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【つの版】ウマと人類史25・五胡争覇

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦304年10月、五部匈奴の単于・劉淵は漢王と自称し、晋から独立しました。暴政や八王の乱で晋を見限った人々が次々と劉淵のもとに集まり、数百年続いた漢と匈奴の歴史的な権威が天下を揺るがします。果たして劉淵は晋を打倒し、漢の天子として天下を再統一できるでしょうか。

 いちいち漢文を訳しているときりがないので、ここからは省略します。

◆司◆

◆馬◆

群雄割拠

 同年8月、劉淵の旧主である成都王の司馬穎は、幷州刺史の東嬴公司馬騰と幽州刺史の王浚に撃ち破られ、恵帝を奉じて鄴を脱出し、洛陽へ逃げました。本拠地を失った司馬穎は失脚し、長安に駐屯する雍州牧・河間王司馬顒と、その部下の張方が実権を握ります。司馬騰は本拠地の幷州で劉淵が乱を起こしたので洛陽へ進軍できず、王浚も幽州へ戻りました。11月、司馬顒と張方はこの隙に長安へ遷都し、恵帝を西へ遷しています。

 12月、司馬騰は将軍の聶玄を派遣して劉淵を攻撃させますが、太原郡大陵県(呂梁市文水県)で大敗を喫します。劉淵は将軍の劉曜らを派遣して太原郡を攻撃させ、諸県を陥落させました。『魏書』によると、この頃司馬騰は北方の鮮卑拓跋部に援軍を求め、拓跋部は西河・上党で大勝利を収めた云々とありますが、漢王劉淵の勢いは止まりませんでした。

 305年、司馬騰は晋陽(太原市)に拠って劉淵と対決し、将軍を派遣して戦わせますが、全て撃破されます。また劉淵は飢饉や戦乱で幷州が荒れ果てたため、南の河東郡と平陽郡を占領し、蒲子県(臨汾市隰県、南部帥居城)に遷都しました。長安にいる晋の天子や、混乱が続く洛陽を狙うにもちょうどいい場所です。『魏書』では鮮卑拓跋部が北方から劉淵を圧迫したおかげと喧伝していますが、それもあったかも知れません。

 桓帝十一年、晉并州刺史司馬騰來乞師、桓帝親率萬騎救騰、斬淵將綦母豚、淵南走蒲子。語在序紀。晉光熙元年(西暦306年)、淵進據河東、克平陽、蒲坂、遂都平陽。(魏書劉聡伝

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 同年7月、東方では司馬越らが司馬顒討伐のため挙兵し、内ゲバはありながらも西へ兵を進め、12月には洛陽を陥落させました。306年正月、司馬顒は張方の首を司馬越へ送って和平を望みますが拒否され、5月には長安が陥落して恵帝を洛陽へ戻されます。司馬顒は6月に長安を奪還しますが、もはや勢力を失っており、12月には洛陽に招かれて絞殺されました。

 ここに八王の乱は終結したものの、幷州・河東には劉淵、巴蜀には李雄が割拠し、天下はなお動揺しています。また同年11月に恵帝が崩御し、司馬越は恵帝の異母弟の司馬熾を天子(懐帝)として実権を握りました。司馬騰は車騎将軍・都督鄴城守諸軍事に任命され、幷州の難民2万戸(10万人)を率いて太行山脈を東に下ります。中山靖王の末裔という劉琨は功績によって幷州刺史・振威将軍・匈奴中郎将に任命され、劉淵と戦うことになります。

 なお、この頃のチャイナの墳墓から、鐙(あぶみ)をつけた馬の陶器模型が出土しています。ただ遡れば漢代にはあったらしいともいい、西暦150年頃のクシャーナ朝にも鐙をつけた騎馬人像があります。しかしヨーロッパに鐙が出現するのは6世紀後半から7世紀頃です。鐙の起源については謎が多いのですが、かなり長い時間をかけて徐々に普及したのでしょうか。

漢帝即位

 この頃、冀州では成都王司馬穎の残党が挙兵し、仇敵の司馬騰・司馬越らに反抗していました。その一人の汲桑は鄴を攻め、307年(晋の永嘉元年)5月に司馬騰を殺害します。司馬越は大軍を送ってこれを撃破し、12月に汲桑は討ち取られます。彼の部下の石勒は僅かな手勢を率いて逃亡し、故郷の幷州へ戻って劉淵に身を寄せます。彼はもと匈奴の一部族・(けつ)の小族長の子でしたが、奴隷となって冀州に売られ、牧場主の汲桑をオヤブンとして胡漢混成の馬賊を率い、略奪品を上納していたといいます。

 晋書によると、石勒は「手ぶらでは歓迎されまい」と思い、まず故郷の上党郡に割拠していた胡人の部族大人・張背督と馮莫突(ともに胡語「バートル(勇士)」の音写か)に身を寄せます。そして彼らを説得し、その部下数千人を率いて劉淵に謁見したので、喜んだ劉淵は彼を輔漢将軍・平晋王としました。また烏桓の張伏利度を騙して兵を奪い取り、督山東征討諸軍事に任命されました。石勒は劉淵のような貴種でもなく、儒学の素養もない全くの胡人ですが、勇敢で機知に富んでいたことから慕われたといいます。キンメリアのコナンを地でいくような真の男、蛮人の英雄です。

 同じ頃、青州(山東省)では王弥が反乱軍を率いて晋と戦っていました。彼は晋軍に苦戦していたため、劉淵に使者を派遣して恭順し、鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事に任じられ、東萊公に封じられます。大義名分を得て勢力を盛り返すと、308年3月には青州・徐州・兗州・豫州を攻略、4月には許昌に入城し、5月には一時洛陽をも襲います。王弥らは劉淵に正式に服属し、漢は中原の大半を獲得することになりました。

 晉永嘉二年、淵稱帝、年號永鳳。後汾水中得玉璽、文曰有新保之、蓋王莽之璽也。得者因增淵海光三字而獻之、淵以為己瑞、號年為河瑞。以聰為大司馬、大單于、錄尚書事、置單于臺於平陽西。(魏書劉聡伝)

 308年8月、57歳の劉淵は群臣に推されて漢の皇帝に即位します。翌年正月には蒲子から平陽(臨汾市堯都区)へ遷都しました。この頃、石勒は鄴を陥落させて冀州を平定し、青州の王弥と並び立っています。権威では劉淵が頭抜けていますが、晋を滅ぼさねば漢の天子の正統性がゆらぎますから、まず洛陽を攻めます。しかし劉聡らが率いる討伐軍はいくら攻めても晋軍の必死の防御を崩せず、大打撃を食らって撤退する有様でした。310年6月、劉淵は病気になって60歳で崩御し、高祖光文皇帝と追尊されました。漢の高祖劉邦と光武帝を意識したのでしょう。

 皇太子の劉和が跡を継いで即位しますが、まもなく劉淵の側室の子である楚王の劉聡がクーデターを起こして帝位を簒奪し、反対派を粛清します。そして晋への攻勢を強め、石勒らを東へ派遣して洛陽を孤立させました。311年3月、洛陽では司馬越が失脚して病死し、4月には洛陽を棄てて東方へ移動していたその残党が、石勒によって皆殺しにされます。

 6月、劉聡は大軍を派遣して洛陽を包囲させ、ついにこれを攻め落とし、晋の天子を捕虜として平陽へ遷しました。洛陽にいた晋の王侯貴族も大勢殺され、劉協や劉禅の子孫もこの時ほとんど殺されています。これを晋からは「永嘉の乱」といいますが、漢からすれば晋漢革命というべきでしょうか。さらに長安も陥落し、皇族の劉曜を駐屯させています。

石勒自立

 しかし、漢の最盛期はここまででした。東方では青州に王弥、冀州に石勒が割拠して幽州の王浚、幷州の劉琨を防いでいましたが、王弥は劉曜や石勒と対立しており、自立しようとします。石勒は彼をおびき出して殺害し、その軍勢を併呑しました。また晋の将軍たちは力を合わせて長安を攻め、秦王司馬業を担いで劉曜と戦い、312年にこれを撤退に追い込みます。幷州では劉琨が晋陽を拠点として漢を攻め、鮮卑拓跋部と連合して圧迫を加えます。劉聡は兵を派遣して防ぎますが勝てず、漢はジリ貧になり始めました。

 313年正月、劉聡はもと晋の天子で捕虜としていた司馬熾を毒殺し、晋人に担がれるのを防ぎます。これを受け、4月には秦王司馬業が長安で帝位につき(愍帝)、各地の軍閥に劉聡討伐を呼びかけました。この時、石勒は王浚に「あなたを皇帝に推戴いたしましょう」と呼びかけ、降伏して幽州に入ります。喜んだ王浚は彼を出迎えましたが、石勒は伏兵を放って王浚を捕縛し、これを処刑して幽州を奪い取りました。また王弥の部下で青州に割拠していた曹嶷とも手を組み、漢本国よりも有力となります。

 劉聡は石勒の勢力拡大を恐れつつも長安への攻撃を強め、316年11月にようやく長安を奪還します。愍帝司馬業は平陽へ連行され、再び劉曜が長安に駐屯しました。12月には石勒が幷州を奪い、劉琨は鮮卑段部の地へ亡命した後、318年に殺害されます。しかし揚州では司馬睿が皇帝に即位(東晋の元帝)し、晋を江南の地に復興しました。

 劉聡は酒色に耽って健康を害し、318年6月に崩御します。皇太子の劉粲が跡を継ぎますが、父に輪をかけた暴君で、在位1ヶ月で外戚の靳準に殺害されます。靳準は自ら大将軍・漢天王を号し、東晋に使者を送って藩と称し、晋の宗主権の下での自治を求めました。長安の劉曜は漢の皇帝に即位して石勒と手を組み、12月には靳準を攻め滅ぼしました。

 翌年正月、劉曜は長安に遷都し、中山王であったことから国号を「」と改め、石勒を大司馬・大将軍・趙公とします。しかし石勒は11月に趙王を称して自立し、華北は西の劉曜の趙、東の石勒の趙に二分されました。ややこしいので前者を前趙(あるいは漢趙)、後者を後趙(石趙)と呼びます。ともに漢の権威を借りることをやめ、戦国時代に「胡服騎射」を行った趙を名乗り、胡人による王朝であることを宣言したわけです。

 劉曜は要害の地である陝西盆地を掌握し、各地の反乱や東晋の侵略を防ぎつつ、隴西・河西の諸国を服属させます。しかし石勒は323年に曹嶷を滅ぼして青州を征服し、中原に覇を唱えました。劉曜は石勒と戦いますが、329年に洛陽で敗北し、捕縛・殺害されます。石勒の甥の石虎はそのまま進軍して前趙を滅ぼし、王侯貴族を皆殺しにします。ここに劉淵の建国以来四半世紀で劉氏漢趙は滅亡したのです。石勒は翌年趙天王と名乗り、ついで皇帝に即位しました。

五胡争覇

 華北の覇者となった石勒ですが、江南の東晋はこれを認めず、華北奪還を目指します。この頃の周辺諸国を見てみましょう。

 成国は八王の乱のどさくさに紛れて氐族の李雄が巴蜀を占有したもので、王や皇帝は称したものの、一応は東晋の宗主権を認めています。涼国は晋の涼州刺史の張軌が半独立の政権となったもので、晋の藩国を称し、王も称しませんでしたが遠すぎます。オルドスの匈奴鉄弗部は匈奴と鮮卑の混成で劉氏を名乗り、漢や趙に服属しています。拓跋部は3世紀後半に鮮卑の一派がフフホト(盛楽)に割拠したもので、晋と漢の抗争に関わって一時は勢力を広げ、315年から王に封じられています。しかし内紛で弱体化し、石勒に服属していました。こうなると、東晋が頼れるのは慕容部だけです。

 慕容部は、檀石槐の時は中部10余邑に属していましたが、のち東方へ遷り烏桓の本拠地があった遼西郡柳城(遼寧省朝陽市)に割拠しました。司馬懿が公孫淵を討伐した時に功績があったともいいます。やがて北方の宇文部、西方の段部、東方の高句麗を敵に回し、これらを撃ち破って北東の覇者となり、遼寧省の大部分を支配下に納めます。320年、鮮卑大単于の慕容廆は東晋へ海路で使者を派遣し、321年に使持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任じられ、遼東郡公に封じられました。宇文部らは石勒の支援を受けて慕容廆と戦いますが撃ち破られ、趙や代へ亡命しています。

 333年、石勒と慕容廆は相次いで世を去りました。趙では石勒の甥の石虎が実権を握りますが、暴政を敷いて反乱が相次ぎ、東晋及び慕容部と激しく戦います。東晋は慕容廆の子・慕容皝を支援し、彼が称した「燕王」の号を認めました。燕王慕容皝は趙の遠征軍を何度も打ち破り、東は高句麗、北は宇文部を撃って勢力を広げ、拓跋部の代国とも婚姻して趙に対抗します。

 348年に慕容皝は急死しますが、349年には石虎も病死し、趙は後継者争いで四分五裂の状態となります。『魏書』石勒伝『晋書』石季龍(虎)載記によると、この時石虎の養孫の石閔(冉閔)が政権を握り、鄴城の四門を閉鎖して、石氏に連なる諸胡を皆殺しにしました。彼は「胡人の首を一つ取れば高位高官につけるぞ」と触れを出したので、たちまち数万の首が集まり、貴賤男女を問わず20万人が虐殺されます。ただ胡人の特徴として「高鼻多須(鼻が高くヒゲが多い)」ことが知られていたため、そうした特徴を持つ晋人(非胡人)も巻き添えで多数殺されたといいます。袁紹らが漢の宦官を殺した時はヒゲがない者が巻き添えで殺されたといいますが、その逆ですね。

 虎死、少子世僭立。虎養孫閔殺世、以世兄遵為主。遵以閔為大將軍輔政。遵立七日、大風・雷震・晝昏・火水俱下、災其太武殿、延及宮內府庫、至于閶闔門。火月餘乃滅。遵兄鑒、又殺遵而自立、號年青龍。鑒弟苞與胡張才、孫伏都等謀殺閔、不克而死。自鳳陽門至琨華殿、積屍如丘、流血成池。閔知胡人不為己用、乃閉鄴城四門、盡殺諸胡、晉人貌似胡者多亦濫死。閔乃殺鑒而自立、盡滅石氏。閔本姓冉、乃復其姓。自稱大魏、號年永興。(魏書)

 慕容皝の跡を継いだ燕王慕容儁は、これを好機として趙への侵攻を開始します。350年に薊(北京)を占領して遷都すると、趙を滅ぼし魏を建国した冉閔と対峙し、352年にこれを討滅して大燕皇帝を称しました。匈奴や羯に続いて、今度は鮮卑の王が華北で帝位についたのです。ただ西方には氐族の秦国が割拠しており、華北は東の燕、西の秦に二分されます。南では東晋が347年に巴蜀の漢(成漢)を併呑し、北の両国と対峙しました。

 この頃、鮮卑拓跋部の代国と匈奴鉄弗部は北方に割拠し、婚姻して同盟を結びつつも、燕と秦の間で揺れ動いていました。さらにその北には、高車柔然と呼ばれる連中が現れ始めます。また西方では、この頃から「フン族」らしき連中がちらほら現れ始めます。彼らは何者だったのでしょうか。

◆乱世◆

◆末法◆

【続く】

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