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【つの版】ウマと人類史32・伊蘭闘乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 453年にアッティラが死ぬと、ドナウ北岸の帝国は急速に崩壊しました。しかし、東西ローマ帝国の危機が去ったわけではありません。帝国各地には蛮族が割拠し、西ローマ皇帝の支配権はイタリアにしか及びませんし、東にはサーサーン朝ペルシア帝国が栄えています。東ローマはどうにか持ちこたえたものの、西ローマ帝国の命運はもはや風前の灯火でした。

◆三◆

◆体◆

東方騒乱

 西ローマ帝国の終焉とその後については、「ユダヤの謎」とかでとりあげましたので、ここでは繰り返しません。フン族の後を追って東方へ視線を移すことにしましょう。アッティラと会見した東ローマの歴史家プリスコスはおおむね次のように書いています。

 アッティラの頃、東方にはアカトジロイ(Akatziroi)族がおり、カリダコス(Karidachos)がこれを率いていた。エラクの死後、その弟ディンギジクス(Dingizix)はタナイス(ドン)川の彼方、アラクセス(ヴォルガ)川のほとりへ移動し、カリダコスの死後にアカトジロイの長となった。

 ディンギジクスとはテュルク語デンギジック(Dengizich:海、湖)で、のちのチンギス・カンのチンギスと同じ語源ともいいます。弟のイルナックは彼とともにフン族の残党を治めました。しかし、やがて異変が起こります。

 皇帝レオの在位6年目(西暦463年)、東方からウトリグル族が現れ、アラクセス川を渡ってきた。彼らによると、東方のオグル族オノグル族サラグル族に追い出されたためである。この三つの部族も、さらに東方のサビル族に駆逐されたのであり、サビル族はアヴァール族によって、アヴァール族は海から現れた人食いの怪獣グリュプスに駆逐されたのだという。

 ヘロドトスが書き記した、例の東から西への玉突き現象です。彼らはみなテュルク系の部族名で、-oghurとはテュルク語で「部族、○○の子」を意味しています。ウトリグルとはotur-oghur(30の部族)、オノグルはon-oghur(10の部族)、サラグルはsiarigh-oghur(黄/白の部族)と解釈できますし、オグルはそのままです(何か抜けたのでしょうか)。サビルとアヴァールはわかりませんが、アヴァールはこの後パンノニアへ侵入して来ます。グリュプス/グリフォンはヘロドトスが「黄金を守りアリマスポイと戦う」と記した存在で、この場合は海といったらバイカル湖ですから、ミヌシンスク盆地やカザフスタン北部にいた連中が西へ突き出されたわけです。

 これによりアカトジロイは西へ突き出され、困ったデンギジックとイルナックは465/466年にコンスタンティノポリスへ使節を送り、和平条約の締結とドナウ川沿岸での交易市場の開放を要求しました。東ローマはこれを拒否したため、デンギジックはドナウ川を渡ってトラキアに渡り、ゴート族やフン族の残党、それに「スキタイ」と総称される雑多な人々を率いて居座ろうとしました。またパンノニアにも侵入しましたが、469年にゴート族の将軍アナガステスに殺され、首級がコンスタンティノポリスへ送られています。イルナックはやむなく東ローマに服属してドナウ川下流域に住み着き、黒海北岸は新来のテュルク系諸部族が占拠することになりました。やがて彼らはブルガールとハザールに大きく分かれ、各地に割拠していきます。

 それにしても、この頃に東方では何が起きていたのでしょうか。ひとまずヴォルガ川の東へ戻ってみましょう。

三◆馬◆

波斯嚈噠

 フン族が東西ローマ帝国を脅かしていた頃、サーサーン朝ペルシアもカフカースの北のフン族と、キオニタエ諸族やエフタルに脅かされていました。アルフン(Alchon,al-huna/赤いフン)と呼ばれる集団は、370年頃にはキダーラ朝からバルフを奪い、やがて「エフタル」となっていったようです。また別にスペード・フン白いフン)と呼ばれる集団もおり、これがエフタルであるとも言われます。両者が合体したのでしょうか。

 プリスコスの後、ミティリニのザカリアス(465-536頃)やカイサリアのプロコピオス(500-562頃)らによると、463年頃にサビル族を西方へ駆逐したのはアヴァールやグリュプスではなく、キオニタエとウアルという部族でした。発掘されたコインによれば、この頃アルフン族の王であったのはヒーンギーラで、430年頃に生まれて490年頃に逝去したようです。ウアルがエフタル=白いフンとすると話は合いますがどうでしょう。ヒーンギーラやその後継者たちは、コインに刻まれた横顔からして頭部が異様に細長く、フン族が頭部を人工的に変形させていたという話と合致します。

 プロコピオスらは「白いフンは肌が白く美しかった」としますが、じゃあ赤フン族の肌は赤かったのでしょうか。諸説ありますが、チャイナの五行思想では赤を南、白を西に配するため、西フン族と南フン族がそう呼ばれたのではないかともいいます。フンドシを締めていたわけではありません。

 サビルを駆逐したのがエフタルだとするなら、グリュプスが出てきた海とはバイカル湖ではなくアラル海とかバルハシ湖、あるいはイシク湖になるでしょうか。特にバルハシ湖やイシク湖周辺は、チャイナの史書『魏書』によればエフタルと柔然・高車の係争地で、ここらへんでドンパチやった結果として周辺の騎馬遊牧民が難民化し、西へ移動したのはありうることです。ただ『魏書』によれば、この頃北魏は柔然に大遠征を行っており、バイカル湖付近からも難民が出て西へ向かった可能性もあります。両方でしょうか。

 記録によると、425年頃にエフタルはメルブを占領し、サーサーン朝ペルシア帝国に貢納を課しました。ペルシア皇帝バハラーム5世は東ローマとの戦争中で、いったんこれを受諾しましたが、まもなく反撃に出てメルブを奪還し、アム川を国境線と定める石碑を建立しました。またブハラはペルシアに服属したらしく、彼の顔を刻んだコインを鋳造しています。バハラームの兄弟ナルセは東方の総督に任命され、バルフに駐屯しました。

 438年にバハラームは崩御し、跡を継いで即位したヤズデギルド2世も東ローマ及びエフタルと戦っています。アッティラの死と同年の453年、彼は宮廷をホラーサーン(イラン東部)のニーシャープールに移動させ、エフタルと数年間に渡って戦いました。

伊蘭圖蘭

『アヴェスター』などゾロアスター教の聖典には、預言者ザラシュストラ(ゾロアスター)を庇護したウィシュタースパらバルフの王たちが「カイ」という王号を持つと記されています。ヤズデギルド2世は自らの称号に「カイ」を付け加えてその末裔であると主張し、バルフの支配権を正統・正当化しました。カイ王朝(カヤーニー朝)はウィシュタースパの子とされるダレイオス大王によってアケメネス朝に接続されましたが、その王統はアルサケス朝ではなくファールス地方のサーサーン朝に接続されました。こうしたサーサーン朝の(事実とは異なる)歴史観が、のちの『シャー・ナーメ/フワダーイ・ナーマグ(王書)』の原型となります。

 また『王書』によれば、悪王ザッハーク(悪龍アジ・ダハーカ)を退治した英雄フェリドゥーン(スラエータオナ)は世界の王となりましたが、彼は三人の息子に領土を分け与えました。すなわち長男サルムは西方(ローマ)を、次男トゥールは北方(トゥーラーン)を、末弟のイーラジは中央のイラン(イーラーン、アーリヤ人の地)を相続したというのです。妬んだ兄たちはイーラジを殺しましたが、イーラジの娘はマヌーチェフルを生み、彼が祖父の跡を継いでイランの王となります。それゆえイランは西方のローマ、北方のトゥーラーンと戦い続けるようになったといいますが、トゥーラーンとはどこのことでしょうか。

 トゥーラーンの名は『アヴェスター』にもしばしば現れ、バルフにいた預言者ザラシュストラを討ち取ったのもその軍勢とされます。おそらくバルフ周辺にいた敵対部族でしょうが、次第にその範囲は広げられ、ついにアム川の北の「夷狄(非イラン人、アネーラン)」全てを指すようになったようです。トゥーラーンやその子ら、特にアフラースィヤーブ(フランラスヤン)は悪神アフリマン(アンラ・マンユ)の使いとされ、イランの諸王と戦ったとされます。サマルカンドには彼の名を冠した遺跡があります。

 ドナウのギリシア名イストロス、ドニエストルやその古名テュラスと同じく、イラン系諸語istr-/tr-は「速い」を意味します。トゥーラーンも本来はそうしたイラン系の名でしょうか。

 ヤズデギルドはこうした神話を喧伝し、ローマやエフタルら敵国を邪教を奉じる悪魔の手下とみなし、聖なるアーリヤ人の国土(イーラーン・シャフル)を守ることが正義であると唱えたのでしょう。

 しかしヤズデギルドが457年に崩御すると、その子ホルミズドとペーローズが帝位を争います。ホルミズドはテヘラン近郊のレイで帝位につき、ペーローズは有力貴族ミフラーン家の支持をとりつけて北東地域で挙兵しました。クテシフォンではヤズデギルドの妃デナグが摂政となり、二人の皇帝の争いを仲裁しました。

 459年、ペーローズは邪悪な敵国のはずのエフタルに援軍を求め、ついにホルミズドを撃ち破って帝位につきます。この頃ソグディアナからガンダーラにかけてはキダーラ朝とエフタル/アルフンが争っており、キダーラ朝は敵の敵としてペルシアに侵攻しますが、両者の連合軍に撃ち破られます。

 エフタルは勝ち誇り、南はインドに侵攻してグプタ朝を脅かし、西はペルシアに貢納を課します。ペーローズは夷狄の力を借りて即位した負い目を払拭するためエフタルと戦いましたが、469年と471年には大敗を喫して二度も捕虜となり、身代金を支払い人質を供出して釈放される有様でした。このため各地で反乱が相次ぎ、ペーローズは雪辱を期して481年からエフタルを三度攻めますが、484年に戦死しました。彼の遺体は見つからず、息子や兄弟たちも4人が戦死し、メルブ・ヘラート・ニーシャープールはエフタルに占領されてしまいます。貴族たちは連合してエフタルの侵攻を押し留め、ペーローズの兄弟バラーシュを帝位に擁立しました。

 バラーシュはエフタルと講和しますが多額の貢納を課され、有力貴族スフラの傀儡に過ぎませんでした。また彼は温和で寛容でしたが貴族やゾロアスター教の聖職者からは不人気で、488年に退位させられます。

 スフラはペーローズの子カワードを15歳で帝位につけ、引き続き帝国の実権を握ります。この頃ペルシアは東はエフタルに圧迫され、西ではアルメニアでの反乱が相次ぎ、崩壊寸前の状態でした。493年、成人したカワードはスフラを逮捕・投獄したのち処刑しますが、貴族たちの反感を買いました。そこで一種の宗教改革を行い、庶民に富を再分配して貴族や聖職者たちの勢力を削ごうとしたようですが、結局496年に貴族や聖職者たちによって退位させられ、弟のジャーマースプが擁立されます。

 カワードは投獄されますが、面会に来た妻と衣装を取り替えて(あるいは絨毯に包まれて)脱走し、父と同じくエフタルへ身を寄せます。そしてエフタルの援軍を伴い、帝都クテシフォンへ向かいました。貴族と聖職者らはこれ以上の内乱を望まず、499年にジャーマースブを退位させて目を潰し、カワードを再び玉座に迎えました。復位したカワードは国政改革を進め、国民に地租と人頭税を課し、帝国の東西南北に軍管区を儲けて元帥(スパーフベド)を置き、有力な地主/郷紳(デフカーン)や傭兵による皇帝直属の騎兵隊を作ります。また庶民や貧民を保護し、多くの都市や要塞を建設しました。

 502年からはエフタルの援軍を伴って東ローマと戦い、善戦して比較的有利な条件で和平条約を結ぶことができました。その後、東方ではエフタルとの戦争も行い、513年までにはホラーサーンを奪還しています。30年以上に及ぶ第二の治世にあって、カワードはペルシアを再び強大な帝国とし、次の大王ホスロー1世へと受け継がせたのです。

 しかし、エフタルはなおも強大な帝国でした。北ではソグディアナ諸国を征服して高車や柔然としのぎを削り、東はパミール高原を抜けてタリム盆地の諸国を服属させ、南ではトーラマーナ王がグプタ朝を駆逐してインダス川流域からマールワー地方(デカン高原北端部)までを手中におさめ、アラル海からインド洋に至る広大な領域を版図としていました。これはかつてのクシャーナ朝にも匹敵します。エフタルの文化もクシャーナ朝を引き継いでおり、ゾロアスター教や仏教が盛んでした。

 トーラマーナの子ミヒラクラは、残された記録によると残虐で非道な王であり、「天神火神」を尊崇して仏教を弾圧(破仏)したといいます。ただ北魏の僧侶や使節らは520年頃エフタルを通ってインドに到達していますが、仏教寺院や仏像が多くあるとは書いていても仏教が弾圧されていたとは記していません。有名なバーミヤンの大仏像もこの頃に建立されたものです。たぶん「フーナ」と戦ったインドの諸王がネガティブキャンペーンを行い、後世の人々がそれを鵜呑みにしてしまったのでしょう。

 エフタルは敵の敵である北魏と手を組む一方、北魏の敵である南朝にも使者を派遣しており、ユーラシアには東ローマ・ペルシア・エフタル・柔然・北魏・南朝と多くの帝国が割拠する状況となりました。その西の端にはフランク王国や西ゴート王国が、東の端には高句麗や百済・新羅・倭国が連なっていたのです。このような国際情勢を揺るがしたのが、テュルクの一派である突厥の勃興でした。

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【続く】

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