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【つの版】度量衡比較・貨幣18

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 イスラム世界では、7世紀末から金貨ディナール、銀貨ディルハム、銅貨ファルスが流通していました。しかし9世紀から10世紀にかけてイスラム世界が分裂していくと、各地で様々な貨幣が発行され、品質も低下していきます。こうした状況を解決したのは、モンゴル帝国による大征服でした。

◆蒙◆

◆古◆

銀貨流出

 9世紀末、マーワラーアンナフル(ソグディアナ、トランスオクシアナ)に勃興したサーマーン朝は、中央ユーラシアの中心にあって交易で栄えた大国でした。その版図では銀が豊富に産出し、ディルハム銀貨が盛んに鋳造されて交易に用いられ、大量の銀が流出します。西はアッバース朝の都バグダード、北西へはカスピ海北岸のハザール王国、東ローマやルーシ、中東欧や北欧へも銀貨が流れ、スカンディナビア半島からはこの時代に大量のディルハム銀貨が出土しています。ヴァイキングたちは海や河川に沿って交易や掠奪を行い、戦利品や捕虜とした奴隷を売り飛ばしました。

 また北や北東のテュルク系遊牧民、南のインドへも銀貨が流出し、次第に銀の産出量が枯渇していきます。10世紀中頃に南方ではサーマーン朝に仕えていたマムルークが離反してガズナ朝を起こし、北インドを征服して勢力を広げ、主筋のサーマーン朝を圧倒しますし、北東ではテュルク系のカラハン朝が興って侵略を行い、サーマーン朝は両勢力に挟み撃ちにされ滅亡しました。カラハン朝の東方では契丹(キタイ)がモンゴル高原を征服し、宋から絹20万疋、銀10万両を毎年贈られています。銅銭を贈られても重いわりに価値が少ないですが、絹や銀は少量でも西方に転売すれば価値があります。

 ディナール金貨も流通してはいますが、10世紀中頃からアフリカでの黄金の産出が減少し、シリア以東では金貨が少なくなります。エジプトの諸王朝や東ローマでは引き続き金貨が発行されています。

 11世紀になるとオグズ族のセルジューク朝が勃興し、カラハン朝・ガズナ朝の支配を打ち破ってマーワラーアンナフル・ホラーサーン・イラン高原を征服、バグダードに入城してカリフより「スルタン」の称号を賜ります。さらにアルメニア・アナトリア・シリアもセルジューク朝に征服され、広大な帝国となります。東ローマはアナトリアを奪われて財政悪化に陥り、長らく高純度を保っていたノミスマ/ソリドゥス金貨の品質が低下しています。

 12世紀にはセルジューク朝が崩壊し、各地に分家が乱立して争います。中央アジアには東方からキタイ(契丹)が移動してきてカラハン朝を征服し、シリアやパレスチナにはフランク人が乱入してきて攻め取り(十字軍)、イスラム世界は麻の如く乱れました。12世紀末にファーティマ朝に代わってエジプトを支配したアイユーブ朝では、銀不足によりディルハム銅貨が発行され、貨幣価値が変動して混乱が巻き起こっています。

紙幣出現

 1125年、東方で契丹遼朝を滅ぼしたのは女真族の金朝でしたが、宋は金と領土を巡るいざこざを起こし、華北全土を征服されて江南へ遷ります。1142年に両国の間で和議が結ばれ、宋は金の臣となり、毎年銀25万両と絹25万疋を貢納することになりました。宋と遼との間での条約より負担が重くなっていますが、1165年には両国関係が「金が叔父で宋が甥」にまで改善され、毎年の貢納ならぬ贈り物も銀20万両、絹20万疋に減じられています。

 この頃、チャイナではすでに紙幣が出現しています。早くも唐代には金銭や布帛を預かって手形を発行する「堰坊」というギルドがあり、手形そのものが現物と同じ価値を持つとして流通するようになります。これを飛銭・交子・会子・関子などと呼び、重たい銅銭をジャラジャラ運ぶよりはラクだというのでかなり普及しました。

 また五代十国の頃、蜀(四川)では銅の産出が乏しかったため鉄銭を発行しますが、銅銭より重いうえ価値は銅銭の1/10しかありませんでした。そこで蜀の都・成都では手形発行組合が形成され、鉄銭を預かってその証書を独占的に発行することを現地政府から認可されます。重たい鉄銭を持ち歩くより便利だというので、この手形(交子)は普及しました。

 1023年、宋は四川での交子流通に目をつけて国家事業とし、交子を国家公認の兌換紙幣として発行することにしました。兌換準備金として36万貫の銅銭が備えられ、発行限度額は125万余貫と定められます。有効期限(界)は発行から3年で、界ごとに新しい交子が発行されました。額面上1枚が1貫以上もの価値があり、銅銭を鋳造するより簡便で費用も少なく、通貨発行益が見込めます。また持ち運びにも便利であるとして交子は普及していきます。

 しかし財源として味を占めた宋朝は交子の発行額をどんどん増やし、1106年には2600万貫にも膨れ上がります。そのため交子の貨幣価値は暴落し、額面1貫でも銭10数文でしか取引できなくなり、兌換も停止されました。宋朝は1107年に交子の発行をやめ、銭引という新しい紙幣を発行しています。これも軍事費のため乱発されて価値が暴落し、南宋では会子という紙幣が地域ごとに発行されています。また茶引・塩引といった専売商品との交換手形も紙幣のように扱われました。使われなくなった銅銭は日本など周辺諸国へ流出し、金銀などの鉱物や木材などの輸入に用いられました。

 華北を征服した金でも、同種の紙幣として交鈔が発行されました。華北ではすでに銅銭の材料が枯渇しており、一時は山東地方の鉄を元手にした鉄銭が流通していたほどでしたが、金はこれをやめさせ、紙幣と銀を基軸通貨としています。使われなくなった鉄銭はモンゴル高原へ流出し、鉄の鏃や武器に打ち替えられてモンゴルの軍事力を増大させたといいます。また交鈔も乱発されてインフレを引き起こし、金の滅亡の要因のひとつになっています。

蒙古幣制

 1206年に高原を統一したモンゴル帝国は、それまでの遊牧民の諸帝国と同様に銀と絹を基軸通貨とし、ウイグルやムスリムの商人を財務官僚として重用しました。彼らが形成した共同出資組織をオルトク(トルコ語で「仲間」の意)といい、皇帝や有力者と癒着して、帝国財政を一手に担うことになります。彼らの支援もあり、西夏や天山ウイグル王国はモンゴルに服属し、金は黄河以北を剥ぎ取られ、カラキタイ(西遼)帝国やホラズム・シャー朝も粉砕されて、モンゴルはたちまち東方における最強国となります。

 河北を奪ったモンゴルは、金の制度を引き継いで交鈔を発行し、有効期限を廃止して銅銭に代わる低額通貨(額面は10文から2貫文まで)とします。中央政府への納税や対外貿易には国際通貨として銀と絹が用いられ、貴金属の私的な取引を禁じて中央政府に金銀が集まる仕組みを作り、これをオルトクや王侯貴族にバラ撒いて環流するようにさせました。チャイナの豊富な銀はこれによってイスラム世界へ流れ出し、銀不足は解消していきます。

 銀は秤量貨幣として1両(37.3g)から50両(1865g、約2kg)までの単位に分けられ、延べ棒状態のものは銀鋌、当時の錠前に似たものは銀錠(明治期日本では馬蹄銀)と呼ばれました。最大級の50両のものはその形状からモンゴル語でスケ(斧)、ウイグル語でヤストゥク(枕)、ペルシア語でバーリシュ(枕)と呼ばれています。重さ2kg弱の巨大な銀貨です。この50両のものを特に錠(ディン)と呼ぶこともあります。

元至元十四年五十两银锭

 当時の物価や労賃などを鑑みるに、銭/交鈔1貫=銀1両=絹1疋=米1石≒現代日本の5万円に相当します。銭1文は50円です。銀錠(ディン、スケ)1つが50両=250万円にもなります。持ち歩くには不便ですが、これ1個あればどこでも不自由なく暮らせたでしょう。

 1230年のモンゴル領キタイ(漢地、山西・山東・河北)の推計税収は銀換算して100万両(500億円)で、うち半分が銀納、穀物が40万石余、絹布は8万疋などとなっています。領内で納税を課された戸(税戸)は73万戸(1戸5人として365万人)しかなく、1戸あたりの平均納税額は1.37両(6.85万円)です。1234年に金が滅亡すると110万戸が増えて180万余戸(900万人余)となります。かつて金の全盛期には768万戸(3930万人)でしたが、1/4に減少しています。これは戦乱による減少のみならず、王侯貴族らによる多数の封建領地や領民が存在し、税金が一括してかけられなかったせいでしょう。

 1253年、モンゴル帝国は金銀を豊富に産出する雲南地方の大理国を東チベット経由で征服し、南宋を囲い込みます。南宋はモンゴルの内紛もあって長く抵抗を続けますが、1276年に降伏し、豊かな江南地方がモンゴルの手に入ります。大元大モンゴル皇帝クビライはこの地から南海交易や塩の生産を含む莫大な収入を獲得し、世界帝国の経済を支える基盤としたのです。

 クビライの晩年、13世紀末のチャイナ全土の歳入は、田賦(地租)が1200万石余(6000億円)、課利(間接税)が1.8億両(9兆円)でした。このうち江南の1065万戸(5325万人)にかかる秋税が650万石(3250億円)、酒課1600万両(8000億円)、商税2000万両(1兆円)、塩課1.1億両(5.5兆円)に及びます。また旧南宋の中心地であった江浙地方だけで600万戸(3000万人)もおり、秋税450万石(2250億円)、酒課1000万両(5000億円)、商税1350万両(6750億円)、塩課9500万両(4.75兆円)と大部分を占めます。とすれば江浙地方からの税収だけで6.15兆円にも及び、チャイナにおける税収の半分は、この地方の塩課(塩の専売制による利益)だけで賄えたのです。

 ただ、交鈔は乱発により価値を減少させ、インフレを引き起こしました。元朝は交鈔の価値を担保するため塩の引換券(塩引)と結びつけ、塩の売買には交鈔を用いねばならないとしています。塩の大産地たる江南が支配下にある限り、帝国財政と世界経済は安泰というわけです。交鈔はクビライの弟フレグがイランに立てたフレグ・ウルス(イルハン朝)でも一時発行されましたが、馴染みがないため2ヶ月で廃止されました。

 世界帝国モンゴルはアフロ・ユーラシア大陸の交易路を結びつけ、莫大な富が世界中から帝都に集まり、また流れ出していくシステムを構築します。遠くヨーロッパにもその影響は及び、商業と経済を活性化させ、現代資本主義社会の基盤が形成されたのです。次回は中世ヨーロッパの貨幣と経済について見ていきましょう。

◆欧◆

◆州◆

【続く】

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