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【つの版】ウマと人類史:近世編35・摂政登極

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1722年、パシュトゥーン人のギルザイ部族連合(ホータキー朝)の攻撃により首都イスファハーンが陥落し、サファヴィー朝は事実上滅亡しました。しかしタフマースブ王子らが各地で抵抗を続け、ロシアとオスマン帝国が混乱に乗じてペルシアに侵攻します。この時タフマースブに味方したのが、勇猛果敢なテュルク系騎馬遊牧民を率いるナーディルでした。

◆伊◆

◆蘭◆

首都奪還

 ナーディルの出自は定かでありませんが、西暦1688年にイラン高原北東部のホラーサーン地方ダストギルド(現イランのラザヴィー・ホラーサーン州ダルガズ郡)に生まれたといいます。サファヴィー朝に仕えるオグズ・テュルク系遊牧民クズルバシュの一派にアフシャール部族連合があり、彼の父イマーム・クリーはキルクル族の長であったとも、貧しい牧夫であったともいいます。いずれにせよ、彼は遊牧民の家に生まれ育ちました。

 しかし彼が13歳の時(1700年)に父が亡くなり、ナーディルは薪を集めて市場に運ぶ仕事をして、母と自らを養いました。15歳で地元の銃士隊(ジャザイェルチ)に加わりましたが、17歳の時に北方から襲来したウズベク人に母ともども奴隷として連れ去られ、母はそのまま亡くなります。ナーディルは21歳の時(1708年)にホラーサーンへ戻り、王朝末期の動乱の中で頭角を現しました。1722年にイスファハーンが陥落した時、彼は34歳でした。

 ナーディルは新たに王位についたパシュトゥーン人のマフムードに従い、ホラーサーンに独自勢力を保っていましたが、1726年にタフマースブの要請を受けてこれと協力関係を結びます。彼はまずホラーサーンの州都マシュハドを攻め落とすと、1729年5月にヘラートを攻め、パシュトゥーン人のアブダーリー部族連合を打ち負かして支配下に置きます。彼らはギルザイ部族連合とは対立していたため、敵の敵は味方というわけです。

 この頃、ギルザイ/ホータキー朝の王アシュラフはオスマン帝国やロシアと和睦して王位を承認させ、各地の反乱を鎮圧していました。1728年にはケルマーンの反乱を平定しましたが、その間にナーディルはイスファハーンを直接攻撃せず、東方で勢力を蓄えていたのです。1729年8月、アシュラフはナーディルを討つべくイスファハーンを出発し、4万の軍を率いて北東のダームガーンまで進軍しました。ナーディルとタフマースブは2万5000ほどの軍を率いてダームガーンへ向かい、両者は9月末に激突します。

 この時、ナーディルは騎馬遊牧民らしからぬ戦法を取りました。丘を背にして四つの銃士隊を横並びに配置し、その背後に大砲を配備したのです。アシュラフ率いる軍は伝統的な騎馬遊牧民の戦法にのっとり、中央と左右の両翼に分かれ、騎兵による総攻撃を仕掛けます。ナーディルは充分に敵を引き付けてから大砲と銃を撃たせ、襲い来る騎兵部隊を打ち砕いたのです。アシュラフ側は1万2000人もの死者を出して総崩れとなり、ナーディル側は追撃して撃ち破り、関所を突破してイスファハーンへ進軍します。

 アシュラフは這々の体でイスファハーンへ逃げ込みますが、市民の反乱に遭って都を追われ、南の港町シーラーズへ逃れます。多くのアフガン人は捕虜となって奴隷として売られ、アラビア半島へ出荷されました。ナーディルはタフマースブを奉じて1729年12月にイスファハーンへ入り、盛大な即位式を催しました。タフマースブはナーディルをホラーサーン総督に任命し、自らの妹をナーディルの息子に嫁がせました。

摂政登極

 1730年春、タフマースブとナーディルはオスマン帝国へ宣戦布告し、征服されていた領土を奪還にかかります。オスマン皇帝アフメト3世は軍を編成して東方遠征を計画しますが、イスタンブールでイェニチェリの反乱が起きて廃位され、甥のマフムト1世が即位しました。大宰相イブラヒム・パシャは反乱軍に処刑されますが、マフムトは1731年に反乱の首謀者パトロナ・ハリルらを処刑して実権を取り戻します。

 ナーディルは本拠地のホラーサーンでアブダーリー部族連合が反乱を起こしたため東方へ戻っており、タフマースブが対オスマン戦線の指揮を取りました。この頃アシュラフはバンダレ・アッバースから海路でバスラへ逃れてオスマン帝国を頼ろうとしましたが、海賊に船を奪われて果たせず、陸路で東のバローチスターンへ向かい、本拠地カンダハールへ帰ろうとしました。しかし1730年冬、現地のバローチ族に暗殺され、アシュラフの叔父フサインはナーディルに服属してカンダハールを安堵されています。

 1731年冬、タフマースブはアルメニアを奪還すべく1万8000人を率いて出陣し、エレバンを包囲しました。しかしオスマン軍はタフマースブの補給路を遮断して撤退させ、逆にタブリーズや西イランの都市ハマダーン、ケルマーンシャーへ侵攻し、これを奪ってしまいます。1732年1月、タフマースブはオスマン帝国およびロシアと講和条約(アフメト・パシャ条約ラシュト条約)を結び、アラス川を国境として休戦します。この時ロシアはクラ川以南、カスピ海北岸などの征服地をペルシアに返還しました。

 ナーディルは東方の反乱を鎮圧してイスファハーンに戻ると、タフマースブは王位にふさわしくないと喧伝して退位させ、タフマースブの息子で生後8ヶ月の赤子アッバース3世を王位につけます。そして自ら摂政の座につき、事実上の国王の代理人となると、オスマン帝国との戦争を再開します。まずオスマン帝国に奪われたハマダーンとケルマーンシャーを奪還し、1733年にはイラクへ攻め込んでバグダードを征服します。オスマン帝国はトパル・オスマン・パシャを派遣してバグダードを奪還させますが、ナーディルによって討ち取られてしまいます。

 1735年3月、ナーディルはロシアとギャンジャ条約を結び、ラシュト条約に加えてデルベントとバクーも返還させ、対オスマン帝国の同盟を結びました。同年ロシアはオスマン帝国と開戦し、クリミア半島へ侵攻しています。ナーディルはこれに乗じて南カフカースのオスマン軍を撃破し、アルメニアとジョージアを制圧しました。1736年3月、ナーディルはアッバース3世を退位させて自ら王位につき、アフシャール朝を開きました。アッバース3世は父タフマースブ2世とともにホラーサーンの街へ送られ、幽閉されます。

 サファヴィー朝はシーア派、ホータキー朝はスンニ派でしたが、ナーディルは即位するとスンニ派に改宗したため、スンニ派の盟主たるオスマン帝国はナーディルを異端として攻撃できなくなります。同年9月、オスマン帝国はナーディルと講和条約を締結し、彼をペルシア/イランの国王(シャー)として承認し、南カフカースやイラクの領有を認めました。

 かくして西方国境が定まると、ナーディルは目を東方に転じ、ホータキー朝の残党が抵抗を続けるカンダハール、それを支援するムガル帝国への侵攻を開始します。この頃、ムガル帝国は各地の反乱で崩壊しかかっており、このナーディルの遠征でさらなる大打撃を被ることになります。

◆Iran◆

◆Shah◆

【続く】

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