えに苦しみ、死傷や病気、逃亡によって数を減らしていきます。

 9月14日、ナポレオンは11万の軍を率いて旧都モスクワに入城しますが、市民の大部分は脱出していました。同日夜にはロシア兵により街に火が放たれ、4日に渡って燃え続けます。これにより街の4分の3が焼失し、フランス軍は補給もままならないまま焦土と化した都市の中に孤立します。ナポレオンはアレクサンドルに使者を派遣しますが無視され、周囲を敵に包囲され、さらには冬将軍が迫ってきます。やむなくナポレオンは10月19日に撤退を開始しますが、ここぞとばかりにロシア軍が襲いかかりました。

 疲弊したフランス軍は来た道を戻るしかなく、そこはすでに焦土化され、補給は望めません。フランス軍は騎兵のみならず大砲や装備、食糧等の輸送にもを使っていましたが、飢えと寒さでバタバタと馬が死に、飢えた兵士らの食糧となります。馬がなければ大砲も荷車も動かせず、やむなくフランス軍は大量の大砲と荷車を捨てて、徒歩で進まざるを得ませんでした。砲兵による支援、荷馬車による兵站、馬の移動力を失い、フランス軍はますます弱体化していきます。これは戦後にも尾を引く問題となりました。

 11月には冬将軍が到来し、飢えと寒さ、疲労と疫病、ロシアの民兵とコサック騎兵がフランス軍を苛みます。脱走兵は捕虜になるかなぶり殺され、脇道はロシア騎兵に固められ、モスクワを出た時10万いた兵は、11月8日には3分の1になっていました。11月末にはベラルーシのベレジナ川に船橋を架けて渡っている最中に襲撃され、多数の死者を出します。

 12月にナポレオンはようやくロシアから脱出し、ネマン川を渡り終えましたが、戻ってきたのは5000人だけでした。このロシア遠征でナポレオンは30万のフランス軍、7万のポーランド軍、8万のドイツ軍と5万のイタリア軍を死亡させ、20万人が捕虜となり、馬20万頭が死に、大砲1000門を失ったといいます。戦場となったロシアも凄まじい被害を受け、攻めてきた兵力とほぼ同数の兵を失ったうえ、焦土作戦等でロシアの一般住民も巻き添えを食って同じぐらいの数が死んだといいます。くたびれ果てたクトゥーゾフは翌年4月末に病死しました。

王政復古

 ナポレオンのロシアでの苦境を聞いて、パリではクーデター未遂事件が発生します。また西のイベリア半島でもアイルランド貴族アーサー・ウェルズリー(のちのウェリントン公爵)率いる英国軍がスペイン・ポルトガルの反仏勢力を支援し、フランス軍をしばしば撃ち破っていました。

 1813年3月、プロイセンが英国とロシアの対仏同盟に加わり、フランスに宣戦布告します。ロシア・プロイセン連合軍は5月にドイツ(ライン同盟)に侵攻し、駐留するフランス軍と戦います。オーストリアの仲介で6月には休戦しますが、7月にはスウェーデンも対仏同盟に参加し、プラハでの講和交渉が決裂すると8月にはオーストリアも加わります。ナポレオンは休戦期間中に30万のフランス軍を集めていましたが、対仏連合軍の兵力は45万を超えており、今度こそフランスを袋叩きにせんと全方位から襲いかかります。

 フランス軍は必死で抵抗しますが、ロシア遠征の際の兵・馬・大砲・荷車の大量喪失が響いて兵力差はジリジリと開き、10月にはライプツィヒで大敗を喫してドイツから撤退します。ライン同盟は崩壊し、ドイツの諸領邦はフランスとの同盟から離脱、対仏大同盟に加わりました。南からはスペインを制圧した英国軍がピレネー山脈を超え、フランス本土に押し寄せます。

 ナポレオンは乏しい兵力を率いてなおも抵抗しますが、圧倒的な兵力差を覆せず、1814年3月31日には帝都パリが囲まれ開城します。敏腕政治家タレーランの外交交渉により、ナポレオンは4月にフォンテーヌブロー条約を結んで連合軍に降伏し、処刑はされませんでしたが退位を余儀なくされます。

 彼は故郷コルシカの東、トスカーナ群島のエルバ島の領主とされ、皇后マリー・ルイーズとその子ナポレオン2世は北イタリアのパルマ公国の君主とされます。フランスの君主にはルイ15世の孫にあたるルイ18世が立てられ、ブルボン朝が復活して20余年ぶりに王政復古します。国制は立憲君主制とされ、革命やナポレオン時代の諸成果もある程度は採用されています。

百日天下

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 ナポレオンは追放され、戦勝国による戦後処理が早速始まります。しかしヨーロッパ全土を巻き込んで20年以上にも及んだ大戦乱と大変動は並大抵のことではなく、それ以前の様々な因縁もあり、会議は遅々として進みませんでした。いわゆる「会議は踊る、されど進まず(輪舞のように堂々巡り)」です。この間ナポレオンは領主となったエルバ島で精力的に活動しており、大陸の情勢に目を光らせていました。そして「約束された皇后との再会もできず、200万フランの年金支払いもない。これはフランス王の条約違反だ」と宣言し、1815年2月末にエルバ島を脱出します。カンヌ近郊に上陸したナポレオンは、王政府が差し向けた討伐隊に「諸君の皇帝はここだ!撃て!」と叫んで次々と寝返らせ、パリへ進軍しました。驚いたルイ18世は逃亡し、ナポレオンは3月20日にパリに帰還します。

 1821年に出版されたコラン・ド・プランシーの『19世紀の逸話』によれば、当時の新聞にはこう書かれたといいます、「1815年3月、人食いがそのねぐらを出た」「コルシカの鬼がジュアン岬に上陸した」「虎がギャップに到着」「怪物がグルノーブルで一泊」「暴君がリヨンを通過」「簒奪者が首都から60リュー(240km)以内にいる」「ボナパルトは大きく前進。だがパリに入ることは決してない」「皇帝はフォンテーヌブローにいる」「皇帝にして国王陛下は昨晩、人々の中をテュイルリー宮に入城」。マスメディアの掌返しの例としてよくネット上でも見られますが、実際の当時の新聞では脱出当初から「ナポレオン・ボナパルト」と呼ばれており、王政府からは反逆者や裏切り者とは呼ばれても、人食いや鬼や虎や怪物といった表現は使われていないようです。プランシーが新聞を茶化すために誇張したのでしょう。

 これを聞いて諸国は仰天し、6月にウィーン会議を一旦閉幕すると、ただちにナポレオンに宣戦布告します。ナポレオンは連合軍が駐留するベルギーに電撃侵攻し打ち破りますが、6月18日にワーテルローの戦いで敗れ、パリ入城から95日間で再び退位しました。彼は7月にアメリカへ逃れようとして英国に捕らえられ、南大西洋のセントヘレナ島へ流刑にされ、回顧録を著述したのち1821年に死去します。ルイ18世は王位に戻り、ウィーン会議が再開されて諸国の勢力図が引き直され、ウィーン体制の時代となります。

◆復古◆

◆王政

 フランス革命からナポレオンの時代を見てきましたが、そろそろ東へ戻りましょう。この頃のオスマン帝国やイラン、アフガニスタン、中央アジアなどはどうなっていたのでしょうか。

【続く】

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