【つの版】ウマと人類史:中世編06・突厥碑文
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【つの版】ウマと人類史:中世編06・突厥碑文

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦630年から657年にかけて、唐は東西突厥と鉄勒の薛延陀部を滅ぼし、モンゴル高原から中央アジアに至る広大な領域に覇を唱えました。チベット高原の吐蕃とも友好関係を結んでおり、まさに世界帝国と呼ぶにふさわしい大国となったのです。その実態を見てみましょう。

800px-唐朝疆域(繁)

◆中◆

◆華◆

突厥復興

 649年、太宗李世民の跡を継いだ皇太子・李治(高宗)は、父の築き上げた帝国をさらに拡大しました。西突厥を征服して都護府を置いたのち、661年にはトハーリスターンに逃れていたペルシア王子ペーローズの要請に応じてアム川の南へ進出し、アフガニスタンに月氏都督府や波斯都督府を置いています。彼らは30年以上もアラブの征服に抵抗しました。

 西突厥では657年に阿史那弥射阿史那歩真がともに可汗とされますが、662年に弥射は冤罪で誅殺され、歩真がその勢力を統合します。666-668年頃に歩真が死ぬと、子の斛瑟羅が跡を継いだものの可汗には任命されず、歩利設ブリ・シャドとして諸部族を率いました。しかし西突厥は衰弱していて諸部族は従わず、西方ではハザール、ジュンガル盆地ではカルルクが自立の動きを強めます。

 この頃の西突厥は十の主な部族の連合体でした。碎葉スイアブから東を左廂・咄陸テュルク部といい、処木昆・胡禄屋・摂舎提・突騎施・鼠尼施の五部族に長(シャド)としてチュルが置かれました。また碎葉から西を右廂・弩失畢部といい、阿悉結・哥舒・抜塞干などの各部族に長として俟斤イルキンが置かれました。他に葛邏禄カルルク・処月・処密などの諸部族が所属し、鉄勒・亀茲・焉耆・伊吾などを属国としています。各部族の長には契約の証としてオクが授けられたため、この連合体は「十の箭オン・オク」とも呼ばれました。

 チベット高原では、唐とほぼ同じ頃に吐蕃が興り、青海地方の国・吐谷渾を巡って唐と争っています。641年には唐の文成公主が嫁いで友好関係を結んだものの、ネパールや北インドへ盛んに進出し、ガンジス流域をも支配下に収めました。663年には吐谷渾を併呑し、670年からは積極的に唐の西域領へ進出、タリム盆地一帯を服属させています。

 東方では660年には百済を、668年には高句麗を滅ぼして、朝鮮半島全土を統治する安東都護府を設置しています。ただ670年から676年にかけて新羅が独立戦争を行い、やむなく新羅による半島の大部分の統治を承認しました。

 モンゴル高原では、679年に阿史那泥孰匐が、翌年には阿史那伏念が可汗に推戴されて唐に背きましたが、まもなく鎮圧されています。しかし残党は阿史那骨咄禄クトゥルクのもとへ集まり、ついに彼が頡跌利施可汗イルテリシュ・カガンとなって半世紀ぶりに東突厥を復興しました。新たなカガンのもと、突厥は唐への侵攻を再開します。かように唐の覇権が揺らいでいく中、高宗は683年に崩御しました。

 高宗の跡を継いだのは皇太子の李顕(中宗)でしたが、生母として実権を握っていた武則天に逆らったため2ヶ月弱で廃位され、弟の旦が擁立されて即位します(睿宗)。彼は母・武則天の傀儡でしかなく、690年には武則天によって禅譲させられ、李氏の唐は滅んで武氏のとなりました。武氏はともかく母方の楊氏は隋の皇族です。その治世は705年まで15年に及び、唐の制度を受け継いで比較的安定政権となったものの、やはり正統性を欠いたこともあり各地で反乱が起きています。

默啜可汗

 東突厥を再興した骨咄禄はこの頃に逝去しており、その子の默棘連ベクキュレンは幼かったので、弟の默啜ベクチュルが後を継ぎました。彼は693年に武周へ朝貢し、武則天から遷善可汗の称号を受けています。696年に契丹族の李尽忠が反乱すると、默啜はこれを討伐して功績をあげ、頡跌利施イルテリシュ大単于、立功報告可汗の称号を賜りました。

 698年5月、默啜は武則天に上表し、「私の娘を皇族に嫁がせたい」と要求しました。武則天は当初渋りましたが、默啜は怒って使者を脅したのでやむなく要求を飲み、武氏の淮陽王に嫁がせると決めます。しかし默啜は唐の皇族(李氏)ではなく周の皇族(武氏)が来たことに異を唱え、武氏を倒し李氏を帝位に戻そうと言い、淮陽王を拘束しました。そして閻知微を可汗に封じ、1万騎を率いて南下し、静難・平狄・清夷などの軍鎮を攻撃し、静難軍使を降伏させました。周は防ぎますが各所で惨敗し、武則天は激怒し、默啜を改名して斬啜と呼んだといいます。結局は圧力に屈して9月に李顕を皇太子とし、默啜は兵を引きました。

 699年、默啜は弟の咄悉匐を左廂シャド、骨咄禄の子の默矩を右廂察に任命しました。また自分の子を小可汗とし、位は両察の上に置き、処木昆部など十姓西突厥の兵馬4万余を統括させ、号して拓西可汗としました。以後突厥は連年辺境を攻撃し、武則天を悩ませたのです。

 しかしこの頃、西突厥は突騎施トゥルギシュ部族に取って代わられています。突騎施の莫賀達干バガ・タルカンである烏質勒は民衆を慰撫して威信があり、諸胡を服属させて20人の都督を置き、各々に7000の兵を統率させました(合計14万)。彼は碎葉スイアブの西北に駐屯し、碎葉を攻めて入手すると牙帳すみかをここに遷し、イリ川のほとりの弓月城グルジャを副都としました。その版図は東北が金山アルタイを挟んで東突厥と、西南が昭武九姓ソグディアナと、東南が西州トルファン庭州ビシュバリクと接したといいます。およそセミレチエとジュンガル盆地にあたります。

 斛瑟羅は西突厥可汗に任命されていたものの、本国へ帰ることを諦め、チャイナに骨を埋めました。斛瑟羅の子の懐道は704年に十姓可汗・濛池都護とされ西突厥可汗の跡を継ぎますが、本国には戻っていません。

 なお、705年から715年にかけてアラブ・ウマイヤ朝の将軍クタイバ屈底波が東方遠征を行い、トハーリスターン、ホラズム、ソグディアナ、フェルガナの大部分を征服しました。突騎施は東突厥と対立していて為すすべがありませんでしたが、幸い715年にクタイバはカリフに解任されて帰国し、その征服地は突騎施に取り返されています。

 705年に武則天は李顕に譲位し、中宗が復位して唐が復活します。しかし中宗は710年に韋皇后によって毒殺され、子の李重茂が擁立されますが韋氏の傀儡に過ぎず、中宗の弟の李旦(睿宗)が子の李隆基とともに韋氏を粛清して実権を奪還します。武則天と韋皇后による一連の事件を「武韋の禍」といいます。かくて睿宗が復位しますが、712年には隆基に譲位しました。これが唐の玄宗です。

 この間、706年に突騎施では烏質勒が逝去し、子の娑葛が即位しました。彼は唐から金河郡王の冊立されますが、部下が唐や吐蕃と結んで反乱しようとしたので腹を立て、西域諸国を蹂躙して可汗と称します。唐はやむなく彼の位を承認しますが、突厥の默啜可汗は709年に突騎施を攻撃し、娑葛を捕縛して処刑しました。默啜は711年に使者を派遣して和親を請い、唐の皇族の娘を金山公主として娶っています。

突厥碑文

 しかし、突厥の北方ではウイグルを始めとする鉄勒諸部族が自立し、九姓鉄勒トクズ・オグズという部族連合を形成しました。默啜はこれを討伐しますが、716年に抜曳固バイルク部の奇襲を受けて殺され、骨咄禄の子の默棘連が擁立されて毘伽可汗ビルゲ・カガンとなりました。

 彼を輔佐したのが弟の闕特勤キョル・テギンと妻の父の敦欲谷トニュククであり、後者はすでに70余歳であったといいます。彼らは南の唐、西の突騎施、北の九姓鉄勒、東の契丹や奚と争いつつ勢力を広げ、吐蕃ともども唐を脅かしました。また彼らは突厥文字による碑文を遺しています。

 現在確認されている限り、最初に突厥文字が使用されたのは、686-687年頃に作成されたチョイレン碑文です。これは東突厥が復興された後、阿史那骨咄禄クトゥルクこと頡跌利施可汗イルテリシュ・カガンの宰相であった敦欲谷トニュククが刻んだもので、タブガチュの支配下から独立した功績を讃えています。ブグト碑文のようにソグド文字でもソグド語でもなく、突厥独自の文字でテュルク語を刻んでいる貴重な史料です。

 次に刻まれたのがバイン・ツォクト碑文で、ビルゲ・カガンが即位した直後に文章が作られ、トニュククが逝去した732年頃に建立されたものです。そこには第二突厥の歴史が綴られ、トニュククがタブガチュの支配した時代に生まれたこと、独立戦争のこと、九姓鉄勒トクズ・オグズ突騎施テュルギシュへの遠征などについて語られています。また政治的にトニュククと対立していたカプガン・カガン、すなわち默啜については好意的でなく、トニュククが自らの功績を誇示する言葉で締めくくっています。

 732年にトニュククとキュル・テギンが逝去し、735年にビルゲ・カガンが毒殺されると、子の伊然可汗イネル・カガンが擁立されますが同年に逝去し、その弟が立って苾伽骨咄禄可汗ビルゲ・クトゥルグ・カガンとなります。この頃、ビルゲ・カガンの甥であるヨルリグ・カガンはオルホン渓谷に石碑を建立し、二人の功績を讃え、突厥の歴史を綴りました。この石碑には玄宗皇帝から贈られた追悼文も漢文で刻まれており、両国が比較的友好関係にあったことを物語っています。碑文で玄宗はカガンとテギンを「朕の子(のようなもの)である」と呼んでいます。

 これに対し、突厥文字による碑文は突厥の歴史をこう書き始めています。

 上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン土門・カガンとイステミ室点密・カガンと坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。 …

 これに続けて歴代のカガンたちが列挙され、重臣たちの無知や民衆との争い、タブガチュの策略によって国が崩壊し、彼らに支配されるに至ったことを述べます。またイルティリシュ・カガンが国を再興したこと、ビルゲ・カガンとキュル・テギンの死に至るまでの功績を編年体で記し(年齢や十二支紀年による)、彼らを讃えています。突厥は「蒼き突厥Gok Turuk」と記されますが、阿史那とはサカ語で「蒼」を意味しますから、それをテュルク語で訳したものかも知れません。

 我らの父祖はタブガチュの奴僕であり、母たちは婢女はしためであった。突厥のベグたちは突厥の官位を棄て、タブガチュの官位を授かり、そのカガンに仕えて命令を聴くこと50年であった(630-680年)。…南はタブガチュ、北は九つのウクス烏古斯族、クルグズ黠戛斯族、三つのクリカン骨利干族、三十のタタル韃靼族、(東には)キタイ契丹族、タタビ族がおり、みな我らの敵であった。我が父なるカガンはこれらの民族を撃ち破り、遠征すること47回、撃破すること20回であった。…これらの諸部族を支配するために、もっともよき地はウトゥケン山であった。(キョル・テギン碑文)

 これらの碑文は、騎馬遊牧民の支配層が自らの文字と言語で記録したものであり、彼らなりの誇張や叙事詩的な表現は多々あるものの、チャイナなどの記録とは異なる貴重なものです。日本で言えばちょうど古事記や日本書紀にあたると言えましょう(これらは漢字・漢文ですが)。およそ国家により歴史書が編纂される時は時代の変遷期で、現政権の正統性を内外に示すため過去の出来事を神話伝説化し、現政権に都合よく記すものです(唐も盛んにやっています)。突厥も自分たちの過去を振り返り、歴史の流れの中に自分たちを位置づけようとしたのでしょう。

 しかしビルゲ・カガンの死後、東突厥は相次ぐ内紛で弱体化し、744年を最後に阿史那氏のカガンはいなくなります。これに代わって九姓鉄勒がウトゥケン山・オルホン渓谷を占領、東突厥の旧領をほぼ平定してウイグル・カガン国回鶻可汗国となります。西突厥も742年を最後に阿史那氏のカガンが絶え、突騎施出身のカガンが冊立されたものの、まもなくウイグルやカルルクに滅ぼされます。結局は支配層がすげ代わっただけですが、突厥は名実ともに滅び去ったのです。ただし、その残党や影響は長く残りました。

◆突厥◆

◆回鶻◆

【続く】

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三宅つの

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