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【つの版】ウマと人類史:中世編20・祖元皇帝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1125年に遼が滅び、耶律大石が西へ移動すると、モンゴル高原は金の支配も及ばぬ状態となります。この機会に乗じてモンゴル族の長カブルは高原北東部の諸部族を統一し、モンゴルウルスカンとなります。彼の国を歴史学上ではカムク・モンゴル・ウルス全てのモンゴルの国と呼びます。カブル・カンは南の金国を脅かして、モンゴル帝国の基礎を築き上げるのです。

◆運命◆

◆血統◆

宋金戦争

 1126年、女真族の金国は宋国の首都開封を占領しました。しかし彼らは直接華北を支配するのは困難と考え、かつて契丹が石敬瑭を後晋の皇帝に建てたように、傀儡政権を樹立することとします。まず宋の宰相で対金和平派だった張邦昌を脅して金陵(南京)で帝位につけ、国号をとしますが、張邦昌は宋への忠義を棄てず、金軍が一時撤退すると帝位を棄て、宋の皇族を擁立して南宋を建国させました。南宋朝廷は長江の南へ逃れ、名将の岳飛韓世忠らが軍を率いて抗戦します。金軍は陸戦では強くとも水上の戦闘には不慣れで、大打撃を受けて長江の北へ撤退しました。

 なお1128年、宋の将軍の杜充が金軍の南下を防ぐため、黄河の南岸の堤防を決壊させました。これにより黄河は大きく南遷して南の淮河に合流し、黄海へと流れ込むようになります。淮河は頻繁に氾濫を起こすようになり、多数の沼沢地を作り、溢れ出た水は長江まで注ぐようになります。この黄河の南流は、1855年に再び北流するまで700年近く続きました。

 1130年、金は宋の済南府知事であった劉予(劉豫)を華北の漢人を統治する傀儡の皇帝に冊立し、国号をとしました。また同年には、金の捕虜であった秦檜を解放して南宋へ遣わし、対金講和派の筆頭として南宋の天子・高宗に重用されます。高宗はこの頃金との和解を望んでいましたが、岳飛らは主戦派として軍事力を握り、金を打倒しての華北奪還を望んでいました。

 1135年、金の太宗ウキマイが崩御すると、太祖アグダの孫ホラが擁立されて新たな天子(熙宗)となります。ウキマイはチャイナに深入りせず、晋王ネメガに対宋政策を任せていましたが、太祖の子オベンはホラを唆してネメガから軍権を奪い、1137年に失脚させます。同年には斉国を廃止し、1139年には金国への服従を条件として斉国の領土(陝西と河南)を南宋へ返還することになります。しかし金でも宋でも反対意見が強く、撤回されました。

 この頃、秦檜は軍人同士の争いに乗じ、金や高宗の後ろ盾を得て宰相となっていました。岳飛や韓世忠は彼と激しく対立しますが、1142年に冤罪を着せられて失脚し、岳飛は処刑、韓世忠は軍権を奪われます。同年、宋は金と和平を結び(紹興の和議)、淮水と大散関/秦嶺山脈が国境線と定まります。また宋は金に臣属し、金は宋の君主を皇帝に冊立すること、毎年元旦と金の天子の誕生日には宋が使者を派遣して慶賀すること、宋は毎年金へ銀25万両と絹25万匹を貢納することなどが決定しました。宋にとっては屈辱的ですが軍事力の差から如何ともしがたく、金もここまでが国力の限界で、両国はしばし平和を享受することになったのです。

祖元皇帝

 しかしこの頃、金の北方はモンゴル族に脅かされていました。金からの亡命者により1234年に南宋で編纂された『大金国志』にはこうあります。

 皇統五年…秋七月、國中大旱、飛蝗蔽日。是月、詔蠲民租。時有蒙兀之擾、又有旱荒之憂、民不聊生甚矣。
 熙宗の皇統5年(1145年)秋7月、国中に大旱魃が発生し、飛蝗が太陽を覆った。この月、詔勅を下して租税を免除した。時に蒙兀が騒擾をなし、旱魃で飢饉となり、民は苦しんだ。
 皇統六年…女真萬戶湖沙虎北攻盲骨子、糧盡而還、為盲骨子襲之、至上京之西北、大敗于海嶺。…盲骨子在契丹時謂之朦骨國、其人長七八尺、捕生麋鹿食之、其目能視數十里、秋毫皆見。蓋不食烟火、故眼明。與大金隔一江、嘗渡江之南為宼、禦之則返、無如之何。
 皇統6年(1146年)夏、女真の万戸長の湖沙虎が盲骨子モンゴルを攻撃したが、兵糧が尽きて撤退したところを襲撃され、上京(ハルビン)の西北まで追撃されて大打撃を受けた。…盲骨子は、契丹の時は朦骨モンゴル国といい、住民の背丈は七尺から八尺(1尺23cmとしても184cm)もある。野生の麋鹿おおしかを捕らえて食べ、その視力は数十里先を見通し、秋毫(秋の獣の毛のようなわずかなもの)も皆見える。おそらく食事に火を用いないせいであろう。大金国とは川(ヘルレン川)一本を隔てており、かつて南に渡って掠奪をなしたが、防御して跳ね返すと何事もなかったようであった。
 皇統七年…是歳、朦骨國平。初、撻懶既誅、其子勝花都郎君者、率其父故部曲以叛、與朦骨通。兀朮之未死也、自將中原所教神臂弓手八萬討之、連年不能克。皇統之六年八月、復遣蕭保壽奴與之和、議割西平河以北二十七團塞與之、歲遺牛羊米荳、且册其酋長熬羅孛極烈、為朦輔國主、至是始和、歲遺甚厚。于是熬羅孛極烈自稱祖元皇帝、改元天興。大金用兵連年、卒不能討、但遣精兵、分據要害而還。
 皇統7年(1147年)…この年、朦骨国の乱が平定された。(この乱のもとはこうである。)撻懶ダラン(完顔昌、金の皇族)が誅殺されると(1139年)、その子の勝花都郎君は父のもとの部曲(部下)を率いて叛き、朦骨と通じた。兀朮ウジュ(太祖の子)が未だ死なない時(1148年没)、自ら中原で教練した弓の名手8万人(8000人の誇張か)を率いてこれを討ったが、連年戦っても勝てなかった。
 皇統6年8月、また蕭保寿奴を使わしてこれと和平を結び、協議して西平河(ヘルレン川)以北の27城を割譲し、毎年牛や羊、米や豆を送ることとした。またその酋長の熬羅孛極烈(カブル・ボギレ)を冊立して朦輔(骨)国主とし、ここに初めて和解して、多くの賜物を授けた。しかし熬羅孛極烈は自ら祖元皇帝と称し、改元(建元)して天興とした。大金は連年攻撃したが討つことができず、ただ精鋭の兵士らを派遣して、要害の地に分けて駐屯させただけであった。

 孛極烈ボギレとは女真語で族長をいい、熬羅(中古音ngau la)とはカブルのことです。『元史』では彼を葛不律寒カブル・カンと記し、敦必乃トンビナイの子で八哩丹バルタンの父であるとするにとどまりますが、モンゴルの初期の歴史においては相当な重要人物です。憎き金国を脅かすモンゴルの情報は南宋にも届いており、『建炎以来繋年要録』という宋の史書では彼の名を訛って「鄂羅(nak la)貝勒」と記しています。

(金皇統六年八月)…金以所教神臂弓弩手八萬人討蒙古、連年不能克。是月、令汴京行台尚書省事蕭保壽努與蒙古議和、割西平河以北二十七團寨與之、歲遺牛羊米豆、且冊其長為蒙古國、蒙古不受。(皇統七年三月)…是月金人與蒙古始和、歲遺牛羊米豆綿絹之屬甚厚。於是蒙古長鄂羅貝勒、自稱祖元皇帝、改元天興。金人用兵連年、卒不能討、但遣精兵分據要害而還。

『元朝秘史』などによると、カブル・カンは自ら金へ朝貢に赴き、皇帝は彼のために宴席を設けました。カブルは並外れた食欲旺盛さで皇帝を驚かし、また酒に酔って皇帝のヒゲを引っ張ったといいます。酔いを醒ましたあと、カブルは皇帝に謝罪しましたが、皇帝は笑って赦し、手厚い賜物を与えて帰国させました。しかし金の廷臣に唆され、彼を呼び戻して始末しようとします。カブルは自分を捕縛しようとした金の使者を返り討ちにし、金とモンゴルは再び争うようになったとされます。まあモンゴル側の伝説でしょう。

 カブル・カンの生没年は定かでありません。彼はチンギス・カンの曽祖父とされますから、チンギスが1162年生まれとして一世代30年で遡ると、父は1132年頃、祖父は1102年頃、曽祖父カブルは1072年頃の生まれです。耶律大石が漠北に逃れ、遼と宋が滅んだ頃には60歳頃となり、1147年には75歳となります。一世代下げて1102年頃の生まれとすると、1147年には45歳ほどでちょうどいい感じですが。

韃靼仇敵

 カブルには7人の息子がいましたが、跡を継いでカンとなったのは遠縁のアンバガイでした。彼はカイドゥの子チャラカイの孫とされ、ネグス氏族に属し、代々チノ(狼)を名に持つことからチノス氏族とも呼ばれます。のちアンバガイの子孫はタイチウト氏族とも呼ばれました。カブルと同じくボドンチャルの子孫でボルジギン氏ですが、オノン川中流域に居住し、カブルの子孫であるキヤト氏族はその北に位置していたようです。

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 この時代、カムク・モンゴル・ウルスはモンゴル高原の北東部、ザバイカル地方をほぼ統一しただけの勢力に過ぎません。南にはタタル、南西にはケレイト、西にはメルキト、北西にはバルグトがおり、ケレイトの西にはナイマン、その北にはクルグズが割拠しています。モンゴルを含めたこれら七つの部族国家は実力伯仲しており、統一されていませんでした。

 タタルはモンゴルと同じく室韋/三十姓タタルの子孫で、この頃には単にタタルと呼ばれ、自称していました。フルンボイル草原の南に住み、契丹が興ると服属し、金が興るとその国境付近に住んで、モンゴルよりは先進文化に触れています。このためモンゴルはタタルと激しく戦うこととなりました。

 アンバガイは娘のひとりを嫁がせて同盟しようと考え、自らタタルの地に赴きましたが、金に従属するタタルの国境守備隊ジュイン・イルゲンに捕縛されます。金からすればモンゴルとタタルが手を組めば大変ですから、邪魔して仲を割くのが一番です。金はモンゴルに侵略された恨みを忘れず、アンバガイを木馬に磔にして殺してしまいました。これがいつのことか判然としませんが、金の皇帝熙宗は1149年にオベンの子テクナイに弑殺され、テクナイが帝位を奪っています(海陵王)から、彼の時代のことでしょうか。

 アンバガイの死後、モンゴル族はオノン川の河原に集まって、カブル・カンの四男クトラをカンに推戴しました。これ以後、アンバガイの子孫がカンとなることはありません。クトラはアンバガイの子カダアン・タイシとともに仇敵であるタタルと戦い、さらに金の領内に攻め込んで、おびただしい戦利品を獲得したといいます。クトラの兄バルタンの子をイェスゲイといい、バートル勇士という称号を持っていました。チンギス・カンの父です。

 イェスゲイの妻はホエルンといい、モンゴル高原東部のコンギラト部族の出身でした。この部族は代々モンゴル部族と通婚関係にあり、カブル・カンの妃もコンギラト出身でした。伝承によると、モンゴル族の西にあった有力部族メルキトはコンギラトから嫁を娶ろうとし、ホエルンはメルキトに嫁ぐことになりました。しかしイェスゲイたちが彼女の嫁入り行列を襲撃し、ホエルンを娶ったのだといいます。両者の同盟が成立すれば、モンゴルは東西から攻撃されるところでした。

 やがてクトラ・カンがタタルとの戦いを始めると、イェスゲイはこれに味方し、タタルの族長のひとりであるテムジン・ウゲを捕虜として処刑しました。この時ホエルンは産気づき、オノン川のほとりのデリウン・ボルダク(脾臓の山)という丘陵(モンゴル国ヘンティー県ダダル郡)で男子を産みました。イェスゲイは家に戻ると、戦勝を祝してこの子にテムジンと名付けたといいます。これはモンゴル語で「テムルを作る人」「鍛冶屋テムルチ」を意味します。そのため後世には「彼はもと鍛冶屋だった」という伝説が生じました。漢文献では鉄木真と表記します。彼こそがのちのチンギス・カンです。

 伝承によると、生まれたばかりの彼は右の掌に血の塊を握っていました。これは『雑阿含経』のアショーカ王物語に、カウシャンビー王マハーセーナの子が「鎧を身に着け、血の塊を握って」生まれてきたとあることにちなんでいます。この子は全世界を支配する王者となり、無数の犠牲者を出すであろうと予言されたといい、テムジンはそのような帝王となりました。
 テムジンの生年は史料によって異なります。『元史』太祖本紀には在位22年目の秋7月壬午に66歳で崩御したとあり、逆算すると1162年となります。『集史』では「ヒジュラ暦549年のズールカーダ月、ブタの年(亥年)に生まれた」とし、同じブタの年に72歳で崩御したとします。これは西暦1155年乙亥と1227年丁亥にあたりますが、イスラム圏ではブタは不浄の動物なので貶めるためかも知れず、やや怪しいと思われます。『聖武親征録』諸本のひとつでは1226年丙戌の記事において「上年六十」とし、逆算すると1167年になります。1221年の南宋の使節が記した『蒙韃備録』では「成吉思皇帝者甲戌生」とあり、甲戌すなわち1154年生まれとしています。一般には元史に基づいて1162年とすることが多いようです。

 さて、イェスゲイとホエルンの間にはテムジンののち2年ごとに3人の男子が生まれ、ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンと名付けられました。クトラが逝去するとイェスゲイが跡を継いだものの、アンバガイの子孫がゴネたのか、カンとはならずバートルのままでした。この頃、隣国のケレイトでは内紛が起き、カントオリルが追放されてイェスゲイのもとへ亡命しました。イェスゲイは彼を支援して義兄弟アンダの関係を結び、帰国させたといいます。これはのちにテムジンを助けました。

 テムジンが9歳の時(1162年生まれなら1171年)、イェスゲイは息子の嫁を決めようと彼を伴ってコンギラト部族のもとへ赴き、ボスクル氏のデイ・セチェンの娘ボルテと婚約させました。婚約の条件としてテムジンはボルテの家に預けられ、イェスゲイは帰路につきます。

 ところが途中で喉の乾きを覚え、タタル族が宴会を催しているところへ立ち寄り、飲み物(馬乳酒)を請いました。仇敵だろうと困った旅人にはホスピタリティを発揮するのが遊牧民の礼儀ですが、タタル族は彼がモンゴル族の長であると知り、こっそり飲み物に毒を入れたので(運悪く傷んでいたのかもですが)、イェスゲイはどうにか家まで帰り着いたものの具合が悪くなりました。彼は一族郎党に事情を告げ、譜代の家臣モンリクにテムジンを連れ戻すよう命じて妻子を託し、そのまま息を引き取ったといいます。

 イェスゲイが死ぬと、モンゴル族ではタイチウト氏が主導権を握るようになり、アンバガイの孫タルグタイらに率いられ、イェスゲイの妻子を見捨ててオノン川の下流へ去って行きました。キヤト氏族の長となるべきテムジンは、僅か9歳の若君です。彼はどのように生きのびていくのでしょうか。

◆オンリー◆

◆ロンリー◆

【続く】

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