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【つの版】ウマと人類史:中世編22・遠征開始

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦1206年、ゴビの北の諸部族を統一したモンゴル族キヤト氏族の長テムジンは、大モンゴル国イェケ・モンゴル・ウルス、すなわちモンゴル帝国の建国を宣言し、チンギス・カンの尊号を奉られました。世界史の巨大な転換点のひとつです。

◆ああパーツ一体感◆

◆迷いが実際ない◆

蒙古国制

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 建国当初のモンゴル帝国は、東は大興安嶺、南はゴビ、西はアルタイ山脈、北はシベリアに接する、遊牧民の帝国としてはよくあるサイズでした。冒頓単于の匈奴帝国はもう少し南に寄っていますし、檀石槐の鮮卑帝国、社崙の柔然可汗国、東突厥やウイグル可汗国もこの程度です。南の金や西夏、西の西遼にとっては手強い統一政権ができたわけですが、統一されたばかりですから分断工作を行えばなんとかならなくもない相手と言えます。

 冒頓単于や檀石槐と同じく、チンギス・カンも広大な領土を再編します。まず王族や功臣、同盟部族の領主を貴族ノヤンに封じ、領民や領地を与えて安堵させます。遊牧民といえど家畜を養う土地は必要で、領民はそのまま戦力となります。最上位のノヤンは千人ミンガン部隊クリエンを率いる千人隊長ミンガンに任命され、1206年当時は95の千人隊があったといいますから、総兵力は9万5000人、約10万人です。少ないようですがほぼ全員が騎兵で、各々に付き従う歩兵や雑兵、家族や奴隷を合わせればこの数倍にはなったでしょう(匈奴は24の万騎から構成されました)。千人隊の下には百人隊ジャウン十人隊アルバンが置かれ、長にはノヤンが任命されます。各部隊は同時に行政単位でもありました。

 これらの千人隊の上に、万人隊長トゥメンが置かれます。チンギスは南を向いて左手/左翼ジェウン・ガル、すなわち東方の万人隊長として、功臣の一人ムカリを任命しました。また右翼バラウン・ガルすなわち西方には、これに並ぶ功臣ボオルチュを万人隊長に任命します。各々は24ほどの千人隊を率い、残りは中央コルのチンギスが率いました。

 またチンギスは東方の大興安嶺に三人の弟ジョチ・カサル、カチウン(本人は逝去していたので子のアルチダイ)、テムゲ・オッチギンを封建し、西方のアルタイ山脈には三人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイを封建し、本土の防衛とさらなる拡大を命じました。匈奴の時代には、単于の息子を東方の左賢王に、単于の弟を西方の右賢王に封じていますが、チンギスは逆にしたのです。これはモンゴル族自体が東方に起源を持つこと、また東方は比較的弱く狭く、西方には強敵が多くいたものの大きく広がることが可能なためもあったでしょう。反乱して自立したとしても西へ広がるならよく、いざとなれば本土のチンギスがムカリやボオルチュを率いて討伐にいけます。

 帝国を統括する中央政府は、カンの側近であるケシクたちによって構成されます。彼らは親衛隊であるとともに様々な職務を遂行し、ノヤンの子弟や功臣、王族らが取り立てられて任命されます。新たな占領地にはケシクたちが派遣されて戦後処理を行い、文書行政に長けた者は重用されました。

 しかしモンゴル帝国の国内には、多数の被征服部族が割拠しています。これをひとまとまりの国家として編成するには、分断工作を仕掛けられる前に対外遠征を繰り返して戦利品を分配し、一体感を醸成し、モンゴル帝国に所属することのメリットをわからせるのが一番です。イスラム帝国もそのようにして急速に拡大しました。かくしてモンゴルの大征服が始まります。

夏回服属

南宋疆域图(繁)

 では、モンゴル帝国の周囲を見回してみましょう。大興安嶺の東には金の本土であるマンチュリアがあり、その南には契丹の本土と華北平原があります。オルドス地方のオングト部は、沙陀突厥やウイグルの残党が長城オングゥの周りに集まって金の北辺の同盟部族となっていた集団ですが、1204年にモンゴルに服属しています。その西には西夏があり、西遼に従う天山ウイグル王国が連なっています。

 金、西夏、西遼のうち、もっとも弱く小さいのは西夏です。すでに1205年にはテムジン率いるモンゴル軍が西夏を攻撃し、いくつかの城塞を陥落させていました。恐れた西夏では1206年に親モンゴル派が政権を握り、毎年貢納を行うと約束します。西夏はモンゴルと、おそらく西遼の後ろ盾を得て金への侵略を開始しますが、貢納をやめたとしてモンゴルの侵略を受け、1209年には首都興慶を包囲されます。西夏はやむなく皇女チャカをモンゴルに嫁がせて服属し、金との戦争を継続しました。

 1209年春、天山ウイグル王国は西遼の代官を殺害すると、モンゴルへ使者を派遣して服属します。チンギスはウイグル王バルチュクを歓迎し、五番目の息子として厚遇しました。文明国ウイグルの帰順はモンゴルを大きく発展させますが、これによりモンゴルは西遼と敵対することとなります。

 この頃、西遼では異変が起きていました。1204年にナイマン部族連合の王タヤン・カンが戦死した後、その子クチュルクは残党を率いて1208年に西遼へ逃れました。西遼の皇帝は彼を歓迎して皇女を娶らせ、モンゴルの遠征に備えましたが、クチュルクは西のホラズム・シャー朝の王アラーウッディーンと手を組み、1211年にクーデターを起こして西遼皇帝を幽閉します。そして自ら西遼の帝位につくと、タリム盆地のホータンやカシュガルを征服して東方へ勢力を広げました。その勢いは侮り難く、モンゴルはいったんクチュルクと和平を結んでおき、まずは金へと侵攻します。

貞祐南遷

 1211年、チンギスはほぼ全軍を率いて金への遠征を開始します。アンバガイやイェスゲイが殺されたのも、もとをただせば金のせいですから、父祖の報仇としてこれ以上の大義名分はありません。金は1208年に章宗マダガが崩御したのち暗愚なガジェン(衛紹王)が即位し、末期状態にありました。

 金軍はモンゴル軍の猛攻を支えきれず、各地で敗北します。また1212年には金の支配下にあった契丹人の耶律留哥がマンチュリアで反乱を起こし、モンゴルに呼応して金から自立しました(東遼)。契丹人はモンゴル人とほぼ言語や文化を同じくしていましたから、祖国を滅ぼした女真族に対して協力し合うことができたのです。長城付近の契丹人も雪崩をうってモンゴルに寝返り、金の首都・中都(北京)も危うい状態となりました。

 1213年、金の将軍・胡沙虎は天子ガジェンを弑殺して皇族ウトゥプ(宣宗)を擁立しますが、まもなく胡沙虎も殺され、宮中は混乱に陥ります。モンゴル軍はこれを好機として再び南進し、右翼は山西地方を南下、左翼は河北を海沿いに南下、チンギスは中軍を率いて河北・山東を制圧しました。孤立した中都は1214年(貞祐2年)4月に包囲され、城下の盟を結びます。金は衛紹王の皇女をチンギスに娶らせ、多数の持参金や貢納を行い、モンゴルは将兵の間に疫病や疲弊もあったことから満足して撤退しました。

 同年5月、宣宗はモンゴルの侵攻を恐れ、中都から黄河の南の開封に遷都します。中都には皇太子や丞相を残して守備させましたが、河北を見捨てるつもりかと噂が流れ、多数の人民が皇帝とともに南へ逃げ出します。さらに中都では契丹人が反乱を起こしてモンゴルに支援を要請し、第三次金国遠征が勃発します。1215年、モンゴルは中都を征服し、金の黄河から北はことごとくモンゴルの支配下に置かれることとなりました。契丹人の耶律楚材がモンゴルに仕えるようになったのもこの頃からです。

西遼征服

 こうしてマンチュリア、黄河以北、西夏、天山ウイグル王国がモンゴル帝国に服属しました。次は西遼です。クチュルクは帝位を簒奪したあとネストリウス派キリスト教から仏教に改宗し、支配下のイスラム教徒を弾圧しました。これにより人々はクチュルクから離反し、モンゴルにつくようになります。西遼のもとの皇族たちも当然彼に反感を持っています。1215年にはホラズム・シャー朝からモンゴルへ使者が派遣され、友好関係を結びました。

 この頃、イリ地方の都市アルマリクではカルルク族のオザルが西遼から離反し、モンゴルに従属していました。クチュルクはこれを攻撃してオザルを殺し、アルマリクを包囲します。1218年、チンギスは将軍のジェベに2万の兵を与えて派遣し、西遼との戦争を開始します。ジェベはアルマリクを解放すると、西へ進軍してセミレチエ地方に入り、ベラサグンでクチュルク率いる3万の西遼軍を撃ち破りました。

 クチュルクは南へ逃走してカシュガルに入りますが、カシュガルはイスラム教徒が大勢いたため、ジェベは彼らに信仰の自由を約束して反乱を起こさせます。クチュルクはカシュガルを逃れてパミール高原に向かい、ワハーン回廊を抜けてアフガニスタンへ向かいますが、現地の猟師らの落ち武者狩りに遭って捕縛されます。ジェベは彼を斬首して首を掲げ、彼の支配下にあった諸都市を巡らせて安心させました。ここに耶律大石以来90年近く続いた西遼/カラキタイ帝国は滅亡し、モンゴル帝国の領土に組み込まれました。

呼密遠征

 次なる標的は、パミール高原の西に広がる大国ホラズム・シャー朝です。この国はもとセルジューク朝のホラズム総督であったマムルークのクトゥブッディーン・ムハンマドが建てたもので、西遼がセルジューク朝を打ち破ったのを機に離反し、西遼に服属しました。やがてカンクリやキプチャクといった騎馬遊牧民の力を借りて西遼からも独立し、12世紀末にはスルタン皇帝を称し、アフガニスタンのゴール朝、衰退したセルジューク朝を滅ぼしてバグダードのカリフから正式にスルタンと認められ、イラン・アフガニスタン・中央アジアに及ぶ広大な帝国となっていました。

 1200年に即位したアラーウッディーンは、この大帝国の君主でした。1215年にはモンゴルと友好条約を結んだものの、1218年にモンゴルが臣従を求めてくるとこれを拒みます。またシル川中流域の都市オトラルでは、アラーウッディーンの母方の叔父イナルチュクがモンゴルの使節を含む隊商を「スパイだ」として逮捕し、彼らを虐殺して積荷を売り払ってしまいました。

 実際スパイだったかどうかは議論がありますが、「ナメられたら殺す」は世の常です。チンギス・カンは東方をムカリらに任せ、自ら大軍を率いてオトラルへの遠征に出発します。また将軍スブタイはメルキト族の残党を追って北方からホラズム領へ侵攻し、アラーウッディーンはこれを迎撃すべく北上しますが勝利を得られませんでした。モンゴル軍の主力は1219年9月にオトラルを包囲し、籠城するイナルチュクを激しく攻め立てました。

 この頃のモンゴル軍は、ウイグルや西遼、金や西夏、契丹などの諸民族が連合した「多国籍軍」と化していました。もとのモンゴル族は少なくても、部族連合、諸国連合を形成してその上に乗っかれば、雪玉式に膨らんだ大軍を動かすことが可能になります。また遊牧民ばかりでなく、高度な文明国で政治・軍事・諜報・経済の手練手管を積んだ百戦錬磨の人材が集まり、巨大なモンゴル帝国を担いで動かしていたのです。のしかかられた諸国には迷惑千万ですが、参加してしまえば自由闊達で風通しがよく、信仰の自由も認められていますから、どんどん大きくなっていったわけです。
 戦争に際しては諸国を往来する商人を介して情報収集と分析が行われ、流言飛語やプロパガンダ、偽の書簡などによって相手国を混乱させます。騎兵や弓矢ばかりではなく、当時の最新鋭の軍事技術が導入され、攻城用には雲梯(はしご)、破城槌、投石機(砲)、火薬を詰めた投擲弾なども使用されました。相次ぐ戦闘はそのまま軍事訓練となり、寄せ集めの集団も共通の敵と戦うことで一体感が醸成され、「モンゴル」となっていったのです。

 チンギスは次男チャガタイ、三男オゴデイにオトラルの包囲を行わせる一方、長男ジョチらにはシル川流域の諸都市を攻略するよう命じ、自らは末子トゥルイとともにブハラへ進軍しました。行く先々の都市は蹂躙され、掠奪や虐殺が行われます。モンゴルも戦果を誇張喧伝して恐怖を煽りますから、実際にモンゴル軍が来るより早く噂は広まり、恐れをなした総督たちは次々と逃げ出す始末でした。抵抗せずに降伏した都市の住民は殺戮されませんでしたが、当時のならいとして掠奪はされたようです。

 1220年2月、モンゴル軍はブハラに到達し、多少の抵抗は受けたものの、守備隊は逃走した末に潰滅し、市民たちは抵抗せずに降伏します。続いてサマルカンドを包囲にかかりますが、オトラルは半年に及ぶ攻城戦の末に陥落し、イナルチュクが捕らえられ、チンギスのもとへ送られて処刑されます。伝説によると彼は財貨を好んで使節を虐殺した報復として、両眼と両耳に溶けた銀を注ぎ込まれて死んだといいます。サマルカンドもまもなく陥落し、ブハラともども掠奪を受けたのち、市民は多額の身代金と引き換えに釈放されました。抵抗する兵士や市民は殺戮され、職人は戦利品として分配され、市民のうち戦える若者はモンゴル軍に編入されました。

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 君主アラーウッディーンはモンゴル軍が来る前にサマルカンドから逃げ出しており、アム川を南へ渡ってバルフに入りました。さらに西へ逃げてニーシャープールに赴きますが、チンギスはジェベとスブタイに兵を与えて追撃させます。彼らはアラーウッディーンを追ってカスピ海南岸のマーザンダラーン地方に入り、テヘラン近郊のレイを陥落させます。アラーウッディーンはガズヴィーンやルリスターンを経てカスピ海の中のアーバスクーンという小島に逃れ、1220年12月に肺病のため逝去しました。大帝国を失った帝王の寂しい最期でしたが、彼の息子ジャラールッディーンは帝国再興の遺志を受け継ぎ、モンゴルへの抵抗を続けることになります。

◆伊◆

◆蘭◆

【続く】

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