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【つの版】ウマと人類史:中世編28・旭烈西征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1251年、モンゴル帝国第四代皇帝に即位したモンケは、弟のクビライをゴビ以南の総督、フレグをアム川以南の総督に任命し、東アジアと西アジアに対する大遠征を開始させました。クビライはまず雲南の大理国を服属させ、モンケとともに南宋を討伐します。一方フレグはイラン高原から西、イラクやシリアへ向かいました。彼の遠征の様子を見てみましょう。

◆進撃◆

◆巨人◆

旭烈西征

 フレグはチンギス・カンの末子トゥルイと正妃ソルコクタニ・ベキの子であり、モンケとクビライの弟、アリクブケの兄にあたります。1218年生まれですから、チンギス崩御時は9歳、父の逝去時は14歳、モンケの即位した年には33歳です。妃ドクズはケレイト王トオリルの孫娘で、先祖代々ネストリウス派キリスト教徒であり、フレグの子らもキリスト教徒でした。

 彼は祖父から7000戸ほどの領民を賜与されていましたが、トゥルイはオゴデイに財産・領国の多くを譲渡したため、勢力は大きくありませんでした。そこでモンケは弟たちに新たな領国を授け、トゥルイ家の勢力を広げようとします。彼は帝国をモンゴル本土、キタイ/漢地、中央アジア/トルキスタン、アム川以南のイラン、ジョチ・ウルス/キプチャク草原に大きく分け、中央アジアの統治をウイグル人の文官ヤラワチとその子マスウード・ベクに委ね、キタイをクビライ、イランをフレグに任せました。

 チンギス・カンの西征によって、イラン東部のホラーサーン地方、カスピ海南部のマーザンダラーン地方はおおむねモンゴル領となり、オゴデイの時代にはイラン総督府とイラン方面軍が設置されていました。オゴデイの崩御後、イラン総督にはアルグン・アカが任命されていますが、モンケは1252年にカラコルムで彼と会見して留任を認め、フレグの指揮下に入るよう命令しました。一方でグユクが任命していたイラン方面軍総司令のイルチギタイは粛清され、前任者のバイジュが返り咲き、フレグの指揮下でイラン方面軍を統率することになります。

 1253年8月、フラグ率いる遠征軍はモンゴル高原を出発し、中央アジアに向かいます。しかし1254年、カラコルムでモンケ暗殺未遂事件が発生し、そのゴタゴタのせいかフラグ軍は非常にゆっくりと進みました。1255年にようやくサマルカンドに入り、キシュ(シャフリサブズ)でアルグン・アカの出迎えを受け、攻撃目標をイラン北西部のアラムートと宣言します。

 ここにはイスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派の、そのまた分派であるニザール派が本山を構えていました。イスマーイール派はエジプトとシリアを支配していたファーティマ朝の国教でしたが、ニザール派は11世紀末にそこから別れ、シリアやイラン高原に教団を築きました。彼らはスンニ派を奉じるセルジューク朝に抵抗してアルボルズ山脈の各地に堅固な砦を構え、暗殺者を各地に派遣して恐れられました。いわゆる「暗殺教団」ですが、支配領域はそれなりに平和を保ち、経済や文化も栄えています。

 セルジューク朝が衰えホラズム・シャー朝が勢力を伸ばすと、ニザール派は生き残るための方便としてスンニ派の教主たるアッバース朝と手を結び、ホラズム・シャー朝を滅ぼしたモンゴル帝国とも友好関係を結びます。しかし教主ムハンマド3世の晩年には幹部たちの間で跡継ぎを巡る争いが起き、モンゴルに逆らって独立を勝ち取るべしという過激派も現れます。1254年にモンケを暗殺しようとしたのはその一派ともされ、怒ったモンケはニザール派を懲罰せよとフレグに命じたというわけです。

 1255年末、ムハンマド3世が逝去して長男ルクヌッディーン・フルシャーが跡を継ぐと、モンゴルと和平を結ぼうと盛んに外交交渉を行いますが、フレグは彼と駆け引きしつつ軍を進め、1256年4月にアム川を渡ってニザール派の領地へ侵攻します。堅固な山城に籠もるニザール派は手強く、モンゴル軍は攻城兵器や工作員を駆使して攻め立てます。11月、マイムーン砦を包囲されたフルシャーは身の安全の保障を条件に降伏し、残った城砦群も次第にモンゴルへ降りました。フルシャーは1257年に帝都カラコルムへ送られましたが、モンケの命令によって絞殺され、一族郎党も皆殺しにされています。

 フレグのもとにはモンゴル帝国直属のイラン方面軍に加え、イラン高原南部のケルマーン・カラキタイ朝、ファールス地方のサルグル朝、ロレスターンやモースルの地方政権、ルーム・セルジューク朝、キリキア・アルメニア王国、ジョージアなど周辺諸国が服属して参陣し、カシミール地方に派遣されていたモンゴル軍も幕下に加わり、総勢10万を超える大軍となりました。次の目標は、バグダードに細々と残っていたアッバース朝です。

博達陥落

 西暦750年、ウマイヤ朝を滅ぼして成立したアッバース朝は、イスラム世界の盟主として500年に渡り存続していました。しかし9世紀以後は各地で反乱や自立の動きが強まり、西方ではカリフを称する政権も現れ、アッバース朝カリフは名目的なものとなっていきます。それでも宗教的権威は根強く、ブワイフ朝やセルジューク朝、ホラズム・シャー朝もその権威を後ろ盾として権力を振るいました。西欧の教皇、日本の天皇めいています。

 1180年に即位したカリフ・ナースィルは45年も在位し、アイユーブ朝やホラズム・シャー朝と結んでアッバース朝の権威と権力を相対的に回復させましたが、彼の曾孫ムスタアスィムはアホのボンボンで、娯楽や読書に耽るばかりで国政は重臣たちに委ねていました。1257年秋、ザグロス山脈の都市ハマダーンに入ったモンゴル軍はバグダードへ降伏勧告を行いますが、重臣たちは議論の末に抗戦を選択し、カリフはそれに従いました。

 フレグはハマダーンから西へ進み、各地へ分遣隊を送って制圧させつつ、1258年1月にチグリス川の東岸に到達しました。バイジュ、ブカ・テムル、スンジャクらは本隊に先んじてチグリス川を渡り、バグダードの西側に布陣して東西から攻め立てます。攻撃は1月29日に開始され、攻城兵器の投入や堤防を破壊しての水攻めが行われます。2月5日には城壁が破壊され、カリフは慌ててフレグと交渉しようとしますが却下されます。

 2月10日にアッバース朝は降伏し、モンゴル軍は勝者の権利として殺戮と掠奪、破壊の限りを尽くしました(被害は双方のプロパガンダにより誇張されたでしょうが)。カリフ・ムスタアスィムはフレグの前に引き出されて無能と無策を罵倒され、2月21日に処刑されます。モンゴルでは伝統的に貴人を処刑する時、その血を大地に流さぬよう絞殺するか、絨毯で身体を包んで多数の軍馬に踏み殺させる処刑法を行いますが、カリフは後者によって殺されました。彼の長男と次男も処刑され、幼少の三男は殺すに忍びないとフレグの妃に引き取られ、アゼルバイジャンの街マラーガに送られて余生を過ごしました。

 なお『元史』によると、この遠征には郭侃という漢人が従軍しています。彼は華州鄭県(陝西省渭南市)の人で、唐の名将・郭子儀の末裔といい、祖父の郭宝玉は金朝からモンゴルに降伏し、ムカリやチンギスのもとで活躍した将軍でした。郭侃は幼い時に父を亡くし、漢人世侯の史天澤に養育され、若くして金を平定するのに功績をあげました。1217年生まれですから、金が滅んだ1234年には17-18歳の若者です。1253年からフレグの西征に従軍し、ニザール派の諸城を攻撃して陥落・降伏させ、バグダードを包囲しました。

 西戎大國也、地方八千里、父子相傳四十二世、勝兵數十萬。侃兵至、破其兵七萬、屠西城。又破其東城。東城殿宇、皆搆以沉檀木、舉火焚之、香聞百里。得七十二弦琵琶、五尺珊瑚燈檠。兩城間有大河、侃預造浮梁以防其遁。城破、合里法算灘登舟、覩河有浮梁扼之、乃自縛詣軍門降。
 西戎(アッバース朝)は(もと)大国で、地は方8000里あり、父子相伝えて42世(ムスタアスィムは37代。ウマイヤ朝カリフを抜いてムハンマドと正統カリフを足したか)、すぐれた兵は数十万。郭侃の兵が至るや、その兵7万を打ち破り、(バグダードの)西城を屠り東城を破った。東城の宮殿はみな香木で、火を点けるとその香りが100里も漂った。また七十二弦の琵琶、五尺の珊瑚で作った燭台などを得た。二つの城の間には大河(チグリス)があり、郭侃はあらかじめ浮橋を作らせて敵の遁走を防いだ。城が陥落すると算灘(君主)の合里法(ハリーファ、カリフ)は舟に乗って逃げようとしたが、浮橋が川を塞いでいるのを見て諦め、自らを縛って軍門に降った。

 その後も西方遠征で活躍し、「東天将軍、神人なり」と敵に恐れられたとか、西の海を渡って富浪(フランク)を収めよと命じられ、「夢に神人を見たが将軍であったか」と言われて敵将が降ったとか、真偽の疑わしい伝説が記されています。むかし甘英がこの付近まで来てから千年あまり、漢人がモンゴルの将軍としてバグダードを攻める時代になったのです。

巨人之泉

 バグダードを陥落させてアッバース朝を滅ぼしたフレグは、イスラム教スンニ派からは悪の権化として喧伝されます。多くのムスリムも仕えていたものの、彼の妃や一族はネストリウス派キリスト教徒でしたから、イスラム教徒からすれば異教徒の軍勢です。世界の終末には地の果てから邪悪な巨人族(ゴグとマゴグ、ヤージュージュとマージュージュ)が現れるという伝説はユダヤ・キリスト・イスラムの伝承にありますから、先のバトゥの西征とともにそれになぞらえられ、終末が近いと信じられたでしょう。

 一方、フレグらはキリスト教徒を異教徒の支配から解放する救世主であると自ら喧伝し、フランクやアルメニア、ジョージアと手を結びます。バグダードの戦いではキリスト教徒の軍勢が活躍し、城内にいたキリスト教徒は助命されました。当時広まっていた長老ヨハネ伝説も利用され、フレグの母や妃は長老ヨハネの子孫であると語られたといいます。キリスト教徒たちはフレグをコンスタンティヌス大帝、妃ドクズを大帝の母ヘレナになぞらえて称賛しました。同じモンゴルのバトゥはキリスト教徒も殺戮していますが。

 1253年にカラコルムを訪れたフランスの修道士ルブルックは「ナイマン族の指導者をヨハネといい、ウンクという兄弟がいた」と記しています。これはカラキタイの帝位を簒奪したナイマン族の王子クチュルクと、ケレイト族の王トオリル/オン・カンの事と思われ、クチュルクを長老ヨハネと結びつけています。ナイマンもケレイトもネストリウス派キリスト教徒でしたが、クチュルクはカラキタイを簒奪したのち仏教に改宗しています。シリア正教会の大主教バル・ヘブラエウスはウンクを長老ヨハネと同一視して「異教に改宗し、ユダヤ教の国から妃を迎え、配下であるチンギス・カンの殺害を企てたが逆に殺された」と記しています。彼はフレグを称賛していますから、長老ヨハネよりフレグが素晴らしいとしたわけです。

 1259年8月、皇帝モンケは遠征先の重慶で崩御しました。訃報は漢地にいたクビライにはすぐ届いたものの、遥か西にいたフレグにはまだ伝わらず、遠征は続行されます。イラクの夏は猛暑のため、フレグらは涼しく遊牧に適したアゼルバイジャン地方(イラン北西部)に移動し、兵を休ませつつ周辺へ偵察隊を派遣しました。この頃バイジュは驕慢のため処刑されています。

 1260年初頭、フレグはアルメニア高原を西へ進み、ユーフラテス川を渡ってシリアへ攻め込みます。エジプトとシリアを支配していたアイユーブ朝は1250年にエジプトの本家が滅び、マムルークのアイバクがスルタンに即位してマムルーク朝を開いていました。1257年に彼が殺されると、後継者を巡って殺し合いが起き、1259年にクトゥズがスルタンとなっていました。アイユーブ朝の残党や反クトゥズ派はシリア各地に残存しており、モンゴル軍はこれらを接収しつつエジプトを目指します。ルーム・セルジューク朝やキリキア・アルメニア王国の軍勢、フランク人の諸勢力もこれに加わりました。

 1260年2月、モンゴル軍はアレッポを陥落させます。しかしこの頃フレグのもとにようやくモンケの訃報が届きました。フレグはやむなく撤退し、将軍キト・ブカにシリアとエジプト征服を委任してタブリーズへ戻りました。キト・ブカは4月にダマスカスを陥落させてアイユーブ朝の残党を滅ぼし、マムルーク朝へ降伏勧告を行い、拒絶されるとマムルーク朝領パレスチナへ侵攻を開始します。彼はナイマン族出身のキリスト教徒で、ベツレヘムに来た東方の三博士の末裔と称し、聖地奪還を旗印にしていたともいいます。

 マムルーク朝のスルタン・クトゥズは自ら軍勢を率いて北上します。この間、十字軍勢力の一派が無思慮にもモンゴルの支配地域であったベッカー高原を掠奪し、キト・ブカの甥を戦死させています。怒ったキト・ブカはシドンを攻撃し、アッコの十字軍勢力はマムルーク軍に宿営を許可しています。1260年9月、モンゴル軍1万はガリラヤ湖の南でヨルダン川を渡り、アイン・ジャールート(ゴリアテの泉)と呼ばれるガリラヤ地方の丘陵地でマムルーク朝軍と対峙しました。巨人ゴリアテと英雄ダビデの戦いです。近くにはメギドの丘もありますから、おおむねハルマゲドンですね。騎兵の数は流石に2億もいませんが。

 マムルーク軍を率いるのはクトゥズとバイバルスでした。ふたりともマムルークですから元奴隷で、クトゥズはホラズム・シャー朝の王族と自称していましたが、バイバルスはキプチャク(クマン)人で、14歳の時モンゴル軍の捕虜となって売り飛ばされた人物でした。バイ・バルスとはテュルク語で「虎(バルス)の族長(ベイ)」を意味する名であり、最初に彼を購入したアイユーブ朝の将軍からアル=ブンドゥクダーリー(弓兵)の名を授かりました。のちアイユーブ朝のスルタンに仕えて出世し、エジプトに攻めてきたルイ9世率いる十字軍を撃退するなど活躍します。マムルーク朝が成立すると危険視されて追放され、シリアを放浪したのちエジプトに舞い戻ったのです。つまり彼は騎馬遊牧民出身の歴戦の名将で、率いるマムルークも同様の精鋭騎兵ですから、寄せ集めのモンゴル軍には引けを取りません。

 まずバイバルスは精鋭の小部隊を率いて先鋒となり、攻めかかったのちに後退して、モンゴル軍を誘き寄せます。キト・ブカは挑発に乗って釣り出され、突出したところを包囲されて戦死し、モンゴル軍は総崩れになって撤退しました。バイバルスは追撃をかけてダマスカスなどシリア全土を奪還し、英雄としてカイロに凱旋します。10月にはクトゥズを暗殺してスルタンに即位し、1261年にはアッバース朝の最後のカリフ・ムスタアスィムの叔父アフマドをカリフに擁立してムスタンスィルと名乗らせ、カリフの権威のもとにイスラム世界の盟主となりました。以後アッバース朝カリフの座はエジプトに遷り、1517年にオスマン帝国によりマムルーク朝が滅ぼされるまで、権威の源泉として名目的に存続することになります。

 フレグの西征はシリアとパレスチナ、エジプトを征服できずに終わりましたが、彼は本国に帰って皇帝の座につくことを諦め、西アジアを支配する「フレグ・ウルス」の君主としてタブリーズに都を定めます。彼とその子孫はイルカン、すなわち「国民イル君主カン」という称号を持っていたため、この政権は19世紀の西洋史学において「イルカン/イルハンの家系」、イルハン朝と呼ばれることになりました。しかし当時は「フレグのウルス」と呼ばれており、この名で呼ぶ方が実情に合っています。

◆進撃◆

◆巨人◆

 さて、東方では皇帝モンケが崩御した後、弟クビライとアリクブケによる帝位争奪戦争が始まっていました。次回はそれを見ていきましょう。

【続く】

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