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【つの版】ウマと人類史:近世編15・秀吉侵攻

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1589年、ヌルハチは明朝の将軍・李成梁の支援を得て建州女直を統一し、マンジュ・グルン(マンジュ国)を建国しました。女直族全体を統一したわけではなく、近隣には海西女直が健在ですし、明朝も統一させまいと分断工作を仕掛けます。しかしこの頃、思わぬ勢力がやってきたのです。

◆太閤◆

◆立志◆

豊臣秀吉

 1582年6月、日本では本能寺の変が発生し、織田信長が明智光秀によって倒されました。信長の家臣であった羽柴秀吉は、これを聞くや西の毛利攻めの戦場から取って返し、光秀を討滅して畿内を掌握します。さらに信長の嫡長孫とはいえ僅か3歳の三法師(織田秀信)を織田家当主に擁立し、柴田勝家ら対立者を倒して実権を握ります。秀吉は織田政権を受け継ぎつつ拡大させ、1585年に朝廷から関白に任じられ、翌年「豊臣」の姓と太政大臣の位を賜ります。1587年には九州、1590年には関東、1591年には奥羽を平定し、名実ともに天下統一を成し遂げた秀吉は、海外遠征を目論みます。

 現存する書簡などによれば、彼は九州討伐頃から高麗(朝鮮)や琉球への遠征を計画しており、さらには唐国/明国・天竺・南蛮までも討伐して征服しようとしていました。海外からは盛んに南蛮人(ヨーロッパ人)が来て世界地図や地球儀を見せ、異国のことを伝えていた時代ですし、信長はともかく秀吉が「俺にもできる」と考えたとしても不思議はありません。ただ、近年の研究では「本気ではなかったのではないか」とも言われています。

 秀吉は、対馬を古くから統治していたそうに朝鮮との交渉を命じました。宗氏は朝鮮との貿易を掌握して栄えていたものの、朝鮮は建国以来明朝の属国として冊封関係にあり、天皇ですらない秀吉に服属しろといわれる筋合いはありません。また宗氏は貿易のため朝鮮に名目上服属しており、倭寇を防ぐ見返りとして朝鮮から米100石を毎年下賜されていましたが、日本に対しては「朝鮮が毎年米を貢いでくる」と喧伝していたといいます。

 宗氏は朝鮮に使者を派遣し、新たな日本国王・秀吉に祝賀の使者を送るよう説きますが、朝鮮側は困惑して使者を派遣しませんでした。再三の要請により、1590年にようやく朝鮮からの使者が秀吉のもとを訪れますが、秀吉は「わしは明国を征服しようと思う。朝鮮はその先導をせよ」との書簡を持たせたので、使者は驚愕動転します。朝鮮はますます困惑し、議論の末に「明朝は我が君父である」として要求を拒みました。

文禄之役

 1591年、秀吉は明国遠征の準備を進め、九州北部に全国から大軍を召集します。1592年(天正20年/明の万暦20年壬申)4月、日本軍は対馬を経て朝鮮の釜山へ攻め込みました。日本では同年12月に文禄と改元されたため、これを文禄の役と言います。朝鮮では干支から壬辰倭乱といい、明朝では(万暦の)朝鮮役と呼びます。秀吉は肥前名護屋城にとどまり、諸大名が道固めをするのを待ちました。

 朝鮮軍は日本軍に散々に打ち破られ、各地で民衆の反乱も勃発します。朝鮮王の李昖(宣祖)は慌てて首都漢城(ソウル)を放棄し、まもなく小西行長・加藤清正率いる日本軍が漢城に入城しました。彼らは手分けして朝鮮各地を平定し、開城や平壌も陥落します。朝鮮王は鴨緑江の東岸の義州まで逃れ、宗主国たる明朝に救援を要請しました。

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 7-8月には清正軍が咸鏡道を制圧、豆満江を渡って「オランカイ(女直族)」の地に侵攻しています。清正はオランカイを通って明朝を攻めようとしますが、情報を集めた結果遠くて無理だと判断し、朝鮮側へ撤退しました。この頃ヌルハチは海西女直と対立しており、勢力拡大を図って明朝と朝鮮に援軍の申し出を行いますが、両国から断られたといいます。

 7月、明朝は遼陽の副総兵・祖承訓を派遣して朝鮮を救援させますが、兵は5000に過ぎず、平壌奪還に失敗して逃げ帰ります。続いて沈惟敬が使節として派遣され、小西行長らと和平交渉を行い、8月末に50日間の休戦を結ぶことに成功しました。この間に明軍は兵力を整え、李成梁の子・李如松を防海禦倭総兵官に任命して日本軍討伐に向かわせます。この頃、李成梁は汚職の罪で罷免されていましたが、李如松は父の私兵を引き継ぎ有力で、1592年4月に寧夏で起きたモンゴル人ボハイの反乱を鎮圧したばかりでした。

 12月、李如松は弟の如柏・如梅らとともに4万余の兵を率いて鴨緑江を渡り、翌年正月には平壌・開城を奪還、小西行長ら日本軍は漢城まで撤退します。李如松率いる明軍は漢城まで迫りますが、碧蹄館の戦いで大敗を喫し、平壌まで撤退しました。やがて使者が往来し、講和することとなります。

日本国王

 1593年4月、行長らは漢城を明け渡して釜山まで撤退し、明朝の勅使とともに日本へ帰国しました。行長は「明国も朝鮮も服属しました」と報告し、秀吉は「明国の皇女を天皇の妃として送れ」「朝鮮八道のうち南の四道を割譲せよ」などと無茶な要求をしました。行長や沈惟敬らはこれを聞き流し、秀吉の降伏文書を捏造して明朝へ送りました。秀吉も明朝も戦争の実像がわからぬまま、事態をなんとか穏便に収めるため現場の判断で捏造されたフェイクニュースが互いに飛び交っていた……というのは、後世の俗説のようです。

 日本軍は朝鮮半島南部を制圧し、なお明軍と戦っていましたが、互いに手を出さず膠着状態となります。明朝は「秀吉という者が日本国を統一し、明朝に朝貢(勘合貿易)をしたいと願い、朝鮮を介して講和の使者を送ってきた」との報告を受け、議論の末に「朝貢は懐具合が厳しいから見送りとするが、彼を日本国王に封じ、順化王の称号を授ける」と決定されました。朝鮮と明の国境まで軍が迫ったのですから、ヌルハチ等と手を組めばアルタン・ハンの時めいて北京を脅かされかねませんが、幸い戦線は朝鮮南部まで下がり、秀吉はやむなく講和を申し入れて来たのだということになります。

明王贈豊太閤柵封文(秀吉清正記念館)

 1596年9月、明朝の勅使は「なんじを封じて日本国王となす」との国書と日本国王の金印等を携えて大坂城へやってきます。さあ大変、秀吉は国書を破り捨てて宣戦布告……と思いきや、島津氏や宣教師の記録によれば上機嫌で明朝の勅使を歓迎し、恭しく国書と金印を拝領し、下賜された衣装を披露したといいます。国書も現存しています。つまり、秀吉に明朝を征服する意図はなく、足利義満のように「日本国王」として冊封され、国際的に政権が承認されることが真の目的だった、らしいのです。そう書くと日本国の(特に朝廷の)メンツが立ちませんから、後世には「行長たちの現場判断だ!秀吉は大いに怒って国書を破り捨てた!」と書き残されたのでしょう。行長らはのちに関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れて捕縛・斬首されていますから、家康が彼(暗に豊臣政権)に戦争責任を押し付けたようでもあります。

 だいたい明朝も、いかに衰えたりとはいえ日本側の状況にそれほど疎いはずもありませんし、秀吉も情報をしっかり集め日本を統一した天下人です。しかし日本軍も戦国乱世の武将や大名ですから、「秀吉は明国に勝てずに講和し、喜んで冊封を受けた」と喧伝されれば、国内外でナメられます。また海外遠征では出費ばかりで土地も得られず、戦利品はあったとしても遠征費用に見合うほどでもありません。1597年(慶長2年丁酉)、朝鮮への再出兵が秀吉から諸将に告知され、慶長の役/丁酉倭乱が始まります。

慶長之役

 釜山を含む慶尚道は日本軍がほぼ制圧し、拠点化していましたから、今回の主要な作戦目標は西の全羅道と忠清道です。日本軍は海でも陸でも破竹の勢いで進撃し、迎撃に出た明・朝鮮連合軍を打ち破って漢城に迫りますが、深入りはせず南岸部に撤収して城郭群を建設し始めます。日本側も相次ぐ大遠征に疲弊しており、城が完成したら防衛部隊を残して撤退する予定だったといいます。しかし1598年8月に秀吉が死去し、跡を継いだ秀頼を輔佐する五大老・五奉行らにより10月に撤退命令が出されます。この情報をキャッチした明・朝鮮軍は、撤退する日本軍を撃滅すべく海軍を派遣します。

 この戦いで日本軍はやや苦戦し損害を被ったものの、予定通りに撤収しました。明軍・朝鮮軍は手柄を誇張して報告していますが、明軍の副将の鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣などが戦死しています。朝鮮王は李舜臣を祖国防衛の忠臣と讃えて忠武公の諡号を贈り、後世に英雄として尊崇を集めましたが、その功績はどうも誇張されているようです。

 日本軍は撤退しましたが、この大戦争で朝鮮は荒廃し、明朝も莫大な軍事費を投入して国庫を傾けます。日本では遠征に参加しなかった関東の徳川家康が勢力を伸ばし、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら反徳川派に勝利、秀頼を凌ぐほどの権力を手にしました。こうした国際情勢の中、ヌルハチはマンジュ国王として勢力を伸ばしていくことになります。

◆猿猴◆

◆魔術◆

【続く】

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