見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣50

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 欧州西端の小国ポルトガルは、長年に渡り蓄積された航海技術と知識、資金力によって15世紀にはアフリカ大陸西岸へ探検船団を派遣し、ついにサハラの南との交易路を開拓して、莫大な黄金や象牙・奴隷・香辛料などを獲得します。ポルトガル海上帝国の始まりです。

◆Day◆

◆O◆

阿弗利王

 1460年にエンリケ航海王子が逝去した時、甥のポルトガル王アフォンソ5世は28歳でした。1438年に6歳で即位した彼は、叔父のコインブラ公ペドロを退けて異母兄のブラガンサ公アフォンソを重んじ、1449年にはアフォンソに逆らったペドロを誅殺しています。1458年にはセウタとタンジェの間の街アルカサル・セグルをモロッコから攻め取り、ジブラルタル海峡両岸における勢力を強めています。さらに1471年にはアシラー、タンジェを征服し、「アフリカの王(O Africano)」と称しました。

 正確に言えば、ポルトガルの君主はジョアン1世の頃から「ポルトガルとアルガルヴェの王」と称しています。アルガルヴェとはアラビア語「アル・ガルブ=アル・アンダルス(アンダルスの西部)」に由来する地名で、現ポルトガルの南端部を指し、イスラム教徒の王国がありました。ポルトガルはこれを征服したのちも自治を認め、同君連合の形式でこの地域を統治していたのです。エンリケ航海王子が拠点を置いたサグレスやラゴス港はこの地にあり、残留ムスリムやユダヤ人とも協力してアフリカ探索を進めました。アフリカなどの海外領土は「アルガルヴェに属する」とされています。

 1474年、カスティーリャ王エンリケ4世が崩御すると男児がおらず、エンリケの異母妹イサベルとエンリケの娘フアナの間で王位継承を巡る争いが生じました。イサベルもフアナも母はポルトガルの王族でしたが、イサベルは東のアラゴン=カタルーニャ王国に嫁いでおり、フアナはこれに対抗するため母方の叔父にあたるポルトガル王アフォンソ5世と婚約しました。

 アフォンソは2万の兵を率いてカスティーリャへ侵攻し王位を請求しますが、イサベル派に敗れて撤退し、1477年に講和してイサベルを女王と認めました。1479年に夫フェルナンドがアラゴン王位を継ぐと、アラゴンとカスティーリャは夫婦が共同統治者となる連合王国「ヒスパニア(エスパーニャ、スペイン)」となり、イベリア半島の大半が統一されます。フェルナンドはシチリア王位も受け継いでいたため、地中海西部における覇権も握ります。

 劣勢に追い込まれたアフォンソは1481年に崩御し、息子ジョアン2世が跡を継ぎます。彼は国政を牛耳るブラガンサ公やヴィゼウ公を粛清して王権を強化し、アフリカ西岸への進出を強化しました。1479年の条約で「カナリア諸島とその対岸はカスティーリャ王国に属する」ことになってはいますが、その他の大西洋の島々やアフリカ西岸の大部分に関してはポルトガルの領有権・貿易権が認められています。

 この頃、ポルトガル人はセネガルから西の黒人が居住する沿岸地帯を広く「ギニア(Guine)」と呼んでいました。これはベルベル語で「黒人」を意味するGhinawenがアラビア語に入ってGenewahとなり、さらにポルトガル語に入ったもので「黒人(Guineus)の土地」の意味です。ポルトガル人はここに入植地を築いて商品交易を行い、ギニア西部(現リベリア付近)を胡椒(正確にはギニアショウガ)が採れることから「胡椒海岸」、その東(現コートジボワール)を「象牙海岸」、その東(現ガーナ)を「黄金海岸」、さらに東(ナイジェリア等)を「奴隷海岸」と呼びました。

 1482年、ポルトガルの船団はコンゴ川の河口部に到達し、そこに存在した強大な現地人の国家コンゴ王国と対等の国交・交易関係を結んでいます。国王(マニ・コンゴ)のンジンガ・ンクウは彼らを歓迎し、1491年には自らカトリックの洗礼を受けてジョアンと名乗りました。ポルトガル人がもたらした富や銃火器は国王の権力を高め、代わりに大量の奴隷や象牙が輸出されました。アフリカの奴隷はこれら現地の勢力によってかき集められたのです。

西廻航路

 この頃、リスボンのポルトガルの宮廷をクリストーフォロ・コロンボ(いわゆるコロンブス)というジェノヴァ出身の人物が訪れています。彼は1451年頃の生まれで、父ドメニコは毛織物業のほか小売業も営んでおり、裕福ではありませんでした。コロンブスは父の仕事を手伝って船乗りとなり、1477年頃リスボンに移住し、航海士・商人・地図製作者として活動しました。

 彼は東はエーゲ海のヒオス島、北はアイスランド、西は妻フェリパの実家があるマデイラ諸島、南はギニアの黄金海岸まで赴き、言語・天文・地理・航海術に関する様々な知識を身につけました。リスボンではフィレンツェ出身のトスカネッリら天文地理学者と交流を持ち(直接の交流はなかったとも言いますが)、彼らの影響を受けて「大西洋を西に進めばインド東部につくはずだ」と考えるようになります。

 当時の欧州やイスラム世界の地理学において、大地が球体であることは古代ギリシア以来の常識でした。聖書にはそう書かれていないため論争はありましたし、地球が宇宙の中心にあって日月星辰はその周囲を回るのだ(天動説)と考えられてはいましたが、地球の大きさも2万7000ローマ・マイル(約4万km)とほぼ判明しています。また各地との交易や報告により、東方の彼方に「香料諸島」と呼ばれる香辛料の一大原産地や、ジパングという黄金を大量に産出する島国、カタイ(キタイ、チャイナ)という大帝国があるとの情報も入ってきていました。これらの地域と海路で直接に交易することができれば、莫大な富が手に入るはずです。

 西廻り航路の言い出しっぺらしいのは、フランス人の神学者ピエール・ダイイ(1351-1420年)です。彼は『世界の像(イマゴ・ムンディ)』という著書において「プトレマイオスの地理書によれば、ヒスパニアからチャイナまでは数日の航海で到達するはずだ」と書いており、トスカネッリやコロンブスはこれを真に受けたようです。

 1474年、トスカネッリは友人の司教マルティンスに「西廻り航路で香料諸島やアジアに到達できる」とする詳細な手紙を送っており、マルティンスはポルトガル国王アフォンソ5世にこれを献上しています。1482年にトスカネッリが亡くなった後、コロンブスは1483-84年頃にポルトガル国王ジョアン2世に謁見し、西廻り航路での航海のための資金援助を求めました。トスカネッリは研究の末に「カナリア諸島からジパングまでは3000海里(5500km)である」と主張しましたが、コロンブスはさらに短く見積もり「2400海里(4440km)だ」と結論しました。実際は直線距離で1万600海里(2万km近く)もあり、当時の学者たちからも「現実的でない」と否定されています。

 1491年に現存する世界最古の地球儀を作成した(それ以前にも地球儀は存在しましたが)ドイツ出身の地理学者ベハイムの地球儀では、トスカネッリやコロンブスの主張どおりカナリア諸島とジパングが近い位置にあるものとして描かれています。途中には「聖ブレンダンの島」や「アンティリア([アジア/インドの]手前の島)」という伝説上の島々もありますが。

画像2

 コロンブス以前にも西廻り航路でのアジア到達は試みられましたがすべて失敗しており、アフリカ探検はかなりの成果をあげていましたし、コロンブスの要求はあまりに過剰でした。ジョアン2世は「自費で航海するなら許可しよう」と答えましたが、コロンブスにはそんなカネもなく、借金さえ抱えている始末でした。妻も亡くして意気消沈したコロンブスは、1485年中頃にポルトガルを立ち去り、ポルトガルのライバルであるスペインに売り込みをかけることにしました。

 コロンブスはツテを辿って修道院長や公爵たちに謁見し、メディナセリ公は数隻の船や食糧など3000-4000ドゥカート(1ドゥカート12万円として3.6億-4.8億円)相当の物資を出すことに同意します。ただ「このような計画は王室に許可を得なければ」としてカスティーリャ女王イサベルに報告したところ、女王は興味を持ち、1486年5月に夫とともにコルドバでコロンブスを引見しました。しかし諮問委員会では「現実的でない」との意見が根強く、なかなか結論は出ませんでした。

到喜望峰

 そうこうするうち、1488年にポルトガルの探索船団を率いたバルトロメウ・ディアスが、エチオピアへの航海の途中でアフリカ大陸南端アグラス岬(Cabo das Agulhas、ポルトガル語で「針の岬」の意)を通過しました。彼は引き返す途中にとある岬で嵐に遭遇したため、そこを「嵐の岬(Cabo des Tormentas)」と名づけましたが、報告を聞いた国王は「アフリカの東側に出ればエチオピアやエジプト、アジアまではもう一息だ」と喜び、そこを「希望の岬(Cabo da Boa Esperança)」すなわち「喜望峰(英:Cape of Good Hope)」と改名させたといいます。

画像1

 地図を見ればわかりますが、喜望峰はアフリカ大陸の南端ではなく、その西にある鈎状のケープ半島の突端です。航海上では難所ですが、17世紀中頃にオランダによって半島の北側付け根に補給港(現ケープタウン)が建設され、欧州とアジアを結ぶ要衝となりました。

 スペイン王室やメディナセリ公はコロンブスにそれなりの金銭援助を行っていましたが、しびれを切らしたコロンブスはポルトガル国王に手紙を送ったり、弟バルトロメを英国やフランスに派遣して計画を宣伝したりしています。とはいえどこも資金難で賛同はされず、コロンブスは1491年にはスペインに見切りをつけられ、フランスへ行こうとしています。

 しかしこの頃、スペインはレコンキスタの最後の仕上げとして、イベリア半島南端に残るイスラム教国グラナダに侵攻していました。1482年に始まった征服戦争は10年続き、1492年1月にグラナダが陥落して終結します。同年4月、女王イサベルは夫フェルナンドを説き伏せ、ついにコロンブスの計画を国家事業として実行に移すことにします。世界史の大きな転換点です。

◆W◆

◆Goes Next◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。