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【つの版】度量衡比較・貨幣53

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1498年10月、ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ南端を超えインド洋を横断し、ついにインドに到達しました。これよりポルトガルは大砲と兵隊を積んだ艦隊を次々とアフリカやアジアへ派遣し、軍事力によって沿岸諸国を従わせ、海上交易路を支配下に置いていくことになるのです。

伯剌

◆西爾◆

大陸発見

 ヴァスコ・ダ・ガマやカボットの冒険航海の成功を聞いて、コロンブスは焦ります。彼は実際新しい土地を発見したものの、黄金も奴隷も期待していた量には及ばず、パトロンのスペイン王室から失望されていました。1498年5月30日、彼は6隻の船で三度目の航海に出発し、3隻を直接イスパニョーラ島へ向かわせ、自らはさらに南寄りの航路を取ります。この頃ポルトガルではカーボベルデ諸島の南西に陸地が発見されたとの噂が流れており、それを確認するためともいいます。マデイラ諸島、カナリア諸島、カーボベルデ諸島を経て南西へ進むと、船団は7月31日に大きな島に到達し、コロンブスはこの島をトリニダード(三位一体)と名付けました。

 この島の南には大河(オリノコ川)の河口があり、コロンブスらは翌日そこに上陸します。現在でいう南米大陸北東のベネズエラです。川の大きさからしてこの陸地は単なる島とは思えず、彼は「orto mundo(他の世界)」と表現しつつも、やはりアジアの一部であろうと信じていました。

 ここに木製の十字架を建ててスペイン領だと宣言し、周囲を探索した後、北上すると島々が連なっていたので、これを伝って8月19日にはイスパニョーラ島に戻ってきました。しかし島では入植者による反乱が起きており、コロンブスは反乱者と交渉して首謀者を縛り首にしたのち、反乱鎮圧のためスペイン本国に調停を願うこととします。

 1500年8月、500人の兵士を率いてスペインから派遣された査察官ボバディージャはイスパニョーラ島に到達すると、監督不行き届きとしてコロンブスらを逮捕して本国へ送還し、植民地総督の地位を引き継ぎました。コロンブスは命は許されたものの、全ての地位と名誉を剥奪されます。植民地経営の権利と利権はスペイン王室の手中におさまったわけです。

南西探索

 この頃、コロンブス以外の航海者も続々と大西洋を渡っていました。フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチは、1497-98年、1499-1500年にかけてスペインの支援でカリブ海諸島を探検し、コロンブスとは逆に南下してベネズエラに到達、陸沿いに南東へ進んでブラジル北岸に達しています。

 ベネズエラ(Venezuela)とは「小さなヴェネツィア」を意味し、アメリゴたちがマラカイボ湖の先住民らの湖上集落を見て、ヴェネツィアに見立ててそう呼んだのだといいます。

 また1500年3月にはポルトガルがカブラルをインド遠征に派遣しますが、ヴァスコと同様にアフリカ沖から大西洋を南西に進んだところ、4月22日に見知らぬ陸地を発見しました。彼はその付近の山をモンテ・パスコアル(復活祭の山)と名付け、2日後にその北にある天然の良港に投錨してポルト・セグーロ(安全な港)と名付けました。現ブラジル東部バイーア州です。

 カブラルはこの地で先住民らと友好的に接触し、5月1日に木製の十字架を建ててポルトガル領であると宣言し、「イリャ・デ・ヴェラ・クルス(真の十字架の島)」と名付けました。ここが「ブラジル」と呼ばれるようになるのは16世紀中頃以後のことです。

砲艦外交

 翌日、カブラルは報告のためポルトガル本国へ輸送船1隻を向かわせ、残りを率いて本来の目的地である東へと向かいます。5月末には嵐に遭遇し、船4隻と乗員380名を失いますが、犠牲者の中には12年前に喜望峰を発見したバルトロメウ・ディアスも含まれていました。残り6隻はどうにか再集結して喜望峰に到達し、ヴァスコの通ったルートを進んでキルワ、マリンディに至り、アンジェディヴァ島を経て9月にはカリカットに到達します。

 カブラルはカリカットの領主(ザモリン)と平和裏に交渉し、ポルトガルの商館と倉庫を建設する許可を得ますが、12月になって商館が商売敵のムスリムやヒンドゥー教徒に襲撃され、50名以上の死者を出します。カブラルは報復としてアラブ商船10隻を襲撃し、カリカットの市街地に艦砲射撃を行ってビビらせ、ナメたら殺すという毅然たる態度を示しました。ヴァスコと同じく砲艦外交を行ったわけです。

 カブラルは南の港町コーチン(コーチ)に移動して統治者と協定を結び、改めて商館設置の許可を得ました。この港は名目上カリカットに服属していましたが独立を望んでおり、ポルトガルはそこにつけこんだ形です。彼らはこの地で大量の香辛料を買いつけ(原産地なので驚くほど安く購入できました)、カリカットの北のカンヌールで追加取引を行ったのち、1501年1月に帰還を開始しました。帰路でも座礁や嵐に遭遇しますが、半年ののち7月にようやくリスボンに帰り着き、大歓迎を受けます。

 当初13隻あった艦隊は6隻が失われ、2隻は空荷となったものの、5隻の船に積まれた香辛料等の売却益は当時のポルトガル王室の歳費の8倍に迫り、艦隊の準備費用や損害を差し引いても余りあるほどでした。香辛料どころか黄金も大して得られなかったコロンブスとは大違いです。

新大陸地

 またポルトガルはカブラルが帰還する前、1501年5月にアメリゴ・ヴェスプッチを呼び寄せて大西洋の彼方へと派遣し、カブラルが発見した謎の陸地の沿岸を探索させています。彼はカブラルたちとカーボベルデ諸島で出会った後、大西洋を渡って8月にその陸地に到達し、天体観測を行って緯度や経度を確認しつつ、陸沿いに南下して行きました。1502年1月には狭い入り口を持つ大きな入江(グアナバラ湾)を発見し、ここを大河の河口とみなして「リオ・デ・ジャネイロ(1月の川)」と名付けました。

 彼らは最終的に嵐と寒さによって引き返さざるを得ませんでしたが、どこまでも陸地が続いていることを確認し、帰国後にアメリゴは「ここはおそらくアジアでない、新たな陸地(ムンドゥス・ノヴス/新大陸)である」と推測しました。ポルトガル王マヌエルはアメリゴの研究記録を没収して国家秘密としますが、これを受けてか「ヴェラクルス島」を「ヴェラクルスの地(テラ・ヴェラ・クルス)」と改名し、トルデシリャス条約での経度線から東は全てポルトガル領であると宣言しました。

 とはいえ、ヨーロッパ・アフリカ・アジア以外に大陸が存在するというのは当時の世界認識を揺るがす大事件で、すぐに納得されたわけではありません。特にコロンブスは「アジアだ、インドだ」と言い張って諦めず、「インド洋に繋がる海峡を発見し、地球を一周してみせる」と豪語して支援を取り付け、1502年5月に4度目の航海に挑戦します。ただしイスパニョーラ島に立ち寄ることは禁じられました。4隻からなる船団は貿易風に乗って21日で大西洋を横断し、6月15日にカリブ人の住むマルティニーク島に到達します。

 彼はこの島に上陸して水を積み込むと、禁令を破ってイスパニョーラ島のサント・ドミンゴに向かいますが、総督のボバディージャに入港を拒否されます。しかしボバディージャは30隻の船団を率いて出港したところをハリケーンに遭い、20隻の船および500人の乗組員とともに海に沈みました。人々は「コロンブスの呪いだ」と恐れたといいます。コロンブスらは別の場所に停泊していて難を逃れますが、イスパニョーラ島には戻らず、ジャマイカやキューバを経て西へ向かいました。

 7月末、彼らは新たな陸地を発見し、大きなカヌーに乗った先住民と遭遇しました。船には「カカワ(カカオ)」という植物の実が積まれており、興味を持ったコロンブスはいくつかを入手しています。ついで8月14日には大きな陸地に到達し、上陸しようとすると錨が海底に届かなかったので、そこをスペイン語で「オンドゥラ(hondura)」、すなわち「深い」と名付けました。現在のホンジュラスです。かつてはマヤ文明が栄えていましたが、9世紀から13世紀にかけて衰退し、都市遺跡はすでに密林に埋もれています。

 コロンブスは陸沿いに東へ向かい、南に転じてニカラグア、コスタリカの沿岸を進み、10月にパナマに到達します。

 パナマにはコロンブスより少し前、バスティダスというスペイン人が来ていました。彼はコロンブスとともに1493年に航海した後、独自にスペイン王室に取り入って探索航海のパトロンとし、1500年10月に2隻の船でカディスから出港します。彼はサント・ドミンゴから南下して新たな陸地(現コロンビアのグアヒーラ半島)を発見し、陸沿いに東へ進んでパナマに到達しましたが、フナクイムシに船がやられて引き返したといいます。コロンブスは彼の報告に刺激されたのでしょう。

 コロンブスはパナマ各地を探索しますが海峡は見当たらず、黄金の装飾品を身に着けた先住民には遭遇したものの、その産地までは到達できませんでした。1503年4月、彼はパナマを離れ、キューバ沖で嵐に遭遇し、6月にジャマイカに漂着します。船が壊れていたため彼と230人の部下は孤立し、2人の船員と6人の先住民がカヌーでイスパニョーラ島を目指します。新総督セグラは彼らを救出するのを嫌がり、1504年6月に救出されるまで1年間、コロンブスはジャマイカに取り残されました。この間、コロンブスは必死で先住民に協力を呼びかけ、天文学の知識で月蝕を予言してみせたといいます。

 コロンブスは1504年11月にスペインへ戻りますが、長年の労苦で心身を痛めており、1506年5月に55歳で病死しました。彼の死後にドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーが出版した世界地図には、大西洋の彼方の陸地とアジアが別々のものとして描かれ、前者はコロンブスではなくアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって「アメリカ」と命名されています。スペインでは「インディアス」と呼び続けており、コロンブスにちなんだ「コロンビア」の名が現れるのは遥か後のことになります。

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◆古倫◆

◆比亜◆

 スペインが大西洋の彼方の地を探索する一方、ポルトガルは着々とインド洋へ進出して行きます。1502年にはヴァスコ・ダ・ガマが、1503年にはアルブケルケが、1505年にはアルメイダがインドへ派遣され、軍事力をもって航路上の国々を屈服させます。インド洋は艦砲射撃が飛び交う戦乱の時代へと突入するのです。

【続く】

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