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【つの版】ウマと人類史:中世編05・唐天可汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 628年、東ローマは西突厥と手を組んでペルシアを屈服させましたが、同年には西突厥の統葉護可汗が殺されています。東西の突厥は唐の策略で分断され、従属部族の鉄勒が台頭するなど受難の時代となりました。

◆唐◆

◆唐◆

鉄勒諸部

 鉄勒とはやはりテュルクの音写ですが、阿史那氏の可汗を頂く部族連合としての「突厥」とは異なるテュルク系の諸部族を指します。唐代に編纂された史書『隋書』『北史』などによると「匈奴の苗裔」とされますから、要は勅勒/高車を呼び替えたものです。その種類は多く、西海黒海から東の山や谷に依拠し、遥かモンゴル高原に至るまで絶えず連なっていました。

 地域別に見ると、モンゴル北部の独洛河トーラ川の北には僕骨ボクト同羅トングラ韋紇ウイグル拔也古バイルク覆羅ボグラの五部族がおり、各々の族長は俟斤イルキンと名乗っています。また蒙陳、吐如紇テュルク、斯結、フン、斛薛などの諸部族もおり、この地域の総合兵力は2万に及びます。また北海バイカル湖の南には都波トゥヴァがいます。

 このうち僕骨・韋紇・覆羅は高車勅勒のうち護骨・袁紇・副伏羅にあたります。のち韋紇は回鶻とも表記され、諸部族が連合して九姓トクズ・オグズ鉄勒、すなわちウイグル・カガン国となりました。

 西へ行くと、伊吾ハミより西、焉耆アグニの北、白山の傍には、契弊、薄落ブラク職乙咥チギール、蘇婆、那曷、烏護オグズ紇骨クルグズ也咥イェディズ、於尼讙の九部族がいます。この地域の総兵数は2万です。また金山アルタイ山脈の西南には、薛延陀、咥勒児、十槃、達契の四部族がおり、総兵数は1万あまりです。これらはアルタイと天山の間、いわゆるジュンガル盆地の諸部族です。突厥もこの地域から出現しました。

 さらに西に行くと、康国サマルカンドの北、阿得水イティル、ヴォルガの傍までには、訶咥、曷截ハザール、撥忽、比干、具海、曷比悉、何嵯蘇、拔也未、渇達などの十部族がおり、総兵数は3万ばかり。得嶷海カスピ海の東西には蘇路羯サラグル、三索咽、蔑促、隆忽などの諸部族8000人余り。拂菻東ローマ帝国の東には恩屈オノグル阿蘭アラン北褥九離ペチェネグ伏嗢昏ブルガールなど2万人近くがいます。いわゆるキプチャク草原の諸部族です。

 総兵数を合計すると2万+3万+5.8万=10.8万にもなり、これらの諸部族を総称して鉄勒テュルクと言いますが、全体を統一する君主はおらず、東西突厥に分属していました。生活様式は突厥と同じ騎馬遊牧民で、騎射に長け掠奪を行います。ただ西辺黒海北岸の鉄勒は農耕藝植を行い、馬が少なく牛や羊が多いといいます。スキタイの昔から黒海北岸は農耕適地ですから、そうしたテュルクもいたのでしょう。

 隋の時代、突厥が東西に分裂すると、鉄勒は分散・動揺して自立の動きを見せました。605年には西突厥の泥撅処羅可汗が彼らに重税を課し、族長らを殺したため、ついに契弊部の俟利発俟斤イルテベル・イルキンである歌楞を立てて易勿真莫何可汗とし、貪汗山に国を建てて独立しました。ここは突厥阿史那氏の発祥の地であるトルファン北方のボグダ山で、東西突厥の狭間にあります。また薛延陀部の俟斤イルキンの子である乙失鉢イシュバラを立てて小可汗とし、彼は燕末山の北に割拠しました。

 この鉄勒可汗国は西突厥を撃ち破って勢力を広げ、伊吾・高昌・焉耆の諸国はみなこれに従い、607年には隋に使者を派遣して国際的な承認を求めています。しかし612年、泥撅処羅可汗に代わって射匱可汗が立つと、鉄勒諸部族は可汗号を棄てて臣従しました。以後は再び東西突厥に従っています。

唐天可汗

 東突厥から見ていきましょう。620年に即位した頡利可汗は、唐に使節を派遣しながらも劉黒闥や梁師都ら各地の群雄を支援し、唐を脅かしてチャイナを分断しようとしていました。唐は必死にこれを迎撃し、群雄たちを各個撃破して天下統一を進めます。

 626年、玄武門の変で政権を握った李世民(太宗)は、直後に突厥の大軍の侵攻を受けました。帝都長安の北、渭水北岸に迫った突厥軍10万に対し、太宗は僅か6騎で立ち向かい、協定違反を責めて追い返したと伝えますが、たぶん貢納してお帰り願ったというのが実情でしょう。

 怒った太宗は突厥に従う諸部族を唆し、627年には陰山以北の薛延陀ら諸部族が反乱を起こします。頡利可汗は東部副王の突利可汗を遣わして討伐させますが、敗北し軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束しました。突利可汗は怨みを抱き、謀反を考えるようになります。

 628年、西突厥で統葉護可汗が殺されると、乙失鉢可汗の孫の夷男イナルは薛延陀部7万余家を率いて東突厥に服属しました。しかしまもなく叛いて頡利可汗を攻め破り、諸部族は夷男を推戴して可汗にしようとします。彼はあえて即位しようとしませんでしたが、唐の太宗は使者を遣わして彼に軍鼓と旗印を賜い、真珠毘伽可汗インチュ・ビルゲ・カガンに冊立しました。当然、唐が彼に反乱を唆していたわけです。

 夷男は喜んで唐に朝貢し、牙帳本拠地鬱督軍ウトゥケン山の麓に置きました。その勢力は、東は靺鞨、西は西突厥、南はゴビ、北は倶倫水に至り、周辺の諸部族はみな彼に従いました。またこの冬には大雪が降って家畜が大量死し、頡利可汗は勢力を失って孤立します。そこで唐は将兵を派遣して東突厥を討伐し、突利可汗らを投降させました。進退窮まった頡利可汗は逃走しますが630年3月に捕縛され、東突厥は滅亡したのです。552年に土門が伊利可汗を名乗ってから、僅か80年足らずです。

 この時、北方諸部族は唐の天子・李世民を可汗に頂き、「天可汗テングリ・カガン」の称号を奉りました。唐室は隴西李氏を名乗り、西涼の君主であった李暠の末裔で、漢の飛将軍・李広の子孫だとしていましたが、北魏に仕えていた頃には大野だいやという胡姓を持っていたことから実際は鮮卑と思われます。よしんば漢人だとしても、李淵の母の独孤氏匈奴の末裔で、北周の明帝の皇后と隋の文帝の皇后の妹です。太宗の母の竇皇后も匈奴系で、太宗の皇后の長孫氏は拓跋部の出自です。突厥や鉄勒などから見れば、唐の天子は北魏・北周・隋に続く「タウガストのカガン」の系列に属し、彼をテングリ・カガンに擁立するのも故なきことではないのです。

 頡利可汗は右衛大将軍の位を授かって長安に留め置かれますが、634年に病死しました。西突厥では統葉護可汗を殺した莫賀咄侯屈利俟毘可汗と、統葉護可汗の子の乙毘鉢羅肆葉護可汗が争っていましたが、630年に莫賀咄は打倒されます。しかし肆葉護可汗も内乱で殺され、莫賀設の泥孰が擁立されて咄陸可汗となります。彼は唐に使節を派遣して朝貢し、633年に呑阿婁拔奚利邲咄陸可汗に冊立されました。名目的ながら西突厥も唐の属国となったのです。東突厥の旧領は薛延陀部の夷男が可汗として統治しました。

玄奘西遊

 このような激動の時代に、唐の僧侶・玄奘は西域を通って天竺へ求法の旅を行っています。彼は貞観3年629年に出国の許可を求めましたが、内外が不安定なため一般人の出国は認められず、やむなく国禁を破って出発します。敦煌の玉門関を出た後、北上して沙漠を横切り、伊吾国ハミに到達します。伊吾は当時西突厥に服属していましたが、ソグド人の商人・石万年が支配しており、630年に唐へ帰順しました。

 玄奘はそこから西へ向かって高昌トルファンに入り、国王の麹文泰に歓迎されます。彼は天竺へ至る諸国の王に紹介状を書き、手厚く支援して玄奘を送り出しました。まず南西へ向かって焉耆アグニに入り、天山南路を西へ進んで亀茲クチャ姑墨バールカー/アクスに達しますが、そこから北西に進んで天山山脈を横断、ベデル峠を抜けて現在のキルギス領に入ります。さらにイシク湖のほとりを通ってセミレチエ地方に入り、西に進んで現トクマク近郊の碎葉城スイアブに到達します。ここは西突厥の可汗庭の一つでした。

 当時は統葉護可汗が殺されて可汗が並立し混乱していましたが、玄奘が会見した可汗は肆葉護のほうかと思われます。唐と友好関係を結んでライバルを倒したい可汗は玄奘を歓迎し、その庇護によって玄奘は安全に旅を続けることができたのです。ただしそう書くと唐の天子の権威に差し障るため、玄奘の『大唐西域記』などではあっさり流しています。玄奘は西突厥の首都圏であるセミレチエ南部を通り、メルケ、タラスを経てソグディアナへ至り、タシケント、サマルカンドを経てテルメズでアム川を渡り、トハーリスターン/バクトリアへ至ります。さらにバグラーンやバーミヤーンを経てガンダーラに至り、インド(当時はヴァルダナ朝)に到達したのです。彼が長安に帰還したのは出発から16年後の645年でした。

羈縻政策

 この間、唐はどうしていたでしょうか。東突厥の残党のうち、薛延陀に従わない者は唐に服属しましたが、唐は薛延陀を牽制するため彼らを河南オルドスの地に住まわせました。また639年には阿史那思摩に李姓を授けて突厥の乙弥泥孰俟利苾可汗に任命し、左屯衛将軍の阿史那忠を左賢王、左武衛将軍の阿史那泥孰を右賢王としました。彼らは641年に民衆10数万、精兵4万、馬9万を率いて黄河を北へ渡り、定襄フフホトを拠点として薛延陀に対抗しています。漢が南匈奴を用いたのと全く同じです。

 薛延陀はこれを不快とし、大軍を率いて南下します。唐は思摩を支援して李勣ら率いる軍勢を派遣し、薛延陀と大いに戦いました。薛延陀は唐と和解して通婚を求めましたが、唐はこれを引き伸ばします。やがて唐の手引きによるものか、東突厥の残党の阿史那斛勃が金山アルタイに拠って薛延陀から独立し、乙注車鼻可汗と称します。645年には夷男と思摩が相次いで逝去し、夷男の子の抜灼が後継者争いを制して可汗となります。しかし唐領の夏州に侵攻して撃退され、同年に回紇部に殺されます。玄奘はこの年に唐へ帰還し、西域の情報をもたらして太宗から歓迎されたわけです。

 646年、唐は衰弱した薛延陀を討つべく漠北へ遠征します。夷男の兄の子である咄摩支が可汗に推戴され、7万余を率いて西へ遁走しますが、唐は禍根を絶つべく追撃し、鬱督軍山の北で討ち滅ぼします。咄摩支は降伏して唐へ入朝し、鉄勒の諸部族が唐に帰伏しました。唐は東突厥や薛延陀の故地に可汗を置かず、鬱督軍山に燕然都護府を設置しました。

 すでに640年には、唐は高昌国を滅ぼして西州都護府を置き、その北には毗陵都護衛府を置いています。いずれも唐の名目的な直轄地で、実態は現地の友好的な有力者に唐の官位を授けて自治を行わせ、その上に唐の将軍を置いただけでした。これを羈縻きび政策といいます。羈は馬の手綱、縻は牛の鼻綱をいい、牛馬を制御するように蛮夷の上層部にだけ支配の手綱をかけたのです。同じようなことは漢代から行われていました。648年には亀茲に安西都護府が置かれ、于闐・疏勒・碎葉を統括させています。

 こうなると、残るは西突厥の車鼻可汗だけです。太宗は彼をも屈服させるべく遠征軍を派遣し、支配下の諸部族を離反させて追い詰めますが、649年に崩御しました。跡を継いだ高宗は650年に車鼻可汗を降伏させたものの、651年には阿史那賀魯が西域で自立し、西突厥の残党を率いて唐と戦いました。657年に彼が平定されると、その跡地にまた都護府が設置され、アム川以北の西域諸国はことごとく唐に服属しました。この頃ペルシアはアラブ・イスラム勢力の攻撃で滅亡しており、その残党も唐を頼ることになります。

 唐は突厥と薛延陀を滅ぼし、モンゴル高原から中央アジアに至る広大な領域に覇を唱えました。チベット高原の吐蕃とも友好関係を結んでおり、まさに世界帝国と呼ぶにふさわしい大国となったのです。しかし突厥がユーラシア内陸のステップ地帯をまがりなりにも統一していなければ、かくも広大な領域を従えることはできなかったでしょう。唐の覇権はこれ以後100年近く続き、イスラム帝国と中央アジアを巡って戦うことになります。

800px-唐朝疆域(繁)

◆唐◆

◆唐◆

【続く】

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