見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣07

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 古代ローマ帝国は繁栄を極めましたが、次第にその繁栄にはかげりが見えてきます。古代末期のローマの貨幣を見てみましょう。

◆悪◆

◆魔◆

悪貨横行

 オクタヴィアヌスが「アウグストゥス」の称号を受けてから200年ほど、ローマ帝国は内乱や紆余曲折ありながらも繁栄を続けました。しかし2世紀末にネルウァ=アントニヌス朝が断絶し、セプティミウス・セウェルスが帝国を再統一してセウェルス朝が始まると、状況が変わってきました。

 デナリウス銀貨は、ネロの頃には3.3gで94.5%の銀を含んでいましたが、次第に重さが減って銀の純度も低下し、セウェルスが即位した頃には3g足らずで74%しか銀を含んでいませんでした。セウェルスは196年に3.22gまで戻したものの、銀の純度は56.5%まで落とし、半分近くは銅になります。これは各地の鉱山が枯渇しつつあったためと、軍事費の増大のためでした。

 ローマ軍団兵の最低年給はアウグストゥス以来225デナリウス(900HS)でしたが、西暦84年にドミティアヌスが300デナリウス(1200HS)に、195年にセウェルスが400デナリウス(1600HS)に吊り上げます。銀貨の価値が下がり、物価が相対的に値上がりしていたうえ、セウェルスは軍事力で皇帝に即位した成り上がり者のため兵士らの機嫌をとろうとしたのです。彼は211年に崩御した時、二人の息子カラカラとゲタに『共に仲良くせよ。軍を富ませよ。他は無視せよ』と遺言しました。

 なお皇帝の近衛兵は優遇されており、アウグストゥスの頃に年給675デナリウス(2700HS)、退職金5000デナリウス(2万HS)、退役までの年数も16年で済みました。彼らは皇帝の首をすげ替えるなど横暴を尽くしましたが他の軍団兵には嫉妬されており、軍を率いた新皇帝がローマに入るとブッ殺されて入れ替えられたりしたといいます。

 息子カラカラは早速遺言に背き、弟ゲタを殺して帝位を独占します。そして212年に勅令を発し、「帝国全土に住む全ての自由民(奴隷でない者)にローマ市民権を与える」と決めました。これにより属州税は撤廃されましたが、市民に課される相続税や奴隷解放税は5%から10%に引き上げられ、その他の特別税や兵役も「平等に」課されることになりました。ローマ市民権は特権ではなくなり、義務ばかりがのしかかることになります。新たな市民は兵役や増税を嫌がり、ローマ帝国への忠誠心はむしろ低下しました。

 カラカラは兵士を増やすべく年給を600デナリウス(2400HS)に増やしますが、重さはそのままでも銀の含有率は51.5%まで減少しており、実質は半分程度でした。そこで215年、カラカラは新たな銀貨を鋳造します。

 後世に「アントニニアヌス」と呼ばれるこの貨幣は、デナリウスより若干大きく、皇帝の像が放射状の冠をかぶっていることを目印として「デナリウスの2倍の価値がある」と定められます。実際にはデナリウスの1.5倍しか銀を含んでいませんでしたが、皇帝の権威でそう定義したのです。そしてデナリウスの造幣量を減らし、アントニニアヌスを流通させました。人々はこれを知ると古い銀貨や金貨をかき集めて貯蔵するようになり、アントニニアヌスは安く見積もられ、インフレがさらに進行しました。金銀の国外流出は歯止めがかからず、偽造貨幣も横行し、ローマの経済力は低下していきます。

 カラカラの死後、アレクサンデルがやや国勢を建て直しますが、彼は軍事費抑制をはかったため235年に暗殺され、軍人が帝位を次々と簒奪する「軍人皇帝時代」を迎えます。軍閥同士がしのぎを削り、蛮族が攻め寄せるマッポーの世では、デナリウスもアントニニアヌスもどんどん銀の含有量を減らしていき、ついには銀5%となりました。もはや青銅貨幣に銀メッキをほどこしただけです。セステルティウスやデュポンディウスは黄銅貨幣ですが、これも品質低下を起こしています。皇帝たちは貨幣のデザインを変えて2デュポンディウスの価値があると定義し、大量の悪貨をばら撒きました。

統制経済

 284年、ローマ皇帝に即位したディオクレティアヌスは、軍事が得意な友人マクシミアヌスを西方皇帝に任命して平定させ、自らは東方に拠点を置いて帝国全体の改革・再編を行います。

 287年には税制改革を行い、乱発されていた特別税を一本化して人頭税(カピタティオ)と地租(ユガティオ)にまとめました。人々は徴税単位(ユガ)ごとにまとめられて租税を納める義務を課せられ、耕地や家畜などを役人が数年ごとに査定して納税額を決めるのです。これにより税収は安定しましたが、デナリウス貨幣は悪貨のままでした。

 294年、ディオクレティアヌスは貨幣改革を行い、約3gのほぼ純銀の貨幣を鋳造してアルゲンティウス(銀)と名付けます。またヌンムスという大型の青銅貨幣(約10g)を発行し、表面に薄い銀を塗って「25デナリウスに相当する」と定義しました。この頃のデナリウス(D)は重さ4gほどの青銅貨幣で、これより小さな貨幣はほとんど鋳造されていません。そしてアルゲンティウス1枚が4ヌンムス=100Dに相当するとします。301年には5.45gの金貨を鋳造してソリドゥスと名付け、1枚1000デナリウスと定義します。

1ソリドゥス=10アルゲンティウス=40ヌンムス=1000デナリウス

 ソリドゥスとアルゲンティウスは高価過ぎてほとんど流通せず、ヌンムスとデナリウス、いくつかの青銅貨幣が庶民の手にできる貨幣でした。また相次ぐインフレで貨幣価値は下落しています。そこで301年、ディオクレティアヌスはデナリウスを単位として「最高価格令」を発布します。

 これは皇帝の勅令として、市場ではこの価格で売買すべしと定めたものでした。社会主義国などで行われた統制経済の古代版です。これによれば銀1リブラ・ポンドゥス(327g)が6000Dですから、銀1g3000円として1リブラ・ポンドゥスは約100万円、1Dは167円ほどです。かつては労働者の日給ほども価値のあったデナリウスが、その72分の1にまで落ちたのです。とすると1ヌンムスは25D=4175円、1アルゲンティウスは100D=1.67万円、1ソリドゥスは16.7万円に相当します。

 食物で見ると、1軍用モディウス(12リットル)あたり大麦やライ麦で60D(1万円)、小麦や豆や塩が100D(1.67万円)。川魚や家畜の肉は1リブラ・ポンドゥスあたり8-12D(1336-2000円)、海の魚はその倍。牡蠣は100D(16.7万円)もします。野菜は大きいの10個あたり4D(668円)、ビールは1セクスタリウス(540ml)あたり2-4D(334-668円)、酢は6D(1000円)、普通のワインが8D、オリーブ油が12D-24D(2000-4000円)、蜂蜜が24D、高級ワインは40D(6680円)。
 身につけるものでは、靴は婦人用60D、紳士用150D。布地はチャイナから運ばれる白絹1リブラあたり1.2万D(200万円)、濃紫色で染めた生絹で15万D(2500万円)。金属では銅が1リブラあたり60D、銀が6000D、黄金が5万D(835万円)で、金銀の価値比率は1:8余り、黄金1gは2.55万円です。
 日給では、いずれも食事つきで羊飼いが20D(3340円)、農場労働者が25D(4175円)、大工・パン屋・石切職工が50D(8350円)、モザイク職人が60D(1万円)、左官や塗職人が75D(1.25万円)、人物画職人が150D(2.5万円)です。食事代が日給と等価としても随分下がりました。
 サービス料では、散髪や浴場の携帯品預かりが2D、文字の筆写が100行につき25D。弁護士なら訴訟が200D、審理が1000D。教師への月謝は生徒1人あたりで初等教育が50D、速記術が75D、幾何学・ギリシア語・ラテン語が200D、弁論術や修辞術なら250D。製粉場を利用する場合、人力なら250D、ロバ利用なら1250D、ウマなら1500D、水車なら2000Dもします。

 他にも細々と定められていますが、この勅令は全く守られず、実勢価格はこの数倍もしました。ディオクレティアヌスは力尽きて305年に引退し、やがてコンスタンティヌスがローマ世界を再統一します。

金貨確立

 312年、コンスタンティヌスはソリドゥス金貨を銀貨に代わる基軸通貨とし、1/72リブラ・ポンドゥス、約4.5g(のち4g)の黄金を含む、ほぼ純金の貨幣と定めました。ラテン語solidusは英語solid(固体)の語源で「固い」「確かな」を意味し、東ローマ帝国ではノミスマ(規範)と称されました。これは11世紀頃まで高純度を維持し、帝国内外で広く流通しました。

 ディオクレティアヌスの最高価格令によれば、黄金1リブラが5万D。1D167円として835万円、1gあたり2.55万円ですから、4.5gの黄金は11.475万円、4gで10万円。実際はこれよりやや高く、15万円ぐらいでしょうか。この頃の石工の年収が5-7ノミスマといいます。デナリウスはもはや青銅貨幣としてのみ流通し、ソリドゥス1枚が数万Dにもなったといいます。庶民はソリドゥスなどめったに拝めず、ただ食糧や生産物を言われるままに貢納するしかなかったのでしょう。

 兵士はソリドゥスを給与として与えられ、ソリダリウス(solidarius)と呼ばれました。英語ソルジャー(soldier)の語源です。おそらく月給に相当したのでしょう。しかしダレイコスの8g、アウレウスの7.3gに対しても小さくなっており、月給2ソリドゥスとすればそれなりです。

 4世紀末、ローマ帝国は東西に最終分裂します。当時の西ローマの元老院議員のうち年収が金4000リブラ以上の大富豪は3-5人、年収1000-1500リブラの富豪は20人前後で、農園1つが年100リブラの収入になったといいます。1リブラが72ソリドゥスとすれば、1ソリドゥスが15万円としても1080万円。100リブラは10.8億円、1000リブラは108億円となります。

 408年、西ゴート王アラリックは西ローマに防衛報酬として黄金4000リブラ(432億円)を要求しました。フン族は東ローマに対して年350リブラ(37.8億円)を貢納させており、435年には倍、443年にはさらに3倍を要求した上、賠償金6000リブラ(648億円)を求めました。

 498年、東ローマ皇帝アナスタシウスは貨幣改革を行い、1ソリドゥス/ノミスマ金貨=12ミリアレンセ銀貨=180フォリス青銅貨=7200ヌンムス青銅貨と定めました。1ノミスマ15万円として、ミリアレンセは1.25万円、フォリスは1/15ミリアレンセ=834円、ヌンムスは1/40フォリス=21円です。ミリアレンセはかつてのデナリウス銀貨やドラクマに匹敵します。

 518年に彼が崩御した時、国庫には2300万ノミスマに相当する32万リブラ(3兆4560億円)もの黄金が蓄えられています(1リブラ=72ノミスマ)。527年に皇帝ユスティヌスが崩御した時はさらに増え、2880万ノミスマ(40万リブラ=4兆3200億円)にもなっていました。歳入は500万ノミスマ(7500億円)にも達し、ユスティニアヌスはこの帝国を受け継いだのです。

 ローマの東半分にも関わらずこれほどの富を持てたのは、もともとこの地域の文明度が高く、東方との交易も盛んであったうえ、トラキアや小アジアに多くの金鉱が残っていたからです。逆に西方はヒスパニアの銀山が枯渇したうえ黄金もさほど産出せず、西ローマを征服した蛮族たちは東ローマのソリドゥスを基軸通貨として頼りにするほどでした。中世イタリアのソルド、スペインの通貨ソル、中世フランスの通貨スゥはソリドゥスに由来します。

 しかしユスティニアヌスは、莫大な資金を元手に地中海世界を取り戻そうと企て、イタリアやスペインなどへ遠征軍を送り込みます。また東方ではペルシア帝国との戦争も始まり、北方からはアヴァール人が侵攻して年8万ノミスマ(120億円)もの貢納をふっかけ、さしもの東ローマ帝国もぐらついてきます。庶民や征服地には重税がのしかかり、ついにアラビアに興ったイスラム教徒の軍勢によって、東ローマ帝国は滅亡の危機に瀕するのです。

◆黄金◆

◆魂◆

 さて、古代ローマの貨幣について見てきましたので、次からはペルシアやインド、さらにチャイナの貨幣について見ていきましょう。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。