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【つの版】ウマと人類史:中世編21・成吉思汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 モンゴル族キヤト氏族の長イェスゲイが死ぬと、妻ホエルン、幼い息子テムジンらが遺されます。モンゴル族ではタイチウト氏族が主導権を握るようになり、テムジンたちは没落しました。彼はこの先どうなるのでしょう。

◆今が◆

◆その時だ◆

若年労苦

 寡婦と子どもたちだけの貧しい暮らしになったとはいえ、奴隷身分に落ちたわけでもなく、一家が細々と暮らしていくことは可能でした。一家は協力して僅かな家畜を飼い、野生動物を狩り、食糧や衣服としました。

『元朝秘史』によると、この時ホエルンが産んだ子らには9歳のテムジン、7歳のジョチ・カサル、5歳のカチウン、3歳のテムゲ・オッチギン、生まれたばかりの娘テムルンがいました。またイェスゲイの側室が産んだ庶子には、ベグテルベルグテイがいました。ある時テムジンとジョチ・カサルが彼らと釣りをしていると、釣った魚を奪われたので仲違いし、母ホエルンに訴えます。ホエルンは仲直りしなさいと二人を諭しますが、テムジンらは母の言いつけに背いて二人を殺すことにし、まずベグテルを狙いました。ベグテルは「ベルグテイだけは残してくれ」と言って座り込み、おとなしく殺されましたが、約束通りベルグテイは殺されず、テムジンに仕えて長寿を保ったといいます。ただ『元史』『集史』にはベグテルについて何も記しません。

 タイチウト氏族のタルグタイは、テムジンたちが成長して復讐されることを恐れ、先んじて殺そうと襲撃しました。テムジンは家族らを逃しますが、自らは捕まってしまいます。のち脱走してオノン川のほとりに潜伏していた時、追手の一人で弱小氏族スルドス出身のソルカン・シラは彼を憐れんで逃してやりました。さらに羊毛を積んだ車の中に匿い、旅装を与えて送り出したので、テムジンは家族と再会することができたといいます。

 成人したテムジンは、婚約していたボルテをコンギラト部族から迎えて妻とします。しかしメルキト族の長トクトア・ベキは、かつて弟がイェスゲイにホエルンを奪われた報復としてテムジンの家を襲撃し、ボルテらを連れ去りました。テムジンは父の盟友であったケレイト族の王トオリルに頼んで圧力をかけてもらい、彼女たちを解放させましたが、ボルテは帰還途中にテムジンの子を産み、ジョチ(客人)と名付けたといいます。

 これは『集史』の記述によりますが、『元朝秘史』ではテムジンが盟友のジャムカとともにメルキトを襲撃し、ボルテを取り戻したとします。このことからジョチは「メルキトの子ではないか」と疑われたとも伝えられます。

 こうして仲間を増やしたテムジンは、モンゴル族の中で勢力を盛り返し、タイチウト氏族に仕えていた者たちも次第にテムジンのもとに集まるようになりました。しかしジャムカはテムジンと仲違いし、タイチウト氏族と同盟してテムジン率いるキヤト氏族と戦います。テムジン側の陣営に十三の陣営があったことから、これを「十三翼の戦い」と呼びます。

 戦いはジャムカ側の勝利に終わりますが、ジャムカは勝ち誇って捕虜たちを釜茹でにしたので人望を失い、かえって多くの部族がテムジン側につきました。またこの頃、ケレイト族で内紛が起き、またも追放されたトオリルが放浪の末テムジンを頼って来ました。テムジンは彼と義理の父子となり、彼がケレイト族の君主に戻るのを手助けします。モンゴル族の半分を率いるテムジンと、ケレイト族を率いるトオリルが手を組んだのです。

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阻卜怯烈

 ケレイト(Kereid)とは「カラス」「黒い」を意味する名で、モンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠し、指導者を出すケレイト氏族を含む6つの氏族から構成されていました。もとは九姓タタル/阻卜と呼ばれたテュルク系の部族連合の一派で、860年頃にクルグズを駆逐し、西のナイマン、南のケレイト、北のメルキト、東のタタル(烏古)に分かれました。契丹が勢力を伸ばすと服属しますが、やがて自立していきます。

 記録によると西暦1007年頃、ケレイト族の王はネストリウス派キリスト教に改宗しました。なんでも彼が冬に雪山へ狩猟に出たとき道に迷い、一人の聖者が現れて「お前がイエス・キリストを信じるならば助けてやろう」と言われたのだそうです。王が承諾すると聖者は道案内を行い、無事に王を帰還させました。王は自分の国に滞在していたキリスト教徒の商人にこのことを尋ね、その教義のあらましを知りましたが、洗礼を授ける聖職者がいないので派遣して欲しいと願い、それまでは福音書を拝むことにしました。メルブまで戻った商人は大主教にこれを伝え、大主教はシリアの総主教ヨハネにこれを伝えたので、喜んだ彼らは急いで聖職者を派遣したといいます。
 ネストリウス派キリスト教は、唐代には景教と呼ばれ、ペルシアから伝来して長安でも寺が建立されました。唐では9世紀中頃の宗教弾圧で途絶えたものの、ウイグルやカラハン朝ではマニ教や仏教とともに栄えており、それが商人を通じて伝来したのでしょう。近隣のナイマン、南のオングトもネストリウス派キリスト教に改宗し、西方諸国と交易していました。

 1089年、北阻卜(ケレイト)の族長磨古斯マルクスは契丹遼朝に朝貢し、その地位を認められました。彼はサリク・カン(黄金の君主)と名乗り、1092年には遼と戦い始めます。遼はタタル族と手を組んで1102年に彼を捕縛し、処刑しました。その子クルチャクスはタタル族に復讐を行い、ウイグルの都であったオルホン河畔のオルド・バリクを拠点としてケレイト王国を再興します。マルクスといいクルチャクス(キュリアコス)といいギリシア・ローマ系の名で、ネストリウス派キリスト教の影響が見られます。

 耶律大石が可敦城で諸部族を集めた時、ケレイトはその支配下に入りましたが、1130年に大石が西へ移動すると自立します。しかし国内は金派と西遼派で分裂し、クルチャクスが死ぬとケレイトは分裂しました。ある者は西遼皇帝を真似てグル・カンと名乗り、クルチャクスの子(子孫)のトオリルは彼と争っています。トオリルの生年は明らかでありませんが、没年が1203年でテムジンの父の盟友ですから、1140年頃の生まれでしょうか。西のナイマンは西遼派で、トオリルも一時西遼や西夏を頼りましたが拒まれています。

 1145年、シリアのキリスト教の司教ユーグがローマ教皇に謁見した時、東方にプレスビュテルス・ヨハネス(長老ヨハネ)というキリスト教徒の王がいると伝えました。彼はイスラム教徒のペルシア王サミアルドスを破り、エルサレムへ向かいキリスト教を助けようとしたが、チグリス川に行く手を阻まれて引き返したというのです。これは1141年にセルジューク朝のスルタンであるサンジャルが、カラキタイ/西遼の皇帝耶律大石に破れたことをいいます。大石は仏教徒でしたが、配下にはネストリウス派のキリスト教徒もいたと思われますから、伝聞の結果こうなったのでしょう。当時は十字軍国家がシリアやパレスチナに建国され、イスラム教徒の反撃に苦戦していた頃ですから、遥か東方にキリスト教徒の王がいるという噂は次第に広がり、1177年にはローマ教皇の使節が派遣されました(帰還せず消息不明ですが)。

九峰石壁

 この頃、モンゴル高原の諸部族は西方のカラキタイ/西遼の支援を受け、金の国境を脅かすようになっていました。金は1161年に南宋へ遠征して大打撃を受け、南宋と和平を結んで内政を重視する政策をとっていましたが、支配層は漢化が進んで柔弱になり、各地で反乱が起きていたのです。

 1195年、金は同盟部族のタタルと組んで西遼派の諸部族と戦いますが、戦利品の分配を巡って争いとなり、タタルも金から離反してしまいます。金はこれを討伐するため皇族の完顔襄を派遣し、諸部族に金と結んでタタルを討伐せよと援軍を呼びかけました。テムジン(1162年生まれとして33歳)は、タタル族が父の仇であることからこれに乗り、トオリルとともに出兵しました。これは『元朝秘史』『金史』『元史』にもあり、完顔襄が刻んだ戦勝碑文も発見されていることからも史実です。

 1196年、金軍は東西に分かれて進軍し、ヘルレン河畔のバルスで東軍が包囲されたところを、完顔襄の率いる西軍が追いついて撃破しました。敗走したタタルはウルジャ川でトオリルとテムジンの連合軍に迎撃され、散々に撃ち破られてしまいます。完顔襄は彼らの功績を讃え、トオリルにオンの称号を、テムジンには百人隊長ジャウト・クリの称号を与えました。これよりトオリルはオン・カン(汪罕)、すなわち「王・カン」と名乗ります。王と百人隊長では随分な格差ですが仕方ありません。

天下統一

 金という後ろ盾を得たケレイト・モンゴル連合は、反金派=親西遼派の諸部族を平定すべく戦いを続けます。1197年と98年にはメルキトを、1199年にはナイマンを討伐し、1200年にはモンゴル部のタイチウト氏族を討伐して、タルグタイ・キリルトクを処刑しました。これに対し諸部族は反ケレイト・モンゴル同盟を組み、テムジンの宿敵ジャムカは1201年に東方でグル・カンと称します。称号からして西遼派に違いなく、テムジンとオン・カンは力を合わせてこれらを撃ち破りました。

 しかしジャムカはケレイトに降伏すると、オン・カンを唆してテムジンと仲違いさせ、1203年にテムジンの陣営を襲わせました。テムジンは激戦の末にオン・カンを撃ち破り、オン・カンはナイマンへ亡命しましたが殺されてしまいます。テムジンはケレイトを征服し、高原で彼に対抗できるのは西のナイマン王タヤン・カンだけとなりました。果たしてジャムカはナイマンへ逃げ込むと、テムジンとの対決を煽ります。ナイマンは同族のオングトへ使者を遣わし、ともにテムジンと戦おうと申し出ますが拒まれました。

 1204年、テムジンは兵を率いてナイマンと戦い、タヤン・カンを戦死させてナイマンを滅ぼしました。残党は西遼などへ逃げ込み、ジャムカはメルキトへ亡命しますが捕らえられ、ついに処刑されました。ここに高原上のほとんどの部族はモンゴル族の長テムジンのもとに従い、統一されたのです。

 1206年2月、テムジンはオノン川源流部に功臣や諸部族の長を集めてクリルタイ会議を開き、カンに即位しました。カガン/可汗の号はこの頃までにつづまってカンとなっていましたが、彼の勢力からしてカガン/皇帝に匹敵する騎馬遊牧民の最高君主に違いありません。金や西遼などの諸外国に服属することなく、ただテングリ(天)のみが彼の上にありました。

 この時、かつてテムジンを助けたモンリクの子で巫師のココチュ・テブ・テングリ(天のごとき者)が、テムジンに「チンギス・カン」という尊号を奉りました。チンギスとはテュルク諸語のテンギス(tenggis)、すなわち「大海」を意味し、あまねく天下を支配する大君主であることをいいます。この時の「天下」はせいぜいモンゴル高原を覆うほどでしたが、彼によって建国された大蒙古国イェケ・モンゴル・ウルスは、文字通りあまねく地上を覆う世界史上最大の帝国となっていくのです。

◆ジンギス◆

◆カン◆

【続く】

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