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【つの版】ウマと人類史18・東胡烏桓

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 匈奴は漢との長年の抗争の末、弱体化と分裂を続け、その一部が南下して漢(後漢)に服属し、南匈奴となりました。残った北匈奴は次第に西へ移動し、東方から烏桓や鮮卑が進出して来ます。彼らはどのような連中だったのでしょうか。改めて見ていきましょう。

◆赤◆

◆山◆

烏桓習俗

800px-匈奴帝国

 烏桓と鮮卑は、冒頓単于に滅ぼされた東胡の末裔です。東胡とはチャイナからの呼び名で、烏桓や鮮卑の方が彼らの呼び名でしょう。烏桓は内モンゴル南東部の烏桓山(赤峰、紅山、モンゴル語:ウラーン・ハダ)を聖地として、シラムレン流域に割拠しました。のちの契丹の地です。鮮卑はその北方に割拠し、両者はおおむね同じ言語と文化を持っていたといいます。

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 彼らについては『三国志』魏志に烏丸鮮卑東夷伝があり、その注釈に用いられた魏晋代の王沈の『魏書』にも記述があります。のち『後漢書』が編纂されるとこれを参考にして烏桓鮮卑列伝が立てられました。まずは『魏書』の記述を見ていきましょう。

 魏書曰。烏丸者東胡也。漢初匈奴冒頓滅其國、餘類保烏丸山因以爲號焉。俗善騎射、隨水草放牧、居無常處、以穹廬爲宅、皆東向。日弋獵禽獸、食肉飲酪、以毛毳爲衣。貴少賤老。其性悍驁、怒則殺父兄、而終不害其母。以母有族類、父兄以己爲種、無復報者故也。
王沈の『魏書』にいう。烏丸は東胡である。漢初に匈奴の冒頓単于がその国を滅ぼし、残党が烏丸山を保ったのでそう号した。騎射に巧みで、水や牧草を追って遊牧を行い、定住地はない。穹廬(ゲル、パオ)を家とし、入口はみな東に向ける。若者が貴ばれ、老人は賤しめられる。その性格は乱暴で、腹を立てれば父や兄をも殺すが、母親には決して危害を加えない。なぜなら、母親には母方の一族がいるが、父や兄は自分と同族で、彼らを殺しても報復をする者がいないからである。
 常推募勇健能理決鬥訟相侵犯者爲大人、邑落各有小帥、不世繼也。數百千落自爲一部、大人有所召呼、刻木爲信邑落傳行、無文字、而部衆莫敢違犯。氏姓無常、以大人健者名字爲姓。大人已下、各自畜牧治產、不相徭役。
 勇敢壮健で訴えや争いごとを裁いてゆける者を大人(族長)に選び、邑落ごとに小帥(下級の統率者)がいるが、世襲ではない。数百から数千の落(小集落)が集まって一つの部族となる。大人が人を集める時には、木に刻み目を入れて信(手紙)とし、邑落の間を回す。文字はないが、部族の民衆は決して違反することはない。定まった姓氏はなく、大人や勇者の名を姓とする。大人以下、それぞれに牧畜を仕事とし、徭役(土木工事)にかり出されることはない。

 匈奴と似た生活様式を持つ遊牧民です。『後漢書』には「食肉飲酪、以毛毳為衣(肉を食べ乳製品を飲み、毛皮を衣服とする)」ともあります。遊牧民はゲル1つを1家族(、5人ほど)としますが、これがいくつか集まって共同で生活するのがで、およそ20人ほどとされます。邑落は落が20ほど集まったもので400人ほど、は数百から数千落ですから、間をとって1000落とすれば2万人、4000戸、500邑落となります。1戸1騎として1部族から最大4000の騎兵を出せるわけです。

其嫁娶皆先私通略將女去、或半歲百日、然後遣媒人送馬牛羊以爲聘娶之禮。婿隨妻歸、見妻家無尊卑、旦起皆拜而不自拜其父母。爲妻家僕役二年、妻家乃厚遣送女、居處財物、一出妻家。故其俗從婦人計、至戰鬥時、乃自決之。
 彼らが結婚するときには、まずひそかに情を通じて女を奪い去ってゆく(略奪婚)。半年あるいは100日も経ってから、仲人をやって牛馬や羊を贈物として嫁取りの礼を行う。婿は妻の家に入り、妻の家の者には誰であろうと、朝ごとに拝礼を行う。しかし自分の父母を拝礼することはない。妻の家のために下男の仕事を1-2年間すると、妻の家のほうで手厚い贈物をして娘を送り出す。住居や品物は、すべて妻の家が整える。こうしたことから彼らの習わしとして、おおかたのことが婦人の指図で決められるが、ただ戦闘に関することだけは、男たち自らが決定を下す。
 父子男女、相對蹲踞、悉髡頭以爲輕便。婦人至嫁時乃養發、分爲髻、著句決、飾以金碧、猶中國有冠步搖也。父兄死、妻後母執嫂。若無執嫂者、則己子以親之次妻伯叔焉、死則歸其故夫。
 父と子、男と女が、向かい合って立てひざで座る(蹲踞)。みな頭を剃っていて、この方が軽くて便利だという。婦人は嫁入りするときになれば髪をたくわえはじめ、分けて髻(もとどり)に作り、そこに句決(帽子)をつけて金や碧玉で飾る。チャイナの冠に歩くと揺れる飾りがあるのに似ている。父や兄が死ぬと、その妻を自分の妻とする(レビラト婚)。亡夫に弟がなく娶ってもらえぬ寡婦は、自分の子供に夫の後を継がせ、自分は伯父/叔父の次妻となる。彼女が死ねば、元の夫と一緒に葬られる。

 妻が夫の家に入るのではなく、夫が妻の家に入る婿入り婚です。烏桓では割と女性の立場が強いようです。また匈奴と同じくレビラト婚を行います。

 俗識鳥獸孕乳時以四節、耕種常用布穀鳴爲候。地宜青穄、東牆。東牆似蓬草、實如葵子、至十月熟。能作白酒而不知作麹蘖。米常仰中國。大人能作弓矢鞍勒、鍛金鐵爲兵器、能刺韋作文繡、織縷氈毼。有病知以艾灸。或燒石自熨、燒地臥上、或隨痛病處、以刀決脈出血、及祝天地山川之神。無針藥。
 鳥獣の繁殖の時期をよく知っていて、それによって四季を区別する。その土地は青穄や東牆の成育に適している。東牆はヨモギのような草で、実は葵の種に似て、10月に実る。白酒を作るが麹を作ることは知らない。米は常にチャイナからの供給に頼っている。大人たちは弓矢や鞍・勒(くつわ)を作り、鉄を鍛造して兵器を作る。また皮にきれいな刺繍をし、毛氈・絨毯を織る。病気になると艾(もぐさ)でお灸をすることを知っている。あるいは焼いた石を患部に押し当て、火を焚いて暖めた土の上に寝転がり、あるいは痛みのある部分を小刀で血管を切って瀉血する。また天地山川の神々に病気の平癒を祈願する。鍼(はり)や薬はない。

 遊牧民とはいえ粗放な農耕も行っており、コメを輸入して酒を作ったりもしているようです。青穄や東牆は雑穀のたぐいです。この地域の雑穀としては高粱(コーリャン、モロコシ)が有名ですが、これがチャイナに入るのは950年頃とされ、この時代にはありません。穄は「粘り気のないキビ」を表し、そうしたものでしょう。雑穀栽培は考古学的にも確認されています。

 貴兵死。斂屍有棺。始死則哭、葬則歌舞相送。肥養犬、以采繩嬰牽、並取亡者所乘馬、衣物、生時服飾、皆燒以送之。特屬累犬、使護死者神靈歸乎赤山。赤山在遼東西北數千里、如中國人以死之魂神歸泰山也。
 戦闘で死ぬことが貴ばれ、屍体を納めるのに棺が用いられる。死んだ当初は哭泣するが、葬儀のときには歌舞によって死者を送り出す。充分に肥らせておいた犬を彩りのある綱でつないで、死者の乗馬や衣服、生前の装飾品と一緒にまとめ、火をかける。特にその犬は、死者の神霊(魂)を護って、聖地である赤山(烏桓山)まで導いてゆく役目を負わされている。赤山は遼東郡(遼陽市)の西北数千里(1/5して1000里=434km)の所にあり、ちょうどチャイナの人が死ねば魂が泰山に帰っていくのと同じである。

 遼陽市から赤峰市までは、だいたい400kmあまりあります。魏晋代の史書では、長城の外の里数が5倍程度に誇張されていることが多く、これもそのたぐいでしょう。「邪馬台国への旅」で散々やりましたね。

 至葬日、夜聚親舊員坐、牽犬馬曆位、或歌哭者、擲肉與之。使二人口頌咒文、使死者魂神徑至、歷險阻、勿令橫鬼遮護、達其赤山。然後殺犬馬衣物燒之。敬鬼神、祠天地日月星辰山川、及先大人有健名者、亦同祠以牛羊。祠畢皆燒之。飲食必先祭。
 葬儀の日には、夜になると親族や古なじみが集まって車座になり、犬と馬を引いて順番にその座を回る。歌ったり哭いたりしている者たちは、犬に肉を投げてやる。また二人の者に呪文を唱えさせ、死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通り抜け、悪い精霊たちに邪魔をされず、無事に赤山に行きつけるようにする。それが終わると犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。彼らは鬼神を敬い、天地や日月星辰や山川を祭り、死んだ大人のうちで武勇に誉れ高い者にも、同様に牛羊を捧げて祭る。祭りが終わると、捧げものは全て焼いてしまう。飲食をする前には必ず祭礼を行う。
其約法、違大人言死、盜不止死。其相殘殺、令都落自相報、相報不止、詣大人平之、有罪者出其牛羊以贖死命乃止。自殺其父兄無罪。其亡叛爲大人所捕者、諸邑落不肯受、皆逐使至雍狂地。地無山有沙漠、流水草木多蝮蛇、在丁令之西南、烏孫之東北、以窮困之。
 掟として、大人の命令に背いた者は死刑、盗みを止めない者は死刑の2条がある。殺人が起こったときには、部落の間で報復を行わせる。互いに報復し合ってやまない時には、大人のもとに出て判決を受ける。有罪とされたものは自分の牛や羊を出して生命を贖い、報復を止める。自分自身の父や兄を殺したときには罪にならない。逃亡して大人に捕えられた者は、どこの邑落もその身柄を引き受けようとはせず、みんなして「雍狂の地」に追いやってしまう。雍狂の地というのは、山はなく、沙漠と流水(流砂)と草木が生えるばかりで、蝮(マムシ)が多く、丁令の西南、烏孫の東北に当たる。そこに追いやって苦しめるのである。

 丁令はバイカル湖付近、烏孫はキルギスのあたりですから、モンゴル高原西部からジュンガル盆地のあたりになりますが、このへんで沙漠というとウルムチの北に広がるグルバンテュンギュト砂漠でしょうか。烏桓からは遠く離れていますが、交通は繋がっていたと思われます。

烏桓歴史

 さて、このような烏桓はどのような歴史をたどったのでしょうか。王沈の『魏書』の記述をさらに読んでいきましょう。

 自其先爲匈奴所破之後人衆孤弱、爲匈奴臣服、常歲輸牛馬羊、過時不具、輒虜其妻子。至匈奴壹(壷)衍鞮單于時、烏丸轉強、發掘匈奴單于塚、將以報冒頓所破之恥。壹衍鞮單于大怒、發二萬騎以擊烏丸。大將軍霍光聞之、遣度遼將軍范明友、將三萬騎出遼東追擊匈奴。比明友兵至、匈奴已引去。烏丸新被匈奴兵、乘其衰弊、遂進擊烏丸、斬首六千餘級、獲三王首還。後數復犯塞、明友輒征破之。
 初めは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛馬や羊を貢いでいた。定めの時期を過ぎてもその数が揃わないときには、妻子が匈奴に連れ去られた。匈奴の壺衍鞮単于(在位:前85-前68)の時代になると、烏桓は転じて強くなり、匈奴の単于の墓を暴いて、冒頓単于に破られた時の恥に報復した。単于は激怒し、2万騎を発して烏桓に攻撃をかけた。漢の大将軍・霍光はこの情報を得ると、度遼将軍の范明友を送り、3万の騎兵を率いて遼東郡から出陣させ、匈奴を追撃させた。しかし到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後で、烏桓は匈奴の兵から手痛い目を受けていた。范明友はこれ乗じて烏桓に攻撃をかけ、6000余りの首級を上げ、3人の王の首を取って帰還した。その後も烏桓は幾度か長城地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。

 これについては前回見ました。また『後漢書』によると武帝の時代、霍去病が烏桓を上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の5郡の長城の外へ遷し、匈奴を監視させました。その大人(族長)は毎年朝見させ、新たに護烏桓校尉を設置し、匈奴との交通をできなくしたといいます。しかし後漢の初めには、もはや護烏桓校尉は置かれておらず、再設置したとあります。

 至王莽末、並與匈奴爲寇。光武定天下、遣伏波將軍馬援將三千騎、從五原關出塞征之、無利而殺馬千餘匹。烏丸遂盛、鈔擊匈奴、匈奴轉徙千里、漠南地空。
 王莽の末に至って、烏丸は匈奴とともに掠奪を行った。光武帝は天下を定めると伏波将軍の馬援を派遣し、3000騎を率いて五原関から長城の外へ出征させたが、勝利を得られず馬千余匹が殺された(西暦45年)。烏丸はついに盛んとなり、匈奴を攻撃して掠奪し、匈奴は千里(434km)も退いて、漠南(ゴビの南)の地は空になった。

『漢書』匈奴伝下によると、王莽が漢の実権を握った頃、匈奴に対して烏桓など諸国からの亡命者を受け入れることを禁止し、烏桓に対しては護烏桓使者を遣わして、匈奴への皮布税を免除しました。匈奴は怒って烏桓と争い、烏桓を再び服属させました。王莽は軍を派遣して匈奴を攻めようとし、烏桓を協力させようと代郡に呼び寄せましたが、烏桓の妻子を人質にしたため腹を立て、逃亡して匈奴に従ったといいます。

 ただこの頃、河北の辺境では多くの烏桓が騎兵として雇われており、漁陽郡・上谷郡の烏桓らは光武帝配下の武将に従って戦いました。しかし長城の近くには多くの烏桓が住み着き、代郡以東を匈奴とともに荒らし、人畜を掠奪しています。光武帝は西暦45年に名将の馬援に命じて烏桓を討伐させましたが返り討ちに遭い、翌年烏桓が匈奴を漠南から駆逐すると、金品を烏桓へ贈って手柄を讃えました。宥和政策で手懐けようとしたわけです。

 建武二十五年、烏丸大人郝旦等九千餘人率衆詣闕、封其渠帥爲侯王者八十餘人。使居塞內、布列遼東屬國、遼西、右北平、漁陽、廣陽、上穀、代郡、雁門、太原、朔方諸郡界、招來種人、給其衣食。置校尉以領護之、遂爲漢偵備、擊匈奴、鮮卑。
 建武25年(西暦49年)、烏桓大人の赫旦ら9000余人が朝見し、漢は渠帥(族長)80余人を諸侯王に封じた。また彼らを塞(長城)の内側、遼東属国(遼寧省義県)・遼西(義県)・右北平(唐山市)・漁陽(密雲県)・広陽(北京)・上谷(北京)・代郡(張家口市蔚県)・雁門(朔州市)・太原(太原市)・朔方(オルドス市)の十郡の国境付近に住まわせ、同族らを招来させて衣食を支給した。そして護烏桓校尉を設置して彼らを監督させ、漢の偵察と警備を担わせ、匈奴や鮮卑を攻撃させる援軍とした。

 烏桓に対する宥和政策は功を奏し、前年の南匈奴と同様に国境地帯へ移住させ、支援と引き換えに国防を担わせることに成功しました。チャイナは相次ぐ戦乱で疲弊していたため、こうした軍事力のアウトソーシングは必要でした。護烏桓校尉は上谷郡の寧城(張家口市懐来県)に駐屯し、烏桓や鮮卑の友好部族を治め、人質の世話や賞罰、貢納や交易の事を司りました。光武帝の崩御の後、明帝、章帝、和帝の三代(西暦58-105年)には無事に長城を保ちましたが、たまには反乱も起きています。

 至永平中、漁陽烏丸大人欽志賁帥種人叛、鮮卑還爲寇害。遼東太守祭肜募殺志賁、遂破其衆。至安帝時、漁陽、右北平、雁門烏丸率衆王無何等、復與鮮卑、匈奴合、鈔略代郡、上穀、涿郡、五原。乃以大司農何熙行車騎將軍、左右羽林五營士、發緣邊七郡黎陽營兵合二萬人擊之。匈奴降、鮮卑、烏丸各還塞外。是後、烏丸稍復親附、拜其大人戎末廆爲都尉。至順帝時、戎末廆率將王侯咄歸、去延等、從烏丸校尉耿曄出塞擊鮮卑有功、還皆拜爲率衆王、賜束帛。
 永平年間(58-75年)、漁陽の烏桓大人の欽志賁が部族を率いて反乱し、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めた。遼東太守の祭肜は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、一味を打ち破った。安帝の時(106-125、後漢書安帝紀によれば永初3年=西暦109年)、漁陽・右北平・雁門の烏桓率衆王の無何らは、鮮卑や匈奴(南匈奴)と連合して各地を掠奪した。漢は大司農の何熙に車騎将軍を兼任させ、近衛兵をその旗下につけ、辺境七郡と黎陽営の兵士らを動員し、計2万の軍で攻撃させた。南匈奴は降伏し、鮮卑と烏桓は長城の外へ引き揚げていった。烏桓は再び漢に従属したので、その大人の戎末廆を都尉に任じた。順帝の時(125-144)、戎末廆はその王侯の咄帰や去延らを率い、護烏桓校尉の耿曄に従って長城を出て、鮮卑を攻めて手柄を立てた。帰還するとそれぞれ率衆王の位を与えられ、絹を賜った。

この後『後漢書』では西暦135年、140年、155-158年、166年に烏桓の反乱が記録されています。この頃、鮮卑には檀石槐という英雄が現れてモンゴル高原を統一し、かつての匈奴に匹敵する大国を築いて漢と対峙することになります。次回は鮮卑について見ていきましょう。

◆喉◆

◆歌◆

【続く】

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