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【つの版】邪馬台国への旅14・卑彌呼01

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ようやく卑彌呼について語ることができます。しかし彼女のひととなりについては魏志倭人伝からほとんど知ることができず、容貌や言葉さえ記録されていません。神秘のヴェールに包まれた彼女の妖術に惑わされることなく、現実に3世紀の倭國を治めた政治的存在として読み解いて行きましょう。

◆鬼◆

◆道◆

卑彌呼

乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。

(倭國亂の状況が続いたため、)そこで一女子を共立して王とした。名を卑彌呼という。彼女は鬼道に事(つか)え、よく民衆を惑わすことができる。年齢は既に成人(長大)だが、夫や婿はいない。男弟があって彼女が国を治めるのを補佐している。

※Wikipediaの倭国・邪馬台国関係の記事は、荒らしや編集合戦で荒廃しています。参考までに貼っておきますが利用には気をつけて下さい。

卑彌呼の上古音は *pe * m-nə[r] *qʰˤa です。一般に「ヒミコ」と呼ばれますが、上古の倭語はハ行をパ行で発音するため「ピミコ」あるいは「ピミカ」のように呼ばれたでしょうか。呼を「ヲ」と読むともいいます。卑狗を「ヒコ(ピコ)」、彌彌を「ミミ」と読んできましたから、少なくとも卑彌が「ヒミ(ピミ)」であろうとは推測できます。意味は後で考察します。

血縁関係に関しては「夫や婿がおらず、弟が国政を補佐している」とあるだけです。倭國の「大王」としての正統性を保証するものとして、少なくとも王族ではあったでしょう。誰も知らない一般人女性を担ぎ上げても、ラノベではあるまいし諸國の長らが従いはしません。ヤマトの王か、吉備や出雲の王か、それとも倭奴國・伊都國の王であったかはわかりませんが、ヤマトの地元豪族からすればよそ者がやってきて王になるのを歓迎はしないでしょうし、普通にヤマトの王族だとは思います。ただし結婚していませんから跡継ぎは弟しかおらず、彼にしろ姉の宗教的カリスマに頼っているわけです。

倭國連合は卑彌呼や男弟のカルト教団的な独裁政権ではなく、実態は有力諸國の豪族の合議制で営まれていた、と考えてよいと思います。未婚の巫女が選ばれたのは、男王が諸国の大王として上に立つと、どうしてもまだ反発を買うからでしょう。武力で周囲を威圧する独裁的権力者というイメージは抑えられますし、倭王の上に神を祀り頂くことで、俗世の王や豪族の上に立つ宗教的な権威を得られます。すなわち「鬼道」です。

鬼道

事鬼道、能惑衆。

彼女は鬼道に事(つか)え、よく民衆を惑わすことができる。

鬼道とはなんでしょうか。某漫画で死神が使う術ではありません。鬼というと角が生えたマッシブな連中とか、血液を媒介として増える例のやつらとかを思い浮かべるかも知れませんが、チャイナで「鬼(グゥェイ)」というと幽霊や妖怪、鬼神のたぐいです。もともと巫師が祖霊を呼び寄せる時、頭に頭蓋骨や異形の仮面を被った姿を現す文字でした。鬼道とはこうした鬼神・祖霊を祀る民間の呪術的宗教を指し、儒教的価値観からは礼儀(禮儀)に背き社会秩序を乱す淫祠邪教、異端外道として排斥されたものでした(儒教自体は、まさにこうした祖霊崇拝の祭祀儀礼から生まれたのですが)。

孔子は『論語』において「務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣(社会日常の義務を果たし、祖霊は敬うけれど日常生活からは遠ざけておく。これが知というものだ)」「未能事人、焉能事鬼(生きた人間にしっかりと仕えられずに、どうして祖霊に仕えられようか)」「非其鬼而祭之諂也。見義不爲、無勇也(自分の先祖でもないのに鬼神を祀るのはおべっかだ。それがわかっていて正さないのは腰抜けだ)」と語っています。「怪力乱神を語らず」というように、カルトやオカルトにハマりすぎて日常の社会生活をおろそかにするのはあほだと言うのですが、祖霊祭祀は大事にしています。後に一部の儒者が「鬼神など存在しない」と論じたのは本末転倒で極論というものです。

後漢を揺るがす黄巾の乱を起こした太平道や、巴蜀・漢中に勢力を広げた五斗米道(天師道)、そのほか民心を惑わすカルト宗教で結束した反政府勢力を、政府の側からは「妖賊」と呼びました。特に『三国志』魏志張魯伝及び蜀志劉焉伝では、五斗米道のことを「鬼道」と呼んでいます。

これは張魯の祖父・張陵が蜀で創始した宗教で、病気治癒の祈祷を行って信者を集め、五斗(当時の1斗は約2リットルなので10リットル)の米を寄進させたことから五斗米道といい、米賊とも呼ばれました。張陵とその子・張衡の死後、巴郡の張脩の教団が勢力を広げましたが、張魯の母は巫術に長けた美貌の持ち主で、益州牧の劉焉を誘惑して取り入ります。子の張魯は張脩を殺して教団を併合、漢中で自立して教団組織を統治機構とする宗教王国を築きます。劉焉の子劉璋は益州牧を継ぐと張魯の母を殺しましたが、張魯は西暦215年に曹操に降伏するまで25年も師君(教主)として君臨しました。この教団は道教の教団の原型となり、正一教として現代まで存続しています。

卑彌呼の「鬼道」が太平道や五斗米道の流れをくむかどうかはわかりませんが、銅鏡には四神獣や仙人など当時の宗教的世界観も描かれており、全くの無関係とは言い切れません。内陸部の五斗米道が渡来するのも考えにくいですし、太平道の影響は考えられます。太平道の教典『太平清領書』を著した方士・于吉は徐福と同じく徐州琅邪の人で、呉や会稽にも教団があったといいますし、青州(山東、斉)には古くから方士が多く、曹操に降伏した太平道の残党(青州兵)が多数存在しました。前回見たように、遼東公孫氏の初代である公孫度は山東半島にも拠点を築いており、比較的平和な遼東へ亡命する人々もいました。宗教思想も伝わった可能性はあります。それに倭地の産物である辰砂は方仙道・煉丹術の仙薬として有名です。

ともあれ、宗教は人心を惑わせもしますし、結束力を強めもします。共同体や国家や民族といった共同幻想を抱かせるのに、宗教の力は欠かせません。儒教や仏教や神道、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教、あるいは民主主義や資本主義や共産主義が、どれほど共同体を固める役目を担ってきたかを鑑みて下さい。ローマではカエサル以来皇帝が最高神祇官に就任して祭儀を執り行いましたし、サーサーン朝ペルシアではゾロアスター教が国教化され、チャイナの皇帝や日本の天皇は天子として天や祖霊を祀りました。卑彌呼の鬼道も、新たな「倭國」を纏めるための政治の道具と言えるでしょう。

神功皇后説

このように重要な人物が、8世紀に編纂された国史『日本書紀』では完全に無視されている、というわけではありません。神功皇后摂政本紀では「魏志に曰く」「晋起居注に曰く」と称して卑彌呼や臺與の記事を「倭女王」として引用して済ませており、年代を計算すると神功皇后が西暦3世紀に在位していたかのように細工してあります。日本国の公式見解(正史)としては、卑彌呼や臺與の存在に関してはこれでケリがついている(ように見せている)ことになります。

しかし3世紀に倭人が朝鮮半島に攻め込んだという歴史的事実はありませんし、魏志東夷伝にもそのような記述はありません。倭國が大挙して朝鮮半島に攻め込むのは4世紀後半以後で、神功皇后摂政本紀にはその時代のことが(実際より120年ぐらい時代を遡らせ、伝説化して)書かれてもいます。

たぶん『日本書紀』の編纂者も邪馬臺國が九州かヤマトかで迷い、「ヤマトの女王が筑紫へ遠征していたのだ」と超解釈して、百済救援のため筑紫へ遠征して朝倉宮で崩御した斉明天皇をモデルとして神功皇后を作り出したのでしょう。なお「邪馬台国は朝倉から奈良に東遷した」との説を唱え、ヤマトとの地名の符合を云々する人がいますが、ヤマトから女帝がやってきてそこで崩御したのですから、ヤマトに因んだ地名がつくのは自然なことです。

しかし神功皇后には夫の仲哀天皇も子の応神天皇もいますし、政治を補佐する男弟らしき人物も遠縁の武内宿禰ぐらいしかいません(系譜上で弟の息長日子王はいますが、事績が伝わりません)。しかも卑彌呼の死後に即位した臺與の時代にも神功皇后は(百歳の天寿を全うするまで)生存しており、神功皇后を卑彌呼だとすれば魏志の方が年代的におかしいことになります。「異国の書の方が間違っているに決まっている」と言いたい気持ちもわからなくもありませんが、さてどうでしょうか。

天照大神説

卑彌呼は、のちの天照大神の原型となった可能性があります。天照大神の別名を「大日靈貴(おおひるめむち)神」「大日女(おおひるめ)尊」と言いますし、銅鏡を好んだところも太陽崇拝と繋がりそうです。倭國の大王は、のちに隋の皇帝に対して「日出ずる處の天子」と名乗り、7世紀後半には倭國から日本国と名を改めました。ヤマトも半島や九州からは東になります。

ただ『隋書』では「倭王は天を兄とし、日を弟とする」とあり、太陽が女性や皇祖神として扱われていません。7世紀末から8世紀にかけて、卑彌呼や推古天皇や斉明天皇、持統天皇といった実在の女性天皇(大王)をモデルとして、神功皇后ともども女神アマテラスが創作されたというのはあり得ることです。

また天照大神は弟素戔嗚命との間に(特殊な方法で)子供を儲けています。すなわち宗像三女神と五男神で、天忍穂耳尊の子が天孫たる瓊瓊杵尊です。持統天皇と天武天皇の息子・草壁皇子は母に先立って薨去しており、彼の子が祖母から譲位されて14歳で即位(文武天皇)しましたが、持統は太上天皇として史上初の院政を敷きました。天照大神の子でなく孫が地上に降臨したというのは、この祖母と孫の関係が投影されたのでは、とも言われます。

なお卑彌呼の死(西暦247-248頃)に際して、北部九州で皆既日蝕が起きたという説があります。天照大神の天の岩戸隠れの神話を卑彌呼の死(弑殺!陰謀!)と臺與の即位に繋げようというセンセーショナルな説です。しかしNASAの日蝕シミュレーターによれば247年5月24日の日蝕は対馬で終わりますし、248年9月5日の日蝕は能登半島から新潟や福島を通っていて、北部九州や近畿地方では観測できたとしても部分日蝕程度でしょう。これをもって卑彌呼や邪馬臺國を云々するのは耳目を集めようとする陰謀論者程度です。惑わされないようにしましょう。

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倭姫命説

内藤湖南は『卑彌呼考』で、垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)だとしています。彼女は天照大神の御杖代(みつえしろ、神の依代)としてヤマトから伊賀・近江・美濃を遍歴し(『倭姫世記』によれば尾張や丹波・紀伊・吉備にも立ち寄り)、最終的に伊勢の地に留まって伊勢神宮(内宮)を創建したといいます。彼女は結婚せず斎宮として生き、後に甥の日本武尊が東方征伐に向かった際には草薙剣を貸し与えました。

「鬼道に事え衆を能く惑わす」「年已に長大なれど夫壻なし」といった条件には合いますが、まずもって彼女はヤマトに留まっていません。兄弟の景行天皇が政治を取り仕切っていたとしても、彼は『日本書紀』による限りでは熊襲を征伐するなど自ら積極的に動いており、伊勢の倭姫命のカリスマに頼っていた様子もありません。あまり説得力があるとは言い難いと感じます。

宇那比姫説

一部で持て囃されているのが、『先代旧事本紀』尾張氏系譜や、京都府宮津市籠神社の社家に伝わる『海部氏系図』に出てくる宇那比姫(うなびひめ)を卑彌呼とみなす説です。彼女は瓊瓊杵尊の兄弟・天火明命の子孫で、別名を大倭姫、天造日女命、大海孁姫命、日女命ともいい、日女命が卑彌呼のことだというのです。饒速日尊やら物部氏やら絡んできてなにやらまことしやかですが、系譜自体がだいぶ怪しく、日本書紀より後に新たに造作された可能性もあります。また和邇氏系図では宇那比姫には配偶者と子がいたようですし、卑彌呼らしい事績も伝わっていません。

他にもいろいろ説があり、本居宣長は「熊襲の女酋長が僭称していたのだ」とか唱えましたが、つのは今更邪馬台国九州説に説得力を感じず、論じるにも及びません。

倭迹迹日百襲姫命説

『日本書紀』に現れる人物の中で最も史実の卑彌呼に近いであろう人物は、やはり倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひももそひめのみこと)になります。別名は倭迹速神浅茅原目妙姫命(やまと・とはや・かむあさじはら・まくわしひめのみこと)です。トトヒモモソやトハヤの意味は不明ですが(迹速は迹迹の誤字か、速も「と」と読むか)、マクワシとは見目麗しいこと、目に霊妙な力を持つことをいうのでしょうか。『古事記』では夜麻登登母母曽毘売と表記されますが、事績は何も書かれていません。

彼女は孝霊天皇の皇女で、大吉備津彦命らの同母姉にあたります。崇神天皇の5年から7年にかけて国中に疫病が流行したため、神浅茅原で八百万の神々を集めて亀卜を行ったところ、彼女に大物主神が憑依して「我を祀れ」と託宣を下しました。そこで大物主神の子の大田田根子を招いて神主としたところ疫病が鎮まり、彼女は大物主神の妻になったといいます。また武埴安彦の反乱を少女の童謡から察知したとされ、薨去すると大市の箸墓(桜井市箸墓古墳)に葬られました。彼女は神の妻であって人間と結婚しておらず、子孫もいません。崇神・垂仁・景行の三代は纒向に宮を置いたとされます。

ただ異母兄の孝元天皇が60歳で即位して57年在位し、甥の開化天皇が60年在位したので、孝元天皇と同い年としても甥の子の崇神天皇が即位した時には60+57+60=177歳の超シニアです。これは年数を雑に増やして系譜を後付したせいで、孝元天皇と開化天皇は田原本町とも纒向とも無関係なので別系として省けば、孝霊天皇の子の世代に倭迹迹日百襲姫命(卑彌呼)と大吉備津彦、崇神天皇(彌馬獲支?男弟?)が並ぶわけです。孝元天皇の皇女に倭迹迹姫命というよく似た名前の人がいるなど、系譜は混乱しています。

卑彌呼と倭迹迹日百襲姫命では全然違うようですが、古代でも高貴な身分の人の実名を直接呼ぶことは避けたでしょうし(倭迹迹日百襲姫命は諡号かも知れませんが)、女王を「ひめみこと/ひめみこ(姫命、姫御子、日女王)」と呼んでいたのを、「め」と「み」がつづまって「卑彌呼」と聞き取られたと言うのはあり得ることです。高貴な身分の男性を呼ぶ「ひこ」は「卑狗」としてありますし、これに対応する女性形の「ひめ」もあったでしょう。実際古くは「ひみ(比彌)」とも呼んだようですし、「ひみみこ」が卑彌呼となったと思われます。通常の男女は「を(男)」「め(女)」です。

追記:ただのつのの思いつきですが、迹迹日を「のように赫々と輝く(銅鏡)」、百襲を「枚(多数)かさねた」と解釈すると、銅鏡百枚を賜った邪馬臺()國の女王・卑彌呼の諡号としては相応しいかも知れません。

じゃあ狗奴國の男王・卑彌弓呼はどうなんだとなりますが、男の娘だったとかは置いておいて、ヒコノミコト/ヒコノミコ(彦命、彦御子、日子王)の聞き違いや誤記ではないか、という説が一応あります。「卑弓彌呼(*pe *kʷəŋ * m-nə[r] *qʰˤa )」と並べ替えれば、弓は「コン」「クン」と読み得ますから、「ピ・コン・ミ・カ」「ヒコ・ノ・ミコ(高貴な男性の王)」となるわけです。なんとも言えませんが、そういう事にしてもよさそうです。敵国の王とはいえ呼び捨てにしないのは、実際奥ゆかしいですね。彼が日本書紀の誰にあたるかまではわかりません。

要は卑彌呼も卑弓彌呼も称号で、個人名はわかりません。『隋書』の倭國王も「阿毎・多利思比孤(アメ・タリシヒコ、天足彦)」という称号が姓や字(あざな)だとされていますし(号の「阿輩雞彌」は「オホキミ(大王)」でしょう)、唐の張九齢の『勅日本国王書』には「日本国王の主明楽美御徳(スメラミコト)」と書かれています。平安初期の『令義解』に 「天皇を須明楽美御徳(スメラミコト)と読む」とありますから、遣唐使が日本国の天皇をそうした文字で伝えたのでしょう。卑彌呼とは異なり大した美字を選んでいますが、唐の天子(皇帝・天皇)と同格の天皇とは呼ばれず、あくまで「日本国王」として記録されています。その程度のことです。

『日本書紀』では卑彌呼を神功皇后に擬しているため、倭迹迹日百襲姫命が卑彌呼であるとは書いていません。事績も非常に伝説的で、2世紀末か3世紀初頭から半世紀近く在位した卑彌呼とは活躍した年代も年数も異なります。公孫氏や魏と交流したとも、九州で戦いが起きたとも書かれていません。しかしヤマト、纒向、箸墓(初期の前方後円墳)、未婚、神の妻といった要素は卑彌呼を思わせますし、疫病など大規模な混乱に際して神憑りした巫女が現れ祈祷で混乱を鎮めることも卑彌呼(や張魯の母)めいています。

さらに崇神天皇が「御肇国(はつくにしらす)天皇」と呼ばれ、大吉備津彦命ら四道将軍を派遣したと伝えられること、崇神紀の最後に任那(弁韓・加羅)や新羅との交通が初めて記されること(曾孫の仲哀天皇は筑紫まで来ておいて「海の彼方に国など見えぬ」と言い放ちますが)などから、この頃の状況がおぼろげながら見えて来ると思います。あなたはどう思いますか?

◆君◆

◆代◆

深入りすると危険なのでこれぐらいにしましょう。次回は卑彌呼が居住していたと思われる纒向遺跡について見ていきます。

【続く】

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