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【つの版】度量衡比較・貨幣30

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1377年に英国王エドワード3世が、1380年にフランス王シャルル5世が崩御すると、英国ではリチャード3世、フランスではシャルル6世が即位します。どちらも幼君であったため摂政が立ち、これに反対する派閥との争いが始まり、対外戦争どころではなくなります。

◆Land Of◆

◆Confusion◆

徴人頭税

 英国から見ていきましょう。1377年に即位したリチャード2世は、エドワード3世の孫、エドワード黒太子の息子で、まだ10歳でした。黒太子の弟でランカスター公のジョンが事実上の摂政(貴族評議会の筆頭議員)となり、弟エドマンド、トマスとともに英国政治を牛耳ります。

 以前書きましたが、ランカスター公は「聖職者は腐敗している、全財産を放棄して清貧に戻れ」と説いたジョン・ウィクリフを庇護しています。聖職者から財産没収して国庫を潤そうとしたのでしょう。この頃アヴィニョンに擁立された対立教皇はフランスの傀儡ですし、ローマに戻った教皇も腐敗度合いでは大差なく、英国の富を教会税として吸い上げますから、ウィクリフの説教に賛同する者(ロラード派)は結構いました。

 しかしフランスとの戦争を再開して大陸領土を奪還するためには、さらなる資金が必要でした。カレーとブレストの駐屯地を維持するのさえ年間3.6万ポンド(1ポンド=72万円として259.2億円)かかり、遠征軍を半年派遣するだけで5万ポンド(360億円)かかるのです。また黒死病はしばしば襲ってきて人口を減少させ、労働人口が減ったため賃上げ要求の動きが強まり、これを抑えようとするカネモチと対立していました。税収が減少し支出が増えているのですから、英国財政はまたも破綻寸前に追い込まれます。

 そこでランカスター公率いる貴族評議会は人頭税の導入を決定しました。1377年、乞食や托鉢修道士を除く14歳以上のすべての男女は、4ペンス=1グロート銀貨を国王エドワード3世に献納せよと命令が下ります。

 グロートはフランスのグロ・トゥルノワ銀貨をもとに1278年に発行開始された銀貨で、当初は90グレイン(5.8g)、この頃には72グレイン(4.7g)ほどの重量がありました。いわゆる「スターリング・シルバー」で92.5%の銀を含み、4.7gのうち4.3475gが純銀とされ、銀1g3000円換算で1.3万円、実際は1.2万円相当です。1ポンド=20シリング=60グロート=240ペンス、1シリング=3グロート=12ペンスですから、1ポンドは72万円、1シリングは3.6万円、1ペニーは3000円です。1エキュ/ドゥカート/フローリン金貨は10グロート、12万円にあたります。

 これは聖職者にも及び、特に聖職禄として土地収入を得ている聖職者は12ペンス=1シリング(3.6万円)とされます。これで2.2万ポンド(158.4億円)が集まりましたが、人々の不満も高まります。カネモチにとっては端金でも、当時の非熟練労働者の日当は3ペンス(9000円)ですから貧困層には打撃だったのです。徴税は収入や財産を鑑みねばなりません。

 中世英国の日給を比較すると、水夫は3ペンス+食事、1週間に6ペンスのボーナス(船長は倍額)。歩兵や弓兵も3ペンス、弩兵は4ペンス、騎馬弓兵は6ペンス、熟練職人や騎兵は12ペンス=1シリング、騎士は24ペンス=2シリングあたりがこの頃の相場です。武具では1314年のロンドンで弩が41ペンス(12.3万円)、肩当て付きの兜が61ペンス(18.3万円)、鎧が81ペンス(24.3万円)、弩用の矢4000本で1ポンド(72万円)などとなっています。

 しかし戦争は続き、プリマスなど英国本土の港にもフランス軍が襲撃してくるようになります。リチャード2世が即位すると国土防衛のためにさらなる税が課され、家畜や羊毛、皮革、動産に対して課税されます。1379年には第二回の人頭税徴集が行われますが、今回は16歳以上とされ、身分や財産に応じて納税額が上がるように調整されます。一般庶民は1-3グロート(4-12ペンス)、中産階級は6グロートから1マルク(160ペンス=48万円)、男爵や騎士団長、ロンドン等の市会議員は3マルク(144万円)、伯爵や司教、ロンドン市長らは6マルク(288万円)、公爵や大司教は10マルク(480万円)です。これによって5万ポンドが献納されると期待されましたが、納税逃れが続出し、1.86万ポンドしか集まりませんでした。

 1380年11月には第三回の人頭税徴集が行われ、15歳以上に定額12ペンスとしましたが、多くの民が従いませんでした。徴税役人は各地へ派遣されて従わせようとしますが反発を買い、1381年6月にはついに貧困層による大反乱が勃発します。怒り狂った暴徒はロラード派の過激派と合流し、ランカスター公の宮殿は焼き払われ、財務長官らは殺害されます。ついに国王が反乱の首謀者ワット・タイラーと面会することになりましたが、ロンドン市長がタイラーを殺して反乱を鎮圧しました。

王対議会

 リチャード2世は貴族評議会とランカスター公に責任を負わせ、1382年にボヘミア王女アンと結婚したのち、1383年に親政開始を宣言します。彼はフランスと和平交渉を進め、1385-6年に側近のド・ラ・ポールをサフォーク伯に、オックスフォード伯ド・ヴィアーをアイルランド公に、叔父のケンブリッジ伯エドマンドをヨーク公に、エセックス伯トマスをグロスター公に叙爵してランカスター公を牽制し、早世した叔父ライオネルの娘の子でアイルランド総督のロジャー・モーティマーを後継者に指名しました。彼はまだ12歳でしたが、亡き父エドマンドはランカスター公の政敵でした。

 しかし外交では失敗が重なり、1383年のフランドル遠征も1385年のスコットランド遠征も失敗に終わり、国内では貴族議会派が国王派と対立します。1386年にランカスター公がカスティーリャ遠征へ向かうと、10月にはグロスター公らがサフォーク伯を弾劾して投獄し、常設評議会の設置を決定しました。リチャードは1387年2月にウェールズへ逃れて兵を集め、議会派を反逆罪で討伐すると宣言しますが、12月に打ち破られてしまいます。翌年国王派は追放・処刑され議会派が政権を握ったものの、内ゲバで支持が低下し、リチャードは1389年5月に親政再開を宣言して評議会を解散しました。

 しかしリチャードは専制君主とはならず、帰国したランカスター公を助言者として信任しアキテーヌ公位を譲渡するとともに、評議会を再編して穏健派貴族による国政輔佐機関とします。またエドワード3世以来の宰相ウィカムのウィリアムを大法官に任命し、フランス王との直接会談により休戦条約も結ばれますが、1397年にグロスター公らを大逆罪で処刑したことから議会派との対立が再燃します。

 1399年にランカスター公ジョンが逝去すると、リチャードはその子ヘンリーが反国王派だったことから公位を継がせず、広大なランカスター公領を王家に没収してしまいます。怒ったヘンリーは議会派を率いてクーデターを起こし、リチャードを廃位して自ら王位につきます(ヘンリー4世)。これがランカスター朝のはじまりですが、男系が断絶したわけではなく、ヘンリー2世以来のプランタジネット朝(アンジュー家)の傍系に過ぎません。

仏王乱心

 一方フランスでは、1380年に名君シャルル5世が崩御し、その子シャルル6世が11歳で跡を継ぎました。摂政は父の弟のブルゴーニュ公フィリップ、アンジュー公ルイ、ベリー公ジャンと、母ジャンヌの兄ブルボン公ルイでしたが、アンジュー公は1384年に死亡し、ベリー公は南仏ラングドックの統治に集中し、ブルボン公は重要視されず、ブルゴーニュ公が実権を握ります。

 フィリップは年齢も40歳前後と申し分なく、1382年にはフランドルの反乱を鎮圧し、1384年にフランドルを相続します。1385年には長男ジャンと長女マルグリットをエノー・ホラント・ゼーラント伯であるヴィッテルスバッハ家のバイエルン公アルブレヒトの子女と結婚させ、同年には国王シャルルもヴィッテルスバッハ家のイザボーと結婚させました。

 この頃神聖ローマ帝国ではカール4世が崩御し、跡を継いだ息子ヴェンツェルは1382年に英国王リチャードに娘を嫁がせていたので、これに対抗すべくヴィッテルスバッハ家と手を組んだのです。フィリップとフランス王家との繋がりも強くなり一石二鳥です。しかし1388年、21歳になったシャルル6世は親政開始を宣言し、摂政フィリップらを退けました。彼は父の有能な顧問団であったマルムゼを復権させ、善政を敷いて慕われます。

 ところが、1392年に彼は乱心します。この年に友人のクリッソンが暗殺未遂事件に遭い、実行犯がブルターニュ公国へ逃亡したため引き渡しを迫ったのですが、引き渡しを拒否されたためシャルルは異常に興奮し、戦争の準備に取り掛かりました。真夏の行軍の途中、彼は狂人に遭遇し「戻りなさい、裏切者が狙っている」などと呼びかけられます。やがてシャルルは不意の物音に怯えて剣を抜き払い、「裏切者め!」と叫んで味方の騎士に襲いかかりました。周囲の人々が慌てて王を取り押さえましたが、この戦闘で四人が王に斬り殺されたといいます。もともと神経質なところへ、暑い中を甲冑を纏って行軍するなど悪条件が重なったのでしょうか。

 取り押さえられた王は昏睡状態となり、四日後に目を覚ましてからも精神異常の発作を繰り返し、事実上統治能力を失います。1393年1月には仮装パーティの席上で火災が発生し、シャルルは無事でしたが四人の貴族が焼死しました。パリ市民は「これは王弟オルレアン公ルイのせいだ」との噂を受けて暴動を起こし、ブルゴーニュ公フィリップはこれを機会にオルレアン公を排除しようと目論みます。両派の争いはフランス国内を二分しました。

仏国内紛

 オルレアン公は兄を輔佐し、アヴィニョンの教皇を支持していましたが、フィリップはヴィッテルスバッハ家、ナバラ王国、ローマの教皇と手を結んでこれと対立します。またオルレアン公の妃はミラノ公女でしたが、フィリップはミラノと対立するジェノヴァと手を組んでいました。また1400年に神聖ローマ皇帝ヴェンツェルが失政によって廃位され、ヴィッテルスバッハ家のループレヒトが皇帝となると、フィリップは彼を支持し、オルレアン公はヴェンツェルを支持します。実力と年季ではフィリップが上で、オルレアン公は「兄の寡婦イザボーと密通した」と中傷されて人気を落としました。

 1404年にフィリップが逝去し、息子ジャンがブルゴーニュ公位を継ぐと、オルレアン公との対立はさらに激化します。ジャンは1405年にパリへ進軍、1407年にオルレアン公を暗殺して実権を掌握しました。しかしオルレアン派はルイの子シャルルを首領としてブルゴーニュ派と対立、1411年に武装蜂起します。ジャンとシャルルはともに英国へ支援を要請しました。

 英国ではヘンリー4世の即位後、諸侯の反乱が相次いで鎮圧に手こずり、国王も体調を崩していました。彼はアキテーヌの保持を優先し、フランスの内紛に介入することには消極的でしたが、王太子ヘンリー(5世)は「今こそフランスへ大規模に侵攻すべし」と主張し、父から煙たがられています。

 1413年3月にヘンリー4世が崩御すると、この王太子が跡を継ぎます。彼はフランスの内紛に乗じて1415年に対仏戦争を再開し、百年戦争は新たな段階を迎えることになります。

◆The Vengeful◆

◆One◆

【続く】

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