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【つの版】ウマと人類史:近世編06・俄羅称帝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1547年、モスクワ大公イヴァン4世は東ローマ皇帝から贈られたと称する冠で戴冠式を行い、「ゴスダーリ(君主)、全ルーシのツァーリ(帝王)にしてヴェリーキー・クニャージ(大公)」と称しました。モスクワ大公国はこれ以後「ロシア・ツァーリ国(ツァールストヴォ・ルースコエ)」と呼ばれることがあります。この称号について少し見ていきましょう。

◆ロロロ◆

◆ロシアン◆

俄羅称帝

 もともと「ルーシ」とはスラヴ諸語ではなく、印欧語族ゲルマン語派北ゲルマン(ノルド)諸語で「櫂(オール)を漕ぐ人」を意味しました。ルーシ最古の歴史書である『原初年代記』にも、現地住民が互いの争いを解決するために海の彼方から仲裁者としてリューリクたちを招き寄せたと書かれていますし、それ以前にもヴァリャーグ(仲間)と呼ばれる北欧系のルーシたちがノヴゴロド周辺で活動していたことは諸記録にあります。近代になると民族主義の高まりにより「ルーシはスラヴ民族」とする主張が出てきますが、ルーシの諸侯はみなリューリクの末裔を名乗り、イヴァン4世もそう称しています。しかしノヴゴロドやキエフ(キーウ)ならともかく、モスクワ大公が「全ルーシのツァーリ」と名乗るとはどうしたことでしょう。

 ロシア(Rhosia/ローシア)とはルーシをギリシア語形にしたもので、キエフ/キーウを中心とするルーシ王国(いわゆるキエフ・ルーシ)を東ローマ帝国がそう呼んだものです。11世紀にはルーシ王ヤロスラフがノルウェー・ハンガリー・フランスの王に娘たちを娶らせており、西欧においてルーシの地はラテン語形でルテニア(Ruthenia)とも表記されました。

 ルーシ王国は諸侯の争いによって分裂し、1240年にモンゴル帝国によって滅ぼされます。ルーシ諸侯のうち北東諸侯はウラジーミル(のちモスクワ)大公を盟主としてモンゴルに服属しましたが、南西諸侯は最後のキエフ大公にしてハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロを盟主としてモンゴルに抵抗しました。ウクライナ西部の主要都市リヴィウは、このダヌィーロにより建設され、息子レーヴにちなんでリヴィウと名付けられています。

 ダヌィーロはハンガリー・ポーランド・オーストリア・ボヘミア・ドイツ騎士団らと手を結び、1253年にローマ教皇より「ルーシ王(Rex Russiae)」の王冠を受け、モンゴルに反旗を翻します。しかし西欧諸侯はこの十字軍に協力せず、結局ダヌィーロはモンゴルに服属しました。

 ダヌィーロの孫ユーリイは改めて「ルーシ王」を名乗り、反モンゴル運動を再開します。1299年、正教会のキエフ府主教座(正式には「キエフおよび全ルーシの府主教」)は北東ルーシのウラジーミルに遷され(1321年からモスクワ)、モンゴル帝国の傀儡となっていたため、ユーリイはコンスタンティノポリス総主教に働きかけ、キエフ府主教座をリヴィウに遷すよう要求しました。1303年、総主教はキエフ府主教区を二つに分割し、リヴィウに「小ロシア府主教区」、ウラジーミルに「大ロシア府主教区」を設置します。

 これは規模の大小ではなく、本土と分家を指すものです。かつてギリシア人はアナトリアを「アジア(東)」と呼んでいましたが、その東に広がる大陸を「大アジア」と呼ぶようになり、もとのアジアの地は「小アジア」と呼んでいます。ギリシア人が南イタリアやシチリアに入植した際、そこは「大ギリシア」と呼ばれ、本土は「小ギリシア」と呼ばれました。インド人はチベットをボータと呼びましたが、インドに近い方をボータ(小ボータ)、遠い方(アムドやカム)をマハー・ボータ(大ボータ)と呼んでいます。

 1308年にユーリイが逝去し、子のアンドレイとレーヴ2世も1323年に戦死すると、女系で血縁のあるポーランド王族ボレスワフが14歳でルーシ王に即位します。ここにルーシ王国のリューリク朝は断絶し、ポーランドのピャスト朝に取って代わられました。1340年、ルーシ貴族によりボレスワフが毒殺されると、ポーランドとリトアニアはルーシを巡って戦争を開始しました。

 この戦争は長きに渡り、最終的にハールィチはポーランド領、ヴォルィーニはリトアニア領となります。ポーランド王は「ルテニアの王」を名乗りましたが、ピャスト朝が断絶するとリトアニアと婚姻によって連合し、ともにヤギェウォ朝の君主を戴くことになりました。

 となると、リューリク朝諸侯として生き残ったウラジーミル大公国、改めモスクワ大公国こそは、リューリク朝ルーシ王国の正統後継者である、と主張できます。リトアニア大公国はキエフ(キーウ)を中心とするルーシの地の大部分を征服し、ルーシ諸侯も正教徒も服属していますが、ポーランドと同じくローマ・カトリックを国教としています。宗教的には寛容で正教会やユダヤ教なども保護されたものの、「キエフ府主教座」を擁し正教会を奉じるモスクワからすれば、西側諸国に屈してルーシを支配する異民族です。

 しからば、モスクワ大公がツァーリ/帝王・皇帝を名乗ったのは、いかなる権威に拠るのでしょうか。

第三羅馬

 1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノポリス総主教率いる(東ローマの)正教会は「啓典の民」としてオスマン帝国の庇護下に入り、メフメト2世は「カイゼリ・ルーム(ローマ皇帝)」の称号を引き継いでローマ帝国(ルーム、東ローマ帝国)の後継者を名乗ります。これはコンスタンティノポリス総主教にも承認されますが、反オスマン派の正教徒やローマ・カトリック教会からは否定されました。

 モレアス(ペロポネソス)専制公家のアンドレアスは1465年にローマに亡命して教皇庁から年金を支給され、1480年頃から「コンスタンティノポリスの皇帝」を名乗り始めます。彼は西欧諸国に対オスマン帝国の十字軍を呼びかけ、東ローマ帝国を再興しようとしますが、オスマン帝国を恐れて誰も呼びかけに応じず、年金も減らされていきます。やむなく1494年にはフランス王シャルルに帝位を譲りますが、シャルルが1498年に死ぬと再び皇帝を名乗り、1502年に貧窮のうちに崩御します。彼は遺言でアラゴンとカスティーリャの君主に東ローマの帝位を譲渡しますが、彼らはそう名乗っていません。

 アンドレアスの妹ゾイは、ローマに亡命した後ソフィアと改名し、ローマ教皇の勧めでモスクワ大公イヴァン3世と1472年に結婚しました。彼女の生んだ息子がヴァシーリー3世で、その子がイヴァン4世です。このためモスクワには「我が国こそ東ローマ帝国の跡継ぎ、第三のローマである」とする思想が正教会の僧侶を中心に喧伝され、君主らも権威付けのためにそう称するようになったのです。ローマ皇帝の位は娘婿に継承されるとは決まってはいませんが、箔付けのためならどうとでもなります。

 ローマ・カトリック教会や神聖ローマ皇帝はこれを認めておらず、コンスタンティノポリス総主教も認めていませんから、結局のところ僭称に過ぎません。まあ神聖ローマ皇帝だってローマ司教がフランク王カールを勝手にローマ皇帝としたことが起源ですし、言ったもん勝ちですが。また西暦1492年は正教会の用いる「世界創造紀元」では紀元7000年にあたり、時代が変革する時であると考えられていたようです。実際レコンキスタが終了したりコロンブスがインディアス(新大陸)を発見したり、いろいろありましたが。

 そんなわけで、モスクワ大公はルーシとローマの正統後継者を自認し、カエサル/ツァーリを名乗るに至ったのです。1547年のイヴァン4世の戴冠は、その帰結にして始まりでした。ポーランドやリトアニアはこれを認めず、ロシアではなく「モスコヴィア(モスクワの国)」と呼んでいます。モスクワを首都とする政権の長に過ぎず、ルーシの地の支配権はハールィチ・ヴォルィーニ大公国ことルーシ王国を経て、ポーランドとリトアニアに受け継がれたというのです。

 16世紀前半、神聖ローマ帝国の外交官として東方諸国を歴訪したヘルベルシュタインは、1549年に『モスクワ事情(Rerum Moscoviticarum Commentarii)』という著書を出版し、欧州諸国にモスクワ大公国/ロシア・ツァーリ国の様子を初めて詳細に伝えました。同年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本の鹿児島に上陸し、キリスト教(ローマ・カトリック)を伝えています。西欧諸国が地球を海路で一体化させていく中で、謎めいた東方の内陸国モスクワ・ロシアも西欧に「発見」され、西欧と繋がりを持ち始めていくのです。

◆RUSSIAN◆

◆ROULETTE◆

【続く】

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