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【つの版】ウマと人類史14・馬邑之謀

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 冒頓単于が築いた匈奴帝国は、モンゴル高原をすっぽり覆い、東は満洲や朝鮮、西は新疆に接する大国でした。南の漢は匈奴に頭が上がらず、貢納を約束して和親する有様で、始皇帝が築いた万里の長城が一応の国境となりました。しかし両大国はしばしば衝突しています。

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◆漠北◆

◆漠南◆

老上単于

 紀元前176年、冒頓単于は在位36年にして世を去りました。即位時に30歳とすれば66歳、20歳とすれば56歳で、当時なら年齢に不足はありません。息子の稽粥(けいしゅく/けいいく、上古音kiː ʔljuɡ)が跡を継ぎ、老上と号しました。古テュルク語で「老人」を意味するes-ku、あるいはトカラ語Bのktsaitstse(老人)の音写が稽粥で、老上はその漢訳でしょうか。年齢的にまだ老人というほどでもないので、長寿を祈ってつけたのかも知れません。

 漢の皇帝劉邦が、公主(姫君)を冒頓単于に嫁入りさせると決めたのが前200年で、前192年には宗室の女子が贈られていますから、冒頓が前209年に30歳で即位していたら前192年には50歳近く、後継ぎとなる成人男子はすでにいたでしょう。前191年に子が生まれたとしても前176年には10代半ばでしかありません。だいたい父の後妻とその子のせいで殺されかけた冒頓が、贈物程度で漢人の娘が生んだ子を跡継ぎにするでしょうか。

 漢の皇帝劉恒(劉邦の庶子、文帝)は、条約通り宗室の女子を公主として新たな単于に嫁入りさせ、多額の贈物をします。この時、文帝は燕出身の宦官である中行説(ちゅうこう・えつ)を付き人としてともに送りましたが、彼は匈奴に送られたことを恨み、漢に背いて単于に仕えました。中行氏は春秋時代の晋の貴族ですから、その末裔でしょうか。

 彼はまず、単于をこう諌めています。「匈奴の人口は漢の一郡にも足りませんが、衣食が異なり、漢からの物資に頼らないからこそ強いのです。いま単于は漢の物を好んでおられますが、頼りすぎれば匈奴はみな漢に服属することになります。また漢の絹綿は匈奴の皮革より弱く、草むらを駆け回ればボロボロになります。漢の食物をやめ、乳製品を食べるべきです」

 匈奴は漢から毎年貢納される大量の絹を西方へ売却し、大きな利益をあげています。いわゆるシルク・ロードの始まりです。スキティアのように農産物を大量生産して輸出などできないモンゴル高原においては、こうした交易活動こそ外貨獲得のために必須でした。

 続いて単于の側近たちに漢の文字を教え、記録や人畜の計算方法を伝授します。漢から単于に書簡(竹簡)を送る際、長さは一尺(23cm)で、冒頭には「皇帝はつつしんで匈奴大単于に問う、つつがないか」とありましたが、中行説は単于から漢へ書簡を送る際、竹簡の長さを一尺二寸とし、封蝋に用いる印鑑も大きなものを用い、冒頭には「天地が生むところ、日月が置くところなる匈奴の大単于は、つつしんで漢の皇帝に問う、つつがないか」と記させました。漢と対等どころか匈奴の方が上だとアピールしたのです。

 前166年冬、単于自ら率いる匈奴軍14万が朝那・蕭関(甘粛省固原市)に侵入しました。彼らは北地郡の都尉(守備隊長)を殺し長城を越え、人民と家畜を多数掠奪しました。匈奴軍はそのまま南下し、漢の首都長安近郊にまで斥候騎兵が出没したため、文帝は大軍を派遣して防がせます。一ヶ月余り対峙した末、単于は立ち去りました。この時、隴西の李広は義勇兵として参戦し、家伝の騎射の技術によって多くの敵兵を倒したといいます。漢は彼の功績を嘉して郎(武官)に取り立てました。

 匈奴は日に日に傲慢になり、毎年侵入するようになって、多くの人畜を殺戮・掠奪し始めました。このうち雲中郡(フフホト)と遼東郡(遼寧省遼陽市)が最も甚大な被害を受けており、代郡(もと代国、河北省張家口市)に至っては1万人余りも殺されました。漢はこれを憂えて書簡を送り、使者の往来があった後、前162年に再び講和友好条約が締結されました。この条約では、両国の国境を侵犯した者は死刑と取り決められています。前161年、老上単于は在位14年で世を去りました。

軍臣単于

 跡を継いだのは彼の息子・軍臣(ぐんしん、上古音kun ɡiŋ)です。父が前209年生まれとして、30歳の時の子ならば前179年頃の生まれとなり、前176年に嫁入りした漢の公主の生んだ子である可能性はありますが、特筆されていません。漢人の娘が生んだ子を跡継ぎにすれば漢の下風に立つことになるため、たぶんそうしなかったのでしょう。漢は和親条約を更新し、取り決め通りに公主や贈物を送りました。中行説も引き続いて単于に仕えています。

 前158年冬、匈奴は漢との条約を早速破ります。東の雲中郡、西の上郡に騎兵3万ずつが侵略し、多くの人畜を殺傷・略取します。平時の匈奴は漢と長城で交易していますが、前166年の侵入も冬でしたから、気候変動で冬の寒さが厳しくなり、家畜の大量死(ゾド)が起きていたのでしょうか。

 匈奴の騎兵は、東方では代郡の句注山(雁門山)にまで侵入し、長安へ緊急警報を送る烽火は数ヶ月間も続きました。これに対し、文帝は将軍たちを各地へ派遣し、自らも各地の陣営を駆け回って視察しました。将軍の周亜夫は天子といえども陣営の中では軍法に従わせたので、文帝は喜んで彼を昇進させたといいます。匈奴はまた一ヶ月余りすると撤退しました。

 前157年、文帝劉恒が崩御し、皇太子の劉啓(景帝)が32歳で即位しました。匈奴は好機とみて代に侵入しますが、景帝は匈奴と和親条約を締結して引き上げてもらっています。景帝は父の政策を継承して質素倹約・民力休養につとめ、減税や農業奨励を行って名君と讃えられました。しかし彼の即位からまもなく、東方で大反乱が勃発します。

 漢は建国以来、各地に諸侯王を封建して統治を任せており、天子が郡県を置いて直轄するのは帝国の西方に限られていました。当初は異姓(劉氏でない王侯)が多かったものの、次第に劉氏の皇族に置き換えられていきます。しかし大国のままだと天子に背く恐れがあるため、景帝は諸侯王の領地を難癖つけて削減し、あるいは王子らに土地を分割相続させるよう命令して、勢力を削いでいきます。

 これに反発した東方諸王は「天子を唆して劉氏を脅かす君側の奸を除く」と称し、手を組んで反乱を起こします。これが「呉楚七国の乱」です。この時、趙王劉遂は密かに匈奴へ使者を送り北方から漢を脅かすよう唆しましたが、周亜夫らは大軍の補給線を遮断して徹底的に打ち破り、わずか三ヶ月で乱を平定しています。東方でのんきに平和を享受していた諸侯王の軍と、匈奴との戦いで鍛錬されていた漢軍の実力の差です。

 反乱軍と匈奴が手を結んでいたと知った景帝は恐れおののき、匈奴に対してはひたすら宥和政策をとります。漢の公主や贈物を送るのはもちろん、長城の関所での交易も許可しました。これでしばらく匈奴の侵入は収まりますが、前148年には燕国に侵入し、漢は和親を求めますが失敗します。しかし翌年春、匈奴の王(小部族長)の徐盧ら5人が部下を率いて降伏して来たので、景帝は喜んで彼らを侯に封じました。匈奴にも内紛などのお家事情があり、徐盧らの亡命はそれに関わるかと思いますが定かでありません。

 前147年、中尉(首都警察長官)であった郅都(しつ・と)が雁門太守に左遷されました。彼は正義感が強く、法律に背く者を厳格に処罰して容赦がなかったため、鷹狩りに用いる「蒼鷹」と呼ばれて恐れられました。匈奴さえ彼が来たと聞いて恐れをなし、彼が死ぬまで雁門には近寄らなかったといいます。また彼に似せた人形を作って騎射の的としたところ、恐ろしくて見ることができず、誰が射ても命中しなかったとも言いますが、まあ漢人が流した与太話でしょう。彼は前142年正月に匈奴を攻撃しましたが、天子には気に入られていたものの皇太后の恨みを買っていたため、同年に都へ召還され処刑されました。同年3月には雁門に匈奴が攻め込んでいます。

 前144年8月、匈奴が上郡に侵入しました。この時の上郡太守が李広で、上谷・隴西・北地・雁門・代・雲中の太守を歴任し、凄腕の将軍となっていました。彼は匈奴の習俗や戦法を熟知し、弓騎兵を巧みに操って大いに活躍しています。同年、盧綰の孫で東胡王の他之が漢に降伏しました。

西方遣使

 前141年3月、漢では景帝が崩御し、皇太子劉徹(武帝)が16歳で即位しました。当初は匈奴と友好関係を維持したものの、若い皇帝は70年近い匈奴への服属関係に我慢ならなくなり、対抗手段を模索し始めます。

 是時天子問匈奴降者、皆言匈奴破月氏王、以其頭為飲器、月氏遁逃而常怨仇匈奴、無與共擊之。漢方欲事滅胡、聞此言、因欲通使。

 この頃、漢には匈奴からの亡命者や捕虜がおり、話を聞くことが出来ました。武帝が彼らにインタビューしたところ、匈奴に対抗できそうな勢力として西方の月氏があげられました。かつて匈奴は月氏の王を討ち取り、その髑髏を酒杯にしましたが、残党は太子を王に戴いて西方へ移動したというのです。このため月氏は匈奴を甚だ恨んでいると聞き、武帝は喜んで彼らと手を組もうとし、使者を派遣することにしました。

 道必更匈奴中、乃募能使者。騫以郎應募使月氏、與堂邑氏胡奴甘父俱出隴西。經匈奴、匈奴得之傳詣單于。單于留之曰「月氏在吾北,漢何以得往使?吾欲使越、漢肯聽我乎?」留騫十餘歲、與妻有子、然騫持漢節不失。

 しかし、漢から月氏へ行くには匈奴の国内を通らねばなりません。武帝が危険な任務を遂行する使者を募ったところ、漢中の張騫という武官が立候補しました。前139年、彼はもと奴隷であった胡人の甘父をともない、長安から隴西へ赴きましたが、長城の外へ出た途端匈奴に捕まり、軍臣単于のもとへ送られます。単于は「月氏はわしの北(西、背後)にあるのに、なぜ漢が使者を遣わしたのだ?漢の南には越(南越)があるが、わしが越に使者を派遣して漢の国内を通らせたら、漢は許可すると思うか?」と張騫を叱責しますが、見どころがある男だとして殺しはせず、匈奴の国内へ住まわせます。張騫はそのまま十年余り匈奴にとどまり、匈奴で妻を娶り子を儲けましたが、漢の使者の証である(房毛のついた棒)を持ち続けたといいます。

馬邑之謀

 前135年、匈奴から漢に使者が来て和親を請いました。匈奴の内情が不安定だったのでしょうか。武帝は群臣に協議させ、「和親を結んでも毎回数年であちらから破って来ます。突っぱねて攻撃しましょう」との意見も出ましたが、匈奴を攻撃することの不利と無益を説く意見が多く、武帝はやむなく和親に同意します。匈奴は喜んで長城の関所で交易を行い、両国の間に平和が訪れます。しかし翌年、大事件が起きました。

 前134年、雁門郡馬邑県(山西省朔州市)の富豪である聶壱(じょう・いつ、聶翁壱とも)は、対匈奴強硬派の王恢を仲立ちとして武帝に上奏し、利益を餌に単于を釣り出して騙し討ちにする作戦を述べました。武帝は面白いと許可を出します。聶壱は漢からの亡命者と偽って匈奴へ潜入し、禁令違反の貢物を携えて単于に取り入ると、こう進言しました。「私は馬邑の県令や丞や役人たちを斬り殺し、県城を降伏させることが出来ます。そこの財物は全て手に入りましょう」。彼は単于の許しを得て馬邑へ帰ると、死刑囚を集めて斬首し、その首を馬邑の城にかけて単于の使者に見せ、県の役人たちの首だと偽ります。単于は報告を聞いて喜び、大軍を率いて武州塞(大同市西部の左雲県)に侵入すると、馬邑を目指して進軍します。

 漢は伏兵を馬邑の近くに隠し、単于を包囲する機会を伺っていましたが、単于は馬邑の手前100里(45km)余りまで来た時、周囲を見回して不審に思います。野原には家畜が群れているのに、牧童が一人もいないのです。訝しんだ単于は国境地帯の砦を攻撃し、雁門郡の尉史(巡察官)を捕らえて詰問します。彼は恐れて漢の作戦を白状したので、単于は急いで長城の外へ引き返し、難を逃れました。そして尉史を褒め称え、「わしがそなたを手に入れたのは天命だ。天がそなたに言わせたのだ」と言い、彼に「天王」の称号を与えたといいます。

 漢の作戦は失敗に終わり、武帝は王恢に責任をかぶせて処刑しようとしたので、彼は恐れて自殺しました。聶壱は行方知れずですが、漢にも匈奴にもおれませんから、たぶん処刑されたのでしょう。その一族は匈奴からの復讐を恐れ、姓氏を特徴のない「張」に替えたといい、その子孫が魏の名将・張遼だといいます。実際彼は馬邑県の出身で、騎兵での戦闘に巧みでした。

自是之後、匈奴絕和親、攻當路塞、往往入盜於漢邊、不可勝數。然匈奴貪、尚樂關市、嗜漢財物、漢亦尚關市不絕以中之。
 これ以後、匈奴は和親を絶ち、漢の道路や長城を攻撃し、しばしば漢の辺境に侵入して掠奪を働くことは数え切れなかった。ただ匈奴は貪欲で、関所での交易をなお楽しみとし、漢の財物を好んだので、漢は関所での交易を取りやめなかった。

 漢の武帝は匈奴との和親関係を自ら断ち切り、両国は敵対関係に入りました。毎年の貢物がなくなったため、匈奴は経済封鎖された形となり、ますます漢との交易や漢からの掠奪に拍車がかかります。中行説が忠告したように匈奴は漢の莫大な財物に依存し、それなしでは国が立ち行かなくなってしまったのです。これより武帝の崩御に至る半世紀もの間、両大国は大戦争を続けることになります。

◆Invaders◆

◆Must Die◆

【続く】

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