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【つの版】ウマと人類史:中世編18・蒙兀室韋

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 マンチュリアに勃興した女真族の金国により、1125年に遼/契丹が、1126年に宋が、相次いで滅ぼされます。しかし耶律大石により西遼、趙構により南宋としてそれぞれ復活し、金からの国土奪還を目指します。こうした渾沌の中からモンゴル族が興隆し、やがてモンゴル帝国を形成するのです。ではモンゴルはどこからやって来たのでしょうか。

◆蒙◆

◆古◆

魏書失韋

 後世の神話伝説はさておき、モンゴル(蒙古)族の先祖は、チャイナの史書において「蒙兀/蒙瓦」と記された部族のようです。彼らは「失韋/室韋」という部族連合に属し、モンゴル高原の東方に住んでいました。

 554年に編纂された『魏書』には、次のように書かれています。

 失韋国は勿吉(靺鞨)の北1000里(1里530mとして530km)で、洛陽から6000里(3180km)離れている。その道路は和龍(遼寧省朝陽市)を出て、北1000余里で契丹国に入る。

 とありますが、契丹国はこの頃はまだ赤峰市付近なので遠すぎます。いつぞやの魏志東夷伝と同じく5倍に距離を誇張しているとすると(よくあります)、朝陽から北200里(106km)でだいたい契丹領内に入ります。

 北へ10日行くと啜水に至り、北へ3日行くと蓋水があり、北へ3日行くと犢了山がある。その山は高く大きく、周囲は300余里あまり。北へ3日行くと屈利という大河があり、北へ3日行くと刃水がある。また北へ5日行くとその国に到着する。㮈水という大河が北から流れて来ており、広さは4里あまり。

 これらの距離や位置関係については諸説ありますが、和龍は洛陽から3300里といいますから、契丹国は洛陽から4300里(3500里)、失韋国は契丹国から27日・1700里(901km)離れています。1700里を27日で割れば1日63里(33.4km)です。これで計算してみましょう。

 朝陽から200里+10日/630里=830里(440km)北にある啜水は、嫩江の支流の霍林(ホリン)河です。その北へ3日/189里(100km)行くとある蓋水とは、やはり嫩江の支流・洮児(トール)河です。また北へ3日(100km)で犢了山(チチハルの西の克利邪山)に至ります。その北には嫩江の支流の雅魯河、諾敏河などがあり、朝陽から1900里(1007km)北に失韋国があるわけです。そこは大興安嶺の北部、内モンゴル自治区フルンボイル市オロチョン自治旗阿里河鎮です。ここに北からやって来る大河は、嫩江の支流の甘河です。㮈(na)水とは嫩(nen)江のことでしょう。

 阿里河鎮の西10kmの山中に嘎仙洞という洞窟があり、北魏の太武帝が太平真君4年(西暦443年)に刻ませた碑文が残っています。魏書によるとこれは烏洛侯国の西北にあり、北魏の皇室・拓跋氏の先祖が住んだと伝えられ、近隣の民から神霊が宿る場所として祀られていたといいます。

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 勿吉まで南に1000里(530km)といいますから、ここから南へ530kmというと吉林省白城市で、松花江と嫩江が作った沖積平野である松嫩平原の西端になります。その東には金の会寧府であったハルビン市があります。

 失韋国の国土は低湿地で、言語は庫莫奚、契丹、豆莫婁と同じである。

 豆莫婁とはもとの北扶余で、失韋の東・勿吉の北にあり、広さは方2000里、東は海に至るといいます。扶余/夫余は高句麗と同じく濊貊族ですから、庫莫奚、契丹と夫余・高句麗は言語が同じだったのでしょうか。おそらく失韋は匈奴に敗れた東胡の一派で、鮮卑の末裔ということになるでしょう。

 粟や麦、キビが多く、ブタや魚を食べ、牛や馬を養うが羊はいない。夏は定住地に住み、冬は水や牧草を追って移動する。また貂の毛皮を多く産出する。男は辮髪を結い、角で作った弓を用い、長い矢を使う。女性は髪を束ね、左右に分かれたもとどりを結う。その国は盗人が少なく、盗んだ者は盗品の3倍を返還し、人を殺せば馬300匹の賠償を負う。男女はみな白い鹿皮の襦袴を着ており、麹で醸す酒がある。その俗は赤珠を愛し、婦人の飾とする。穴を開けて首飾りとし、数が多いほど貴いとする。女はこれを得られなければ嫁に行けない。父母が死ぬと男女は三年の間哭し、屍は樹林の上に放置する。武定2年(544年)4月、遣使の張焉豆伐らが東魏に初めて朝献した。武定の末(550年)まで朝貢した。

 魏書の失韋に関する記述はこれだけです。騎馬遊牧民というより森林の狩猟民で、農耕や牧畜を行い、毛皮を交易品としています。構成部族は明らかではありません。次は636年成立の隋書を見ていきましょう。

隋書室韋

 室韋は、契丹の同類である。南にいるものを契丹、北にいるものを室韋という。五部に分かれ統一されていない。いわゆる南室韋、北室韋、鉢室韋、深末怛室韋、大室韋である。どれも君長はなく、人民は貧弱で、突厥は常に3人の吐屯トドゥンを置いてこれを支配させた。
 南室韋は契丹の北3000里(5倍誇張として600里、318km)にいる。土地は低湿で、夏は西北へ移動し、貸勃・欠對という2つの山に登る。草木多く禽獣豊かだが蚊や蚋も多いので、人は巣居してその患いを避ける。およそ25部に分かれ、各々に莫弗/瞞咄バガトゥルという酋長がいる。死ぬと子弟が立ち、跡継ぎが絶えると賢く強い者を選んで立てる。

 朝陽から106kmで契丹でしたから、その318km北は朝陽から424km北で、白城市の南西、松嫩平原の南西端です。実際低湿地です。

 男はみな髪を覆わず、婦人は髷を結う。衣服は契丹と同じである。牛車に乗り、蘧蒢フェルトを住居とする。突厥の氈車(毛氈の家を載せた車)のようである。水を渡るときは薪を束ねて筏とし、あるいは家畜の皮を(膨らませて)舟とする。馬は草を織って鞍とし、縄を結って轡や手綱とする。ゲルを家屋として眠り、上を蘧蒢で覆い、移動する時は車に載せて運ぶ。豚の皮を座席とし、木を編んで書物とする。婦女はみな膝を抱えて座る。気候は寒さ多く、田畑の収穫は甚だ薄い。羊はなく馬は少なく、豚と牛が多い。酒を作り飲食することは靺鞨と同じである。
 嫁取りの時は、両家が合意すると、婿が嫁をさらって逃げ、それから牛馬を送って結納とし、家に帰る。妊娠したらまた夫婦で出て行く。婦人は再婚せず、寡婦は共に暮らすことが難しい。部落は大棚を共有し、人が死ぬとそこに屍を置く。三年服喪し、年に四回哭する。その国には鉄が産出せず、高麗から輸入する。貂が多い。
 南室韋から北行11日(693里=367.3km)で北室韋に至る。9部落に分かれ、吐紇山の周囲に住んでいる。部落の酋長を紇引莫賀咄といい、莫何弗バガトゥルが3人ずついてこれを補佐する。気候は最も寒く、雪が深くて馬が埋まるほどである。冬は山に入り、地面に穴を掘って住むが、牛畜は多くが凍死する。麞鹿ノロジカが多く、これの狩猟を務めとし、その肉を食べ皮を衣とする。また氷を穿って水中に網を仕掛け、魚や鼈を採ったりもする。積雪が多く、落とし穴に陥るのを恐れ、木に乗って移動する(スキー)。貂を捕ることを生業とし、狐や狢の毛皮をかぶり、魚皮を衣とする。

 これは魏書の失韋よりやや南、フルンボイル市の牙克石市あたりにいた連中です。チチハルとフルンボイルを繋ぐ道があり、雅魯河が流れています。

 また北行1000里(5倍誇張として200里=106km)で鉢室韋に至る。胡布山(克利邪山/犢了山)の周囲に住み、人口は北室韋より多いが、いくつの部落に分かれているかは不明。樺皮で家を覆う。他は北室韋と同じ。
 鉢室韋から西南行4日(252里=133.56km)で深末怛室韋に至る。川(嫩江の支流・諾敏河)の名によってそう呼ばれる。冬は穴居し寒さを避ける。また西北行数千里(誇張)で大室韋に至る。道は険阻で、言語は通じない。貂や青鼠が多い。北室韋は時々朝貢するが、他は来たことがない。

 このうち大室韋が魏書にいう失韋で、他の四部族は後から部族連合に加わったわけです。魏書の頃に存在した地豆于、烏洛侯などの周辺部族が消えていますから、彼らが室韋を名乗るようになったのかも知れません。次に945年成立の旧唐書、1060年成立の新唐書を見ていきましょう。

唐代室韋

 室韋は、契丹の別類である。峱越河(嫩江支流のトール川)の北に住み、その国は京師(長安)の東北7000里(洛陽から6000里)にある。東は黒水靺鞨、西は突厥、南は契丹と接し、北は北海(アムール川)に至る。その国には君長がなく、大首領17人があり、みな莫賀弗バガトゥルと号する。世襲でこれを管理し、突厥の属国となっている。
 武器には角の弓と楛(ニンジンボク)の矢があり、矢を射るのがうまい。時に集まって狩猟し、終われば解散する。人々は定住し、租税や労役はない。小屋の上を皮で覆ってゲルとし、数十から百の家が相集まって住む。木を焼き削ってからすきとし、金属の刃をつけず、人が牽いて種をまき、牛を農耕に用いない。夏は霧や雨が多く、冬は霜や霰が多い。犬やブタを家畜とし、その肉を食べ、その皮をなめして革紐とし、男女ともに衣服とする。ざんばら髪で左前の衣服をまとい(被髪左衽)、家が裕福な者は五色の珠の首飾りをする。結婚する時は男がまず女の家に入り、三年間その家のために労働したのち、娘の親が彼に娶らせる。娘は実家の財産を分けてもらい、夫婦が同じ車に乗り、鼓を鳴らし舞いながらともに帰る。武徳年間(618-626年)に朝貢し、貞観3年(629年)にも貂を朝貢した。貞観5年(631年)、来朝して多くの貂を貢いだ。それからも朝貢は絶えなかった。

 これは唐代初期までの記録のようです。

 またいう。室韋は、唐の時には九つの部族があった。いわゆる嶺西室韋、山北室韋、黄頭室韋、大如者室韋、小如者室韋、婆萵室韋、訥北支室韋、駱駝室韋は、みな柳城郡(朝陽市)の東北にあり、近いものは柳城から3500里(1/5し700里=371km)、遠いものは6200里(1/5し1240里=657.2km)である。
 今(750-840年頃)、室韋の最西は回紇ウイグルと境を接しており、烏素固部落は倶輪泊(フルン湖)の西南にあたる。その東には移塞沒部落がある。その東には塞曷支部落があり、良馬があり人口も多く、啜河の南に住む。彼らのいう燕支河である。次に和解部落があり、その東に烏羅護部落があり、那禮部落がある。東北に山北室韋があり、その北に小如者室韋があり、その北に有婆萵室韋があり、その東に嶺西室韋があり、その東南に黄頭室韋がある。この部落は兵が強く、人口も多い。東北は達姤タタルと接する。嶺西室韋の北に訥北支室韋があり、この部落は比較的小さい。烏羅護の東北200余里(100km)、那河(嫩江)の北には烏丸の遺民があり、今また烏丸国と自称する。武徳・貞観年間に使者を派遣し朝貢した。

 フルン湖はフルンボイル市の西、モンゴル高原の西部にあります。フルンとはカワウソのことといいます。烏羅護は魏書にいう烏洛侯です。嶺西は大興安嶺の西にいるのでしょう。

 その北、大山の北に大室韋部落があり、望建河(アルグン川)の傍らに住む。その川の源は突厥の東北の境の倶倫泊から出て、屈曲して東へ流れ、西室韋の境、東の大室韋の境を経る。また東の蒙兀室韋の北、落俎室韋の南を経て、東に流れて那河(嫩江)・忽汗河(牡丹江)と合流する。東に流れて南は黒水靺鞨の北を経、北に黒水靺鞨の南を流れ、東に流れて海に注ぐ。烏丸の東南300里(150km)に東室韋部落があり、峱越河トール川の北に住む。この川は東南に流れ、那河に合流する。

 ようやく蒙兀モンゴル部族が出てきました。彼らはもともとアムール川の上流域にいたようです。この川は大興安嶺の西へ流れるハイラル川として始まり、フルン湖からの流れ(季節的な溢流)を合わせてアルグン川となり、北東へ向きを変えます。蛇行しつつ900kmに渡りロシアとチャイナの国境をなしたのち、シルカ川を合わせてアムール川/黒竜江となります。

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 アルグン川の東が大室韋で、シルカ川と合流するあたりの南が蒙兀、北が落俎です。とすると、フルンボイル市アルグン付近が蒙兀の故郷ということになるでしょう。モンゴル帝国時代にも、先祖がアルグン川の谷間にいたことが語り伝えられています。嫩江はハルビンの上流で牡丹江と合流して松花江となり、アムール川と合流してオホーツク海へと注いでいます。

 開元(713-741年)・天宝(742-756年)年間、毎年あるいは隔年に朝貢した。大暦年間(766-779年)にはまた頻繁に朝貢した。貞元8年(792年)閏12月、室韋都督の和解熱素ら11人が来朝した。太和5-8年(831-834年)に、およそ三度使者を遣わした。太和9年(835年)12月、室韋大都督の阿成ら30人が来朝した。開成(836-840年)・会昌(841-846年)年間にも朝貢は絶えなかった。

 唐の初期から末期に至るまで、室韋は朝貢を行っています。しかし蒙兀が朝貢したという記録はありません。新唐書ではどうでしょうか。

 室韋は契丹の別種、東胡の北辺であり、おそらく丁零テュルクの苗裔である。その地は黄龍(朝陽)の北に拠り、峱越河の傍らで、京師(長安)から7000里。東は黒水靺鞨、西は突厥、南は契丹で、北は海に瀕する。その国は君長なく、ただ大酋(各部族の酋長)がいてみな莫賀咄と号し、突厥に服属している。
 小さいものは1000戸、大きなものは数千戸で、川谷のほとりに散居し、水場と牧草を追って移動し、租税を納めない。狩猟のために呼び合って相集まるが、終わると解散する。互いに君臣の関係を結ばず、そのために勇猛果敢で戦を好むが、ついに強国となれずにいる。木製の犂を人が牽いて耕し、田畑の収穫は少ない。気候は寒く、夏は霧や雨、冬は霜や霰が降る。富裕な者は五色の珠を首飾りとする。嫁取りの法は、男が先に女の家で三年間雇われ仕事をし、その後夫婦で分居する。子供が生まれたら戻ってきて鼓舞歓迎される。夫が死ぬと、妻は再婚しない。
 部落ごとに大棚を共有し、死者があると屍をその上に置き、三年の喪に服する。土地は鉄が少なく、高麗から輸入している。武器は角弓や楛矢で、射撃が上手い。夏には西の貸勃・次對という山々に移動する。山には草木鳥獣が多いが、蚊が多くおり害をなすので、樹木の上に巣のようなすみかを作ってこれを避ける。酋長が死ぬと子や弟が後を継ぎ、跡継ぎがいなければ豪傑を推挙して立てる。牛車に乗り、蘧蒢フェルトを家とし、水を渡るときは薪を束ねて筏とし、あるいは皮を舟とする。馬はみな草を鞍とし、縄を轡や手綱とする。住居は皮で覆い、あるいは木を曲げて蘧蒢で覆い、車に載せて運ぶ。家畜は羊がなく馬が少なく、牛はいるが役畜とせず、大きな豚があってこれを食う。その皮はなめして衣服や座席とする。言語は靺鞨と同じ。
 およそ20の部族に分かれている。嶺西部、山北部、黄頭部(これは強い)、大如者部、小如者部、婆萵部、訥北部、駱丹部は、みな柳城の東北で、近いものは3000里、遠いものは6000里。最も西に烏素固部があり、回紇と接していて、倶倫泊の西南にあたる。倶倫泊から東に移塞沒部があり、やや東に塞曷支部があって最強である。啜河の南に住む。また燕支河という。さらに東に和解部、烏羅護部、那禮部、嶺西部がある。真北に訥比支部があり、その北に大山があって、山の北には大室韋がある。室(望)建河に瀕しており、その河は倶倫から出て東へ流れる。河の南に蒙瓦部があり、北に落坦部がある。水は東して那河と忽汗河に合流し、東へ向かって黒水靺鞨を貫く。故に靺鞨は水を跨いで南北におり、河は東に流れて海に注ぐ。峱越河は東南に流れてまた那河と合流するが、その北に東室韋がある。おそらく烏丸の東南鄙の残党である。
 貞観5年(631年)、初めて来朝して多くの貂を貢いだ。(武則天の)長寿2年(693年)に叛き、将軍の李多祚がこれを撃って鎮圧した。(唐の中宗の)景龍初年(707年)に再び朝貢し、突厥と戦うための援軍を要請した。開元・天宝年間(713-756年)におよそ10回朝貢し、大暦年間(766-779年)には11回朝貢した。貞元4年(788年)、奚とともに振武(フフホト市の大青山)を寇掠した。節度使で唐朝の臣の方郊が天子の使者を労うと、驚いて逃げ、室韋執詔使が大殺掠して去った。翌年、使者が来て陳謝した。大和年間(827-835年)に3回朝貢し、大中年間(847-860年)に1回朝貢した。咸通年間(860-874年)に、大酋の怛烈が奚と共に使者を京師へ遣わした。その後は明らかでなく、史書に失伝している。

 やや詳しくなりました。朝貢ばかりでなく、たまには唐に逆らって国境地帯に攻め込んだりもしたようです。また8世紀の突厥碑文では「バイカル湖の東の三姓ウチュクリカンと、シラムレンのキタン(契丹)の間に三十姓オトゥズタタルがいた」とし、セレンゲ川下流部には「九姓トクズタタルがいた」とありますが、このうち三十姓タタルがチャイナの史書にいう室韋ではないかといいます。「タタル」とはテュルク諸語で「他の人々/異民族」を意味し、突厥側がそう呼んだものです。

 要するに唐代の室韋とは、現在の大興安嶺山脈北部、内モンゴル自治区フルンボイル市あたりに勢力を持っていた森林狩猟民の部族連合のようです。アムール川の支流に部族が割拠し、東の勿吉/靺鞨、西の突厥やウイグル、南の契丹に囲まれていました。現代ではチャイナとロシア、モンゴルの国境地帯をなすこのあたりは、甚だ北方の辺境でした。唐代は「中世の温暖期」にあたり、ドングリをつける広葉樹林がこのあたりにも分布していたことが考古学的に確認され、粗放な農業も行われていました。

 840年にウイグル・カガン国が黠戛斯クルグズの侵攻で崩壊すると、王族の烏介は唐を経て室韋に亡命し、娘を室韋の族長に娶らせて庇護を求めています。848年に烏介の弟が亡命してきたのでこれも匿いますが、唐はこれを捕縛すべく黠戛斯などを室韋に差し向けたため、室韋は黠戛斯宰相の阿播に大敗し、回鶻人ともども黠戛斯の略奪を受けたといいます。この時代には寒冷化が起きており、黠戛斯の南下とウイグルの崩壊はそれによります。

 860年代、黠戛斯はさらに北方から侵入した九姓タタルに撃退され、彼らがモンゴル高原に割拠します。これは室韋とは異なり、ケレイトやメルキト、ナイマンといったテュルク系の諸部族でした。室韋の南では契丹が勢力を伸ばし、靺鞨・渤海やチャイナを脅かします。このような時代に、モンゴル部族はどうしていたのでしょうか。

◆蒙◆

◆古◆

【続く】

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