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【つの版】ウマと人類史:中世編02・突厥帝国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦552年、アルタイと天山の付近に突厥可汗国が独立し、西魏やエフタルと手を結んで柔然を攻撃しました。柔然の可汗は自決に追い込まれ、モンゴル高原は急速に突厥の手に落ちていきます。

◆両面◆

◆宿儺◆


木汗可汗

 突厥の初代可汗の土門(伊利可汗)は552年に逝去し、子の科羅が立って乙息記可汗と号しました(隋書では伊利可汗の弟で逸可汗)。彼も柔然と戦い、西魏に馬5万匹を献上しましたが、553年に逝去します。子の摂図はまだ幼かったため、科羅の弟で俟斤(イルキン)の位にあった燕都が即位して木汗可汗(ムカン・カガン)と称しました。

 彼の姿かたちは奇異で、顔は広さが1尺(当時は27.9cm)もあり、顔色は甚だ赤く、目は瑠璃(ラピスラズリ)のようだったといいます。突厥の親類の契骨(クルグズ)も「背が高く、色が白く、目が青い」と記されますから明らかにコーカソイド系です。彼は好戦的で征伐につとめ、柔然を討伐してこれを滅ぼし、西は囐噠(エフタル)を破り、東は契丹を走らせ、北は契骨を併せ、長城の外の諸国を威服させました。その土地は、東は遼海(遼東湾)から西は西海(アラル海かカスピ海)まで1万里、南は沙漠(ゴビ)から北は北海(バイカル湖)まで5000-6000里に及んだといいます。

 周書ではこのあと突厥の習俗について記述していますが、それは後回しにします。柔然の残党のうち、西魏に亡命した連中は突厥の要請により全員処刑されました。突厥はさらに青海地方に侵攻して吐谷渾を破り、西魏の北と西はみな突厥に囲まれます。突厥は西魏に「朝貢」して友好関係を結び、北斉との戦争を支援しましたが、どちらの立場が上かは言わずもがなです。

 西魏は553年に巴蜀を獲得し、556年に宇文泰が逝去した直後、557年に宇文泰の子・宇文覚に禅譲して北周となります。宇文覚は従兄の宇文護の傀儡で、実力者が傀儡の天子を頂く構造は変わりません。宇文覚は宇文護を排除しようとして殺され、次の宇文毓(明帝)も同じ運命をたどります。続く宇文邕(武帝)は突厥の木汗可汗の娘(阿史那皇后)を568年に娶り、572年に宇文護を排除することに成功、突厥の後ろ盾を得て華北統一を進めます。同年には木汗可汗が世を去り、弟が擁立されて他鉢可汗となっています。

西面葉護

 この頃、突厥の西部を担当していたのは室点蜜/室点密(イステミ)でした。彼について周書や隋書は記していませんが、旧唐書・新唐書や突厥碑文、東ローマの史書などに記録されています。

 室點密、從單於統領十大首領、有兵十萬眾、往平西域諸胡國、自為可汗、號十姓部落、世統其眾。(旧唐書・突厥伝下

 西突厥、其先訥都陸之孫吐務、號大葉護。長子曰土門伊利可汗、次子曰室點蜜、亦曰瑟帝米。(新唐書・突厥伝下

 これらによると、室点密は土門・伊利可汗の弟です。彼らの父は大葉護(ヤブグ)と号した吐務(トゥメン)で、伊質泥師都の子・訥都陸(訥都六設、大児)の孫にあたります。木汗可汗の娘は北周の武帝に嫁いだ時17歳(数え年)だったといいますから、551年頃の生まれ。1世代30年で逆算すると、木汗可汗は551年に30歳、572年に50歳余で逝去したとして、521年頃の生まれです。その父である伊利可汗は490年頃に生まれ、552年に60余歳で逝去したことになります。ただ室点密は576年まで長生きしていますから、彼は伊利可汗の弟でなく子世代か、年が親子ほど離れた兄弟か、伊利可汗ともども500年頃に生まれたことになるでしょうか。

 ともあれ、伊利可汗とその子らが東方の柔然と戦ったのに対し、室点密は西方の可汗(あるいは大葉護)としてエフタルと戦いました。彼は兄たちが西魏と結んだように、エフタルの敵であるペルシアと手を組んでいます。

 時のペルシア皇帝は、カワードの子ホスローです(在位:531-579年)。彼は西方ではユスティニアヌス1世率いる東ローマ帝国と戦い、東方では突厥と組んでエフタルと戦いました。南北から挟み撃ちにされたエフタルはたちまち崩壊し、アム川から北は突厥、南はペルシアが統治することに定められます。エフタルの諸部族の長は二つの帝国に服属する地方領主となり、ソグド人やテュルクと融合して消えていきました。

 しかし共通の敵が滅ぶと、たちまち突厥とペルシアの利害が衝突します。メナンドロスという東ローマの歴史家によれば、テュルクの王ディザブロス(シルジブロス、「シル川のヤブグ」のギリシア語訛り)はソグド人の要求に応え、ペルシア王ホスローに絹の通商を許可するよう求める使節団を派遣しました。しかしペルシアはこの使節団を拒み、二度目は毒殺したため、両国は敵対関係に入りました。ディザブロスはソグド人の首領マニアクに絹や書簡をもたせ、ペルシアの敵である東ローマへ使節を派遣します。

 時に西暦568年で、ユスティニアヌス大帝は565年に崩御しており、甥のユスティヌス2世が在位していました。皇帝は喜び、友好の使節としてキリキアのゼマルコスらを派遣します。使節団はおそらく黒海とカスピ海・アラル海の北岸を通ってシル川沿いに進み、ディザブロスが住むエクタグ(白い山/金の山、アルタイ)の谷間へ到達しました。使節団は豪奢な天幕の中で黄金の椅子(車輪つき)に座るディザブロスに謁見し、葡萄酒ならぬ馬乳酒(クミズ)を振る舞われ、ケルキス(クルグズ)の女奴隷を賜ったといいます。

 ディザブロスは東ローマの使者を伴って南下し、タラスへ向かいました。そこにはペルシアの使者が来ていましたが、ディザブロスは彼らを激しく罵り、東ローマの使者を上座に座らせたといいます。東ローマ側の報告ですから差っ引かねばなりませんが、ディザブロス/イステミがペルシアと対立し、東ローマと手を組んだのは本当のようです。ただこの頃、東ローマの北方には、突厥と敵対する「アヴァール」と呼ばれる集団が来ていました。

阿抜可汗

 アヴァールが初めて言及されたのは、パニオンのプリスコスのグリュプスがどうたらという玉突き話です。次に現れるのはその100年近く後、西暦557年で、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの晩年にあたります。この年、アヴァールのカガンであるカンディクという者が、北カフカースのアラン人の仲介で東ローマに使者を派遣し、友好条約の締結を求めてきました。彼らは東ローマからカネを受け取り、国境地域の防衛を担うことになります。

 この頃、黒海北岸にはウトリグル、クトリグル、サラグル、オグル、オノグルなどの諸部族が割拠しており、北カフカースにはアラン人やハザールがおり、またスラヴ系のアント人が南下して来るなど、東ローマ北方は渾沌としていました。パンノニアではフン族の後、ゲピド族と東ゴートが相争い、押し出された東ゴートは5世紀末に南下して、バルカン北東部とイタリアを支配しました(東ゴート王国)。東ゴート王テオドリックは一時西ゴート王国をも支配し、ローマ帝国の西の副帝として君臨しますが、526年に彼が逝去すると混乱に陥り、東ローマ帝国は大戦争の末に征服していました(ゴート戦争)。勝ったとはいえ帝国はボロボロになっており、新手の蛮族が北方の防御を担ってくれるという申し出をありがたく受諾したわけです。

 しかし559年にカンティグに代わり、クトリグル族のザベルガンがアヴァールのカガンとなり、ドナウ川を越えて一時はコンスタンティノポリスに迫ります。561年にはドナウ川北岸を西へ遡りながら諸部族を平定・併合、2万の騎兵を率い、ドナウ南岸への定住を求めました。東ローマはカネを払ってお引取りいただくこととし、アヴァールは方向を変えて北へ向かいます。この頃ザベルガンに代わってバヤン・カガンが即位しました。

 ダキア(トランシルバニア)とパンノニア(ハンガリー)には東ゴートを追い出したゲピド族が、ボヘミアとモラヴィア(チェコ)にはランゴバルド族が割拠していたので、アヴァールはこれらを迂回してウクライナからポーランドに入り、562年にはエルベ川を渡ってドイツ中部のチューリンゲンに出現しました。フランク族の東部分国王はこれを撃退しますが、アヴァールはそのままチェコやスロバキアの北方へ居座り始めます。

 566年、アヴァールはフランクとエルベ川で再び激突し、フランクを打ち破りました。フランク側の記録では「アヴァールが魔法を使って戦場に悪霊を出現させた」と言いますが、負け惜しみでしょう。さらに567年にはランゴバルド族と手を組んでパンノニアに侵攻、ゲピド族の王国を滅ぼします。アヴァールはパンノニアを占領し、ランゴバルドは戦利品の半分を受け取ってイタリアへ向かい、ボヘミアとモラヴィアもアヴァールに征服されます。

 さらにアヴァールに属するブルガール族がアドリア海沿岸のダルマチアを占領し、東ローマとイタリアを事実上切り離しました。ここにおいてアヴァールの勢力範囲は、西はエルベ川からドナウ川北岸を経て黒海北岸におよぶ広大なものとなり、かつてのフン族の帝国に匹敵する存在となったのです。

 ゴート戦争で荒廃していたイタリアは瞬く間にランゴバルド族に蹂躙されてしまい、各地に族長が割拠します。いま北イタリアをロンバルディア地方というのはこれによります。東ローマはゲピド族崩壊のどさくさにシルミウム(ベオグラード)を奪還しますが、アヴァールは東ローマに貢納を課し、しばしばシルミウムやドナウ沿岸を荒らし回りました。しかし、彼らはいったいどこからやってきたのでしょう。

 557年に東方から来て、カガンという君主号を持つからには、突厥の勃興によって駆逐されたテュルク系の騎馬遊牧民集団に違いありません。メナンドロスも「アヴァールはテュルクに駆逐された」と記しています。それが柔然か、高車か、あるいはエフタルか、それらの混成かもわかりませんが、起源はひとつではないでしょう。彼らはフン族とは違い、約250年にも渡ってパンノニアに定着し、ブルガリアやフランクとも戦っています。彼らが西方に伝えたもののひとつがであったといい、ヨーロッパの騎士文化はこれら騎馬遊牧民の文化と重なり合うところも多いのです。

 そしてアヴァールを通じて、東方の内陸ユーラシアの動きは東ローマ帝国にもある程度は伝わっていました。このような時にアヴァールの敵国であるテュルク/突厥から使者が来たのですから、東ローマにとってはまことにありがたいことだったわけです。これより突厥は東ローマと提携し、ペルシアやアヴァールと戦いつつ、東方の絹をせっせと輸出することになるのです。

◆暴◆

◆暴◆

【続く】

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