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【つの版】ユダヤの闇09・赤盾紋章

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

フランス革命とナポレオン戦争を契機として、ドイツのロートシルト(ロスチャイルド)家は財閥への道を歩み始めます。またユダヤ人はゲットーから解放され、寄留者ではなく市民権を持つ「国民」となる道が開かれました。とはいえ欧州のユダヤ人差別の歴史は根深く、フランス革命はユダヤ人の陰謀だとする陰謀論も現れました。

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◆In the rich man's world◆

維納体制

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フランス皇帝ナポレオンは、欧州各地を征服し、服属させ、衛星国を置いて支配下に置きました。1806年に神聖ローマ帝国は解散し、ハプスブルク家の領邦国家はオーストリア帝国、帝国西部の諸侯はフランスの保護国であるライン同盟、北部ドイツはプロイセン王国にまとまります。ポーランドはオーストリアやプロイセンから切り離され、自治権を回復しました。

ナポレオンは英国を苦しめるべく大陸封鎖令を出しますが、これは既に英国との貿易なしでは成り立たなくなっていた欧州経済をも苦しめ、自らの首を締める結果となります。欧州諸国は次々とフランスから離反し、ナポレオンは懲罰のために転戦した挙げ句、1812年のロシア遠征で大敗を喫しました。諸国は対仏同盟を結んでフランスを徹底的に打ち破り、1814年には連合軍がパリに入城、王政復古を成し遂げました。ナポレオンは退位させられ、イタリア沖のエルバ島に島流しとなります。

1814年9月から、欧州の戦後処理を巡って諸国の代表がウィーンに集まってサミットを開催します。しかし利害が衝突して何ヶ月経ってもまとまらず、1815年3月にはナポレオンがエルバ島を脱出してフランスに舞い戻ります。仰天した諸国は6月に妥協案としてウィーン議定書を締結、協力してナポレオンを再び打倒しました。ナポレオンは南大西洋の英領セントヘレナ島に島流しとなり、1821年に逝去しました。

ウィーン議定書による体制は、欧州の混乱を収めるため、正統な(伝統的に主権者とされてきた)政権による国家間の勢力均衡を基本原則としました。ナポレオンが造った衛星国は解体・再編され、ライン同盟は解体されてプロイセンを加えたドイツ連邦を結成し、オーストリアが盟主となります。また英国やロシアも領土を獲得した一方、王政復古したフランスは敗戦国として多額の賠償金を課せられました。戦争責任の当事者なので仕方ありません。

この時代、ロートシルト家をも凌ぐ大財閥が英国のベアリングス家でした。ドイツのブレーメン出身の商人をルーツとし、18世紀に銀行業を開始するとたちまち業績を拡大、ナポレオン戦争に際して英国の戦時公債やフランスの賠償金の公債を引き受けました。また独立間もないアメリカ合衆国にも出資し、1803年のルイジアナ買収を取り計らっています。

1812年にロートシルト家の創始者マイアーが逝去すると、フランクフルトの事業は長男アムシェルが継承しますが、三男ナータン(ネイサン・ロスチャイルド)は英国、五男ヤーコプ(ジェイムス・ロチルド)はパリに移住して別に事業を営んでいました。彼はナポレオン戦争中にネイサンと協力して英国から物資を密輸しており、戦後は帰国した貴族らの財産管理者となって顧客を増やします。さらにロートシルト家は多額の賠償金公債を売買して圧力をかけ、1818年には公債発行に加わることに成功しました。

次男ザーロモンはウィーン、四男カルマン(カール)はナポリに移住し、欧州全土にネットワークを広げていきます。オーストリアの宰相メッテルニヒは彼らに目をつけ、1816年には五兄弟全員に「フォン」の称号を、1822年には男爵の位と紋章を授けました。どのようなものか見てみましょう。

紋章解意

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まず、中央の盾(エスカッシャン)の中心に家名である「赤い表札/盾(ロートシルト)」があり、その右上と右下に五兄弟の家系の団結を象徴する「五本の矢」を握った手が描かれています。これは旧約聖書の詩篇127篇に「壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ」とあるのに基づくといいます。

盾の左上にはハプスブルク家をあらわす黒鷲、右下には赤い獅子が描かれ、盾の下には家訓(モットー)である「融和・誠実・勤勉」がラテン語で書かれ、左右には獅子と一角獣が盾持ち(サポーター)として描かれます。そして盾の上には宝冠を被った黄金の兜が3つ並び、真ん中はハプスブルク家の黒鷲、左は六芒星と二本の角、右は青と白の羽根飾りを戴いています。

盾持ちの獅子と一角獣(ユニコーン)は、英国(連合王国)の紋章において各々イングランドとスコットランドを象徴します。ナポレオン戦争で英国にネイサンが協力したことに由来するのでしょう。日本の狛犬は左右に獅子と一角獣(狛犬)を配しますが、古くは左右とも獅子で、獅子と一角獣が対置されるのは平安後期からです。英国やユダヤとは何も関係ありません。

1816年10月21日、オーストリア皇帝フランツ1世はロスチャイルド家に「フォン」の称号と紋章を授けることとし、デザインについて相談させました。ウィーンにいたザーロモンは他の兄弟に手紙を送りますが、彼らはそれぞれの国で貴族になりたいと願い(英国のネイサンは爵位や称号に無関心でしたが)、多数の象徴物が盛り込まれた複雑なデザインになってしまいます。その後の相談の結果いくつかが削られ、こうなったわけです。紋章は象徴の塊ですから、いかにも何か神秘的意味が暗示されていそうで、よく陰謀論でも取り沙汰されます。しかし、単なる紋章にすぎません。

特徴的なのは五本の矢を握った腕と、ユダヤ人をあらわす六芒星(いわゆる「ダビデの星」)程度です。ユダヤに限らず世界中に古くからあり、日本では籠を編んだ時の模様として「籠目(かごめ)」と呼びますし、インドでも曼荼羅に用いられます。三十年戦争末期にユダヤ人部隊の旗印として定められたともいいますが、考古学的には4世紀頃から魔除けやとして中東で用いられてはいたようです。ダビデの星と呼ぶのは、ダビデ(DAVID)に含まれるふたつのDをギリシア文字のΔ(デルタ)として組み合わせたことに由来しており、ヘブライ文字に起源を持たないのでダビデ本人とは無関係です。

巧みな情報戦略と政治力で成り上がったロートシルト家に対して、嫉妬した人々による誹謗中傷が集中したのは言うまでもありません。今も昔もゴシップやオカルトや陰謀論は好まれますし、そうした出版物は飛ぶように売れ、妄想は次々と増幅されて垂れ流されます。フランス革命の原因はフリーメーソンだ、イルミナティだ、イエズス会だ、テンプル騎士団の残党だ…と噂が広がり、ついに「全てはユダヤ人の陰謀だ」となったわけです。

この時代にもキリスト教は西洋社会で強い権威を持っており、ユダヤ人への差別感情も根強く存在しました。18世紀後半からドイツで民族主義が高まると、ユダヤ人を異分子として排除する動きは強まり、各地で迫害(ポグロム)も発生します。ゲットーから解放されたユダヤ人の多くは啓蒙教育を受けて良き国民となるべくキリスト教に改宗しましたが、人々はなお不信の目を向け「表面的な改宗に過ぎず、陰謀を巡らしている」と噂しました。

民族主義

しかして、民族とは何でしょうか。これは英語nation(ネイション)を明治時代に翻訳した用語ですが、また国民、国家とも訳される厄介な概念です。言語や宗教などの文化によって区別される人間集団をエスニック・グループ(ethnic group)と呼ぶこともあります。ざっくり整理してみましょう。

英語nation(ネイション)の語源は、ラテン語natio(生まれ)に遡ります。gens(氏族)やgenerate(生まれる)、gene(遺伝子)と語源を同じくし、語頭のge-が取れただけです。家族より広く氏族より狭い同族集団を意味しましたが、地縁や血縁から転じて、ローマ帝国時代には市民権を持たない「よそもの、田舎者」程度の侮蔑的ニュアンスも持ったようです。

中世欧州では、natioとは大学(カレッジ)に通う様々な出身地の学生や聖職者らのうち、同じ地域の出身者が集まった互助会・自治組織を指しました。これは言語・風習・慣習法を同じくし、緩い地縁によって繋がるもので、国家を基準としたものではありません。たとえばパリ大学にはフランシア(パリ周辺)・ピカルディ・ノルマンディ・ゲルマニア(ドイツ)という4地域のnatioがあり、フランス王国で一括されていません。プラハ大学にもボヘミア・バイエルン・ザクセン・ポーランドの4つのnatioがあります。

これが転じて、natioには「地域を代表する党派」といった意味が付与され、16世紀初期には「その地において主権を有する人民」という近代的な意味になったようです。ただし参政権を有する貴族や聖職者、富裕市民に限られ、女子供や下層階級は埒外に置かれました。

1512年、神聖ローマ帝国(Sacrum Romanum Imperium)は正式名称を「Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae」と改めます。ドイツ語では「Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation」です。これは「ゲルマニア/ドイツ国民による神聖ローマ帝国」ほどの意味ですが、ゲルマニア/ドイツという概念の範囲ははっきりしません。そも「ドイツ」とはゲルマン諸語で「民衆」を意味し、ザクセンやバイエルン、ヘッセンなど、フランク王国の範囲内でゲルマン諸語を話す人々の総称でしかありませんでした(オランダ人も低地ドイツ語を話すためダッチ=ドイツ人と呼ばれます)。

神聖ローマ帝国は、皇帝が一元的に支配する統一国家ではなく、多数の領邦(ラント)から構成される天下(ライヒ)に過ぎませんでした。800年のカール大帝以後、その帝位を継承する国はローマ帝国(Imperium Romanum)と呼ばれますが、帝位は転々とした末に東フランク王が中フランク王(イタリア王、ローマ王)を兼ねて受け継ぐことになり、西フランク王(フランス王)と対立します。1157年、皇帝フリードリヒ1世が発布した書状に「神聖なる帝国(Sacrum Imperium)」が初めて現れます。これを繋げて13世紀以後は神聖ローマ帝国(Sacrum Romanum Imperium)と呼ばれました。その統治範囲/天下(インペリウム)はかつてのローマ帝国どころか、現在のドイツ、オーストリア、ボヘミアなどを覆う程度でした。

宗教改革が起きると、イングランド王ヘンリー8世はローマ・カトリック教会から離脱して世俗国家が主体となる国教会を設立しました。島国で王権が比較的強く、いわゆる百年戦争を経て「我々は大陸とは異なる独立国だ」というイメージが強まったのでしょう。また17世紀に国王と議会が対立すると、議会派は「主権は国王ではなく国民(nation)にある」と主張し、国王の首を刎ねて共和国を打ち立てます。王政復古後も議会は王権を制限して権力を握り、貴族と市民による国民主権の国家として繁栄していったのです。

似たような国家として、王政を廃して共和国となったローマ、元首を選挙で選ぶヴェネツィアやフィレンツェ、ポーランドなどがあります。

欧州諸国では哲学者がより良い政治体制について議論を重ねていましたが、専制君主制をとるオスマン帝国やモスクワ・ロシア、ハプスブルク家やフランス王国、プロイセン王国もそれなりに繁栄していたため、英国式の立憲君主制は浸透しませんでした。しかし第二次百年戦争でフランスが不利に追い込まれると、英国の政治体制が優れていると考えられ、啓蒙主義者らが国民主権の議会政治を行うべしと喧伝したわけです。

専制君主らはこれを弾圧しますが、国民の概念はひとり歩きを始めます。フランスでは人権宣言と革命戦争のためにフランス全土の住民が平等に国民とされ、徴兵制度によって無理やり国民軍に組み込まれました。そしてドイツ諸国では国家統合のために国民を創出すべし、という話になっていきます。英国やフランスは国王のもとに一応の統一があったものの、神聖ローマ帝国の領邦は言語・文化・政治的に多種多様でした。

ドイツの哲学者ヘルダーは、nationを「共通の言語や文化、風習を持ち、歴史的に生成された集団」とみなし、ドイツ語でフォルク(Volk)と呼びました。もとは民衆・大衆・兵士などを意味する語です。ゲーテやシラー、フィヒテ、ベートーヴェン、ヘーゲル、グリム兄弟もこの時代の人物で、近代ドイツ文化・標準ドイツ語の形成に大きく関与しました。人種主義アーリアン学説、反セム主義もこの頃にフランスやドイツで形成されます。

ルーツはどうあれ国家に対して主権を持つ国民(nation)という概念は、ドイツでは「歴史的にドイツ文化を共有する集団」と読み替えられたのです。後世の人類学では、こうした集団(民族)をエスニシティとかエスニック・グループと呼びネイションとは区別しますが、今も昔もよく混同されます。こうなると、ドイツのフォルクに属さぬスラヴ人やマジャル人(ハンガリー人)、ユダヤ人が排斥されるのは目に見えています。

イングランド人もフランス人も、ルーツや言語は多種多様です。たまたま一人の君主がそれらの上に君臨し、一応の共通語を用いているために、対外的にはひとまとまりになっているように見えるだけです。「同じ言語を話す人々、同じ国の住民は、共通の先祖から増え広がった同族である」とするのは、神話や聖書的世界観にとらわれた幻想に過ぎません。まあ人類の先祖を遥かに遡ればアフリカ人ですが。

ネイションという概念は時代や地域によってかなり変化しており、説明が難しいのですが、おおむねこんな感じです。これに対抗するため、ユダヤ人も民族主義に目覚め、聖書に予言された通りエルサレム(シオン)へ帰還して祖国を復興しようというシオニズム運動が始まるのです。

◆ZION◆

◆ZION◆

【続く】

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