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【つの版】ユダヤの闇08・革命陰謀

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

近世から近代にかけて、欧州諸国は地球上を探索・征服・分割し、莫大な富が欧州になだれ込みました。富は多くの中産階級を産み、さらなる富を求めて列強間での戦争が頻発します。特にフランスは英国と世界中で戦いを繰り広げますが、無理がたたって財政破綻を起こします。これがフランス革命の直接の原因となりました。

◆T.M.◆

◆Revolution◆

革命前夜

1589年に即位してブルボン朝を開いたアンリ4世は、1598年にナントの勅令を発布し、フランスの国教をカトリックとしながらも、ユグノー(カルヴァン派プロテスタント)にも信仰の自由を与えました。しかし1610年に狂信的カトリック教徒に暗殺され、カトリック派が勢力を強めます。ユダヤ人は外国の手先と考えられ、1615年には入国禁止令も出されています。

アンリ4世の妃マリーはメディチ家の出身で、幼い息子ルイ13世の摂政となりました。彼女の失脚後はリシュリュー枢機卿が実権を握り、ユグノーを弾圧して王権を強化します。しかし三十年戦争では国益を優先してプロテスタント勢力を支援し、アルザス・ロレーヌ地方を神聖ローマ帝国と争います。この地には多くのユダヤ人が暮らしており、当初は弾圧されたものの、次第に国益のため庇護すべきであると考えられました。1675年にルイ14世はユダヤ人に特許証を付与し、ある程度の庇護下に置いています。

ルイ14世の時代にフランスは最盛期を迎えますが、72年もの在位の間に覇権国の座を巡って英国やハプスブルク家と激しく争い、財政を悪化させます。曾孫のルイ15世は60年も在位しましたが、1726-1743年のフルーリー枢機卿による財政再建時代を除けば赤字財政が続き、対外的にも英国との戦いで負け続きとなります。オーストリア(ハプスブルク家)もプロイセンとの戦いで苦戦しており、ついに宿敵フランスと手を組みました。かくて1770年、王太子ルイ16世はオーストリア公女マリー・アントワネットと結婚します。

この頃、ドイツにはユダヤ人の哲学者モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)がいました。彼はドイツのデッサウからプロイセンの首都ベルリンに赴き、貧困の中で啓蒙思想を独学し、カントら一流の哲学者とも議論を戦わせるほどの人物でした。また反ユダヤ主義に反論し、「ゲットーでの生活を強いられているユダヤ人にも、人間の権利として市民権が与えられ、解放されるべきである」「ユダヤ人も自由思想や科学知識を学んでよき国民となるべきで、政教分離と信仰の自由が保証されるべきだ」と説きました。彼は「ベルリンのモーセ」、近代ユダヤ教の父と讃えられましたが、保守的なユダヤ人からはスピノザと同じくユダヤ教を否定する者として嫌われました。彼の子ヨーゼフとアブラハムは裕福な銀行家となり、キリスト教に改宗しています。アブラハムの子が音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンです。

18世紀後半、フランスにはアルザス・ロレーヌ地方を中心として、ボルドーやアヴィニョン、パリなどに4万から5万人のユダヤ人が暮らしていました。しかしフランスには宮廷ユダヤ人もおらず、伝統的・啓蒙主義的な反ユダヤ主義はあったものの、さしたる問題も起こしていませんでした。

1786年、フランスの貴族ミラボーはプロイセンへ外交使節団として派遣された時にメンデルスゾーンらの議論に触れ、帰国後の1787年に「ユダヤ人を解放し、市民権を与えるべきである」と主張しました。

ミラボー『メンデルスゾーンについて』を巡って
https://chssl.lib.hit-u.ac.jp/images/2020/02/expo03.pdf

この論説は反響を呼び、ユダヤ人の解放に関する擁護論が次々と現れます。当時のフランスの大問題は財政再建にありましたから、こうした議論も単なる人道的な主張ではなく、例によってユダヤ人を諸国から呼び寄せ、経済活性化を図る計画でしょう。英国でもユダヤ人は活躍していましたが偏見は根強く、1753年に発布された「ユダヤ人は洗礼を受けることなく帰化できる」という法案は世論の反発にあって翌年廃案となっています。

革命勃発

しかし、フランスの財政問題は構造上の問題でした。当時のフランスには2500万人の平民、40万人の貴族、10万人のカトリック聖職者がいましたが、課税されるのは平民だけで、貴族と聖職者は免税特権を持っています(彼らは税金をとる側です)。またブルジョワ(富裕市民)は平民ですが、カネで免税特権を買い漁っていましたから、税収のほとんどは労働者や農民、および植民地での奴隷労働から賄われていました。ことにサン=ドマング(ハイチ)での砂糖生産は莫大な利益を産みましたが、黒人奴隷を酷使しては消費していたため、毎年アフリカから奴隷を輸送して労働力を補っていました。

こうした収入は国庫に納められますが、大部分が貴族や聖職者に配分されたため、国王の自由にできるカネは少なかったのです。要は国王はフランスの5分の1を治める大大名に過ぎず、他の領主や聖職者、宮廷貴族には課税できませんでした(徳川幕府めいています)。やむなく歴代の国王は多額の国債を発行して国費を賄いましたが、借金財政は信用を低下させ、誰もカネを貸さなくなってきます。英国との戦争で海外植民地もどんどん奪われており、もはやまったなしの状況まで追い込まれました。

国王ルイ16世は真面目に財政再建に取り組み、啓蒙主義者テュルゴーやネッケル、カロンヌ、ブリエンヌらを次々に登用して改革を行います。質素倹約や貿易の自由化など様々な案が出されますが、貴族や聖職者やブルジョワら免税特権を持つ人々にも課税することが解決策であることは明らかでした。当然彼らは反対し、反国王派貴族の牙城であるパリの高等法院は「課税については全国三部会を招集して議論すべきだ」と言い出します。

三部会とは聖職者・貴族・平民の三身分からの議員で構成される非常設の身分制議会で、中世後期からしばしば招集されていましたが、1614年以来一度も開催されておらず、有名無実の存在でした。また採決の票は一身分ごとに一票しかないため、平民の意見は聖職者と貴族が結託すれば潰せます。高等法院はこれを利用し課税をお流れにするつもりでしたが、ミラボーやラファイエットら自由主義貴族及び一部の聖職者は平民と手を結び、国政を改革して英国のように議会が政権を握るべきだと主張、国民議会を結成します。

国王と宮廷貴族はクーデターであるとして弾圧にかかりますが、国民議会派は政権奪取のために流言蜚語を撒き散らし、パリをはじめフランス各地で市民や農民の暴動が勃発します。やむなく国王は国民議会派に屈し、啓蒙主義に基づく大規模な国政改革が行われることになりました。その中には「人間と市民の権利の宣言」、いわゆるフランス人権宣言が含まれます。

ここでは「主権は国民(nation)にあり、全ての市民(citoyen)は法の下に平等であって、能力に応じて平等に官職につく機会を持つ」とされました。そしてミラボーは1787年の論説に基づき、フランスに住むユダヤ人にも当然市民権を与えるべきであると主張したのです。フランス全土の人民が全て国民となり、参政権を持ち、立憲君主制のもとで平等に税金を納めるようになれば、財政問題は解決して理想国家が樹立される…という目論見です。

しかし国民議会派も一枚岩ではなく、様々な理念や利害が衝突して内ゲバを繰り返します。宮廷貴族派や王党派は国外へ脱出して革命政府の打倒を呼びかけますし、国内の混乱で流通が停止して物価が高騰すると、民衆は流言蜚語に煽られて暴動を起こし、略奪や殺戮が始まります。さらに過激化した民衆派は貴族の廃止、王政打倒を叫びました。1791年にミラボーが病死すると議会派と国王を繋ぐパイプが切れ、国王一家はオーストリアへの亡命を図りますが、逮捕された末に人民裁判を受け、1793年に処刑されます。

英国、オーストリア、プロイセン、スペインなど欧州列強は国王を処刑したフランス革命政権を認めず、対仏大同盟を組んで侵攻します。革命政権は内ゲバに勝利したロベスピエールらが恐怖政治を敷いて「祖国の危機だ」と愛国心を煽り、国家総動員体制を敷いて徴兵制を導入、兵役を国民の義務とします。フランス国民軍は練度は低かったものの数は多く、ナポレオンたち将軍に率いられて各地を転戦し、精強な軍隊として鍛え上げられて行きます。

ナポレオンはフランス軍を率いて欧州全土へ侵攻し、オランダ・イタリア・オーストリアを屈服させ、国民の支持を受けてフランス皇帝に即位します。彼は征服した土地にナポレオン法典を施行し、自由・平等・財産所有権を謳ってユダヤ人をゲットーから解放し、味方につけていきました。彼自身はユダヤ人を毛嫌いしており、ユダヤ教を捨てフランス国民に同化することを求めていましたが、このことから「フランス革命はユダヤ人の陰謀だ」という陰謀論が生まれました。革命で没落した貴族や聖職者はもちろん、国土が戦場になったドイツやロシアでも信じられ、反ユダヤ主義が強まったのです。

フランス革命がユダヤ人の陰謀であるならば、スピノザやメンデルスゾーンが説いた啓蒙思想も、キリスト教社会を揺るがすユダヤ人の陰謀に思えてきます。フランスの敵である英国は地球規模の超大国となり、産業革命を起こして金融市場を牛耳っていますから、高利貸しで有名なユダヤ人の仕業に違いありません。ユダヤ人が英国に戻る契機となった清教徒革命もユダヤ人の陰謀です。フリーメーソンは英国生まれの互助組織で、啓蒙思想を喧伝し、世界中にネットワークを持つ秘密結社ですから、ユダヤ人が関わっているに違いありません。こんな調子でユダヤ陰謀論は肥大化しました。落ち目になると誰かのせいにしたがる気持ちはわかりますが、陰謀論に過ぎません。

赤札成功

陰謀論はさておき、フランス革命とナポレオン戦争によってユダヤ人がゲットーから解放され、市民社会で成り上がり出したのは事実です。代表的なのはフランクフルトの銀行家ロートシルト、すなわちロスチャイルド家でした。

前回紹介した創立者マイアー・ロートシルトは5人の息子らに家業を手伝わせていましたが、三男ナータン/ネイサンは1798年に英国マンチェスターに渡り、産業革命で大量生産が行われていた綿を大量に買いつけ、ドイツへ輸出して莫大な利益をあげました。これを元手に金融業も開始し、1804年にはロンドンへ本部を移転します。

大陸ではナポレオンがドイツに侵攻し、ヘッセン=カッセル方伯改めヘッセン選帝侯ヴィルヘルムはプラハへ逃亡しますが、ロートシルト家はとどまって選帝侯家の財産管理人に任命されます。しかし選帝侯家を裏切ったわけではなく、選帝侯家のために債権回収や投資を行い、フランスの監視を掻い潜って選帝侯を支援しました。このカネは選帝侯の許可を得てフランスや諸侯への賄賂、情報網の形成に使われ、大きく勢力を広げました。

1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、英国との貿易を禁止すると、ネイサンは英国で暴落した物資を安く買いつけ、大陸へ密輸することでさらに莫大な利益をあげます。ネイサンの兄弟たちは欧州各地へ密輸品を動かし、現地住民からも英国からも非常に感謝されました。また英国政府は対仏大同盟の軍資金の輸送もネイサンに任せています。

ロートシルト家はフランクフルト・ゲットーのユダヤ人を解放するためナポレオン法典の導入を推進し、フランクフルト大公ダールベルクに多額の献金を行うことで実現にこぎつけます。1812年、マイアーは息子らに事業を委ね68歳で息を引き取りました。こうしてロートシルト家は欧州屈指の大財閥となり、近代の歴史に大きく関わることとなったのです。

◆魔◆

◆弾◆

【続く】

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