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【つの版】度量衡比較・貨幣98

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 モスクワとの通商や、スペイン・ポルトガルの商船を襲撃して得られた利益により、英国の商業は活性化します。1581年にはオスマン帝国との通商を行うトルコ会社、1583年にはヴェネツィア会社が設立され、1592年には両社が合併してレヴァント会社となります。そして17世紀には英国東インド会社が設立され、北米への植民も本格化していくのです。

◆Oh◆

◆Shenandoah◆


植民難航

 1561年6月、スペイン人の探索船がチェサピーク湾に到達し、バージニア半島で2人の先住民(キスキアック族)の若者を捕まえました。彼らのうちの1人がスペイン人に同行することを承諾し、スペイン人は彼をパキキーノ(小さなフランシスコ)というあだ名で呼んでいます。彼はスペインに連れ帰られて国王に謁見し、翌年メキシコに送られてキリスト教の洗礼を受け、「ドン・ルイス・デ・ベラスコ」と名乗ることになりました。

 彼はメキシコで教育を受け、1566年からはキューバ遠征にも加わり、1570年秋にはイエズス会の伝道隊に随行して故郷へ戻っています。しかし彼は脱走して部族に復帰し、1571年にはイエズス会士らを襲撃して召使いの少年以外を皆殺しにしました。翌年話を聞いたスペイン人は報復に村を襲撃し、8人を絞首刑に処しましたが、ドン・ルイスのその後は不明です。

 1570年頃から1596年まで、英国の海賊フランシス・ドレークは艦隊を率いてスペインの商船や植民地を襲撃し、多大な被害を与えました。北米大陸に限れば、1579年に太平洋側のカリフォルニアに到達して英国領土と宣言し、1586年にはフロリダのサン・アグスティン(セント・オーガスティン)を襲撃しています。しかし彼の活動は植民地建設には繋がりませんでした。

 1583年、英国の探検家ハンフリー・ギルバートは北米大陸に植民地を建設することを計画し、資金を集めてニューファンドランド島に渡り、この地をまず英国領と宣言しました。ここは英国王が資金を出した探検家カボットらに発見されたのですが、正式に英国領と宣言されておらず、フランスやポルトガルの船もやってきて漁労や毛皮取引を行っていたのです。しかしギルバートは帰路に遭難して命を落とし、入植計画は頓挫しました。

入植失敗

 ギルバートの異母兄弟ウォルター・ローリーはこの遠征から生還し、女王エリザベス1世の寵愛を後ろ盾として、さらなる植民活動を計画します。彼は1584年に2隻の船を派遣して北米東海岸を探索させ、現ノースカロライナ州の「アウターバンクス」と呼ばれる砂洲の連なりを調査させました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Pamlicorivermap.png

 ここはタール/パムリコ川とニュース川の河口、パムリコ湾とアルベマール湾を囲む地域で、60年前の1524年にフランス王が派遣したヴェラッツァーノの探検隊が発見しています。彼は細い帯状の陸地の彼方に海が開けているのを見たため、これを「ヴェラッツァーノ海」と名付け、太平洋に通じているのではないかと報告しています。ローリーが派遣した探索隊は砂洲の内側の海に入り込み、先住民ロアノーク族が住む島を発見しました。

 報告を受けたローリーは、エリザベス1世が政治的理由で結婚せず「処女王(バージン・クイーン)」と呼ばれていたことから、この島を彼女にちなんで「バージニア」と名付けました。現在のロアノーク島です。1585年、ローリーは探検家リチャード・グレンビルに入植者を率いさせてバージニア島へ向かわせ、対スペインの軍事基地ともなる入植地を建設させました。

 しかし入植船は浅瀬に乗り上げて食糧を失い、入植者が行った掠奪や殺戮によって先住民との関係も破綻します。グレンビルはさらなる人と物資を調達するため、1586年8月に75人の隊員を残して本国へ戻りますが、1587年6月にフランシス・ドレークがこの地を訪れ、残存部隊の要求を受け入れて彼らを船に乗せ、一足先に本国へ帰還させました。グレンビルは彼と行き違いになり、またも少数の入植者を残して帰還します。

 1587年、ローリーはジョン・ホワイトを隊長とする男女混成の117人の入植者をバージニアに派遣します。しかし周辺の先住民は敵対的で、ホワイトはいったん本国に戻って支援を要請しますが、英西戦争中で余裕がなく、3年の間島に戻れませんでした。1590年8月、ホワイトはようやく島に戻って来たものの、入植者たちは忽然と姿を消していました

 家屋は解体されており、戦闘の形跡も死体も見当たらず、手記も残されていませんでした。ただ砦の柱に「CROATOAN」とあったので、クロアトアン族が住む南の島へ移住したとも考えられましたが、ホワイトは悪天候のためそれ以上の探索を諦め帰国しました。1602年に改めて調査が行われたものの見つかっておらず、彼らがどうなったのかは現在も謎のままです。

 戦闘や疫病でないのなら、船で他の島へ渡る途中で嵐に遭遇して全滅したというのが一番有り得そうな結末です。彼らの中には1587年に入植地で初めて誕生し「ヴァージニア・デア」と名付けられた娘(母はジョン・ホワイトの娘)もいましたが、両親ともども行方不明のままです。クロアトアン族など先住民の奴隷になって生き延びた者もいる可能性はあり、彼女もそのような運命を辿ったのかも知れません。

英仏植民

 1603年にエリザベス1世が崩御し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を兼ねる(ジェームズ1世)ことになると、ウォルター・ローリーは失脚し、内乱罪で投獄されます(1618年に処刑)。ジェームズはスペインと停戦し、長く続いた英西戦争は終わりを告げました。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Wpdms_king_james_grants.png

 1606年、ジェームズは北米東岸に植民を行う「バージニア会社」に勅許を与えました。ただ「バージニア会社」にはプリマスとロンドンの二つの会社があり、プリマスのほうは北緯45度から38度、ロンドンのほうは北緯41度から34度までとされていたため、41度から38度までは領域が重なります。協議の結果、この領域では両社の植民地は100マイル(160km)の間隔を開けて建設することと取り決められました。現地の先住民の許可は全く得ていませんし、スペインにもフランスにも教皇にも許可を得ていませんから、これはジェームズと英国人の勝手な取り決めです。

 これに先立って、フランスはニューファンドランドの西の「ヌーベルフランス」への入植を再開しています。1598年には現ノバスコシア島の南のセーブル島に、1600年にはセントローレンス川の河口のタドゥサックに交易拠点を築きましたが、これらは成功しませんでした。1604年にはファンディ湾のセント・クロイ島に開拓地が設立され、翌年にはノバスコシア島ポートロワイヤルに移転します。フランス人はこの植民地を、ギリシアの理想郷アルカディアをもじって(あるいは先住民の言葉から)「アカディア(Acadia)」と名付けました。バージニア会社による植民予定地の北端(北緯45度線)はアカディアの南端に接しており、現在のカナダとアメリカ合衆国(メイン州)の国境線もおおよそこのあたりですが、のちに英仏は領土を巡って争いを繰り返すことになります。

 二つのバージニア会社は出資者を集め、それぞれ入植者を送り込みます。プリマス会社の船は1606年8月にスペインに捕獲されますが、ロンドン会社の領域へは1607年4月に100人余りの植民団が到達し、近くの川を「ジェームズ川」と名付けました。これを遡ること48km、一行は5月に川の中洲に砦を建設し、これをジェームズタウンと名付けました。この街は北米大陸における英国人の最初の永続的植民地となります。プリマス会社もこれに負けじと再び植民団を送り込み、現メイン州にジョージ・ポパムがポパム植民地を建設しますが、こちらは翌年に放棄されました。

 ジェームスタウンも飢餓と疫病で人口がたちまち1/3になるなど前途多難でしたが、繰り返し送り込まれる入植者によって少しずつ人口は増え、定着していきます。この「バージニア植民地」を皮切りとして、英国による北米植民地が少しずつ形成されていくことになるのです。

◆Country◆

◆Roads◆

【続く】

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