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【つの版】日本建国16・天孫降臨

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

葦原中国を治めていたオオナムチのもとに天津神が降臨し、国譲りを迫りました。多少の抵抗はありましたが、オオナムチは戦わずして降伏し、代わりに隠居先(出雲大社)と本領(出雲国)を安堵されます。しかし天津神の子が降臨するのは、出雲でもヤマトでもありませんでした。

古事記 上卷-6 邇邇藝命
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◆Descend from◆

◆Heaven◆

天孫降臨

アマテラスと高木神(タカミムスビ)は、「太子」オシホミミに「葦原中国は平定された。言依(ことよさし、委任命令)に従い、降りていって統治せよ」と命じます。しかしオシホミミは「準備をしている間に息子が産まれました。名をニニギといいます。この子を行かせましょう」と答えました。

まことに軟弱ですが、ニニギの母はタカミムスビの娘・萬幡豊秋津師比売(日本書紀では栲幡千千姫)です。スサノオの剣とアマテラスの息吹から産まれたオシホミミより、天津神の血統的な権威としては上かも知れません。ニニギの同母兄として天火明命(アメノホアカリ)がいますが、オシホミミは彼ではなくニニギを指名しました。

アマテラスと高木神はニニギを遣わすこととし、改めて彼に葦原中国の言依を行います。そしてニニギがお供の神々を率いて高天原を旅立ち、葦原中国との中間地点である天之八衢(アメノヤチマタ、道が多数に枝分かれしている場所)に差し掛かると、そこに光り輝く神がいました。その光は、上は高天原、下は葦原中国を照らしています。何者でしょうか。

そこでアマテラスと高木神はアメノウズメに命じて「お前は手弱女であるが、『相手に面と向かって勝つ(押しが強くて物怖じしない)神』である。お前が行って何者か尋ねよ」と言いました。彼女が向かって行き尋ねると、その神は答えました。「私は国津神で、名をサルタヒコと言います。天津神の御子が降臨なさると聞いて、御前に仕え奉らんと罷り越しました」

安心した神々は、彼を道案内として降臨します。ニニギに付き従うのは天岩戸で活躍したアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメタマノオヤら「五伴緒(イツノトモノヲ)」と、八尺瓊勾玉・八咫鏡・草薙剣のいわゆる「三種の神器」、オモイカネ、タヂカラオ、アメノイワトワケ、トヨウケビメ(伊勢外宮祭神)、アメノオシヒ、アマツクメといった神です。このうち鏡はアマテラスが「我が御魂として拝み祀れ」と命じており、同時に「オモイカネに政を司らせよ」と命じています。

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かくしてニニギは天の浮橋から旅立ち、たなびく雲を押し分けて地上に降臨します。そこは筑紫の日向の高千穂のクシフルタケという山でした。ニニギは「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬(薩摩半島の西端)までまっすぐ道が通じ、朝日も夕日もよく照る国で、とても良い地だ」といい、ここに宮居しました。

この後、ニニギの命令でアメノウズメはサルタヒコの妻となり、彼の名を冠した猿女君(戯る女=踊り子)の祖となりました。しかしサルタヒコは伊勢で漁をしている時、大きな貝に手を挟まれて溺死したといいます。またアメノウズメが海の生き物を呼び集めて「お前たちは天神の御子に仕え奉るか」と問うと、みな「仕えます」と答えましたが、ナマコだけは何も言いませんでした。ウズメはナマコを捕まえて「答えないのはこの口か」といい、小刀で口を裂きました。それで志摩国の魚介類が献上された時、猿女君に与える習わしになったといいます。サルタヒコもアメノウズメも本来は伊勢志摩の神々で、宮中行事に取り込まれて神話に登場するようになったのでしょう。

日本書紀では

『日本書紀』本文では、アマテラスやサルタヒコは現れず、タカミムスビがニニギを「真床追衾(まとこおぶすま)」という掛け布団に包んで降臨させたとします。天降った場所は日向の襲(そ)の高千穂(たかちほ)の峯でしたが、「膂宍之空国(そししのむなくに)」すなわち肥沃でない土地だったので、よい土地を求めて各地を遊行し、笠沙の岬に至ったとします。

第一の一書では、アメノワカヒコの死とタケミカヅチ・フツヌシによる葦原中国の平定を記した後、アマテラスがニニギに三種宝物と五部神(五伴緒)を授けて天降らせます。また「葦原中国は、我が子孫が王となるべき地である。よろしくなんじ皇孫が治めよ。宝祚(皇位)の隆(さかえ)、まさに天壌無窮(天地と同じく永久)なるべし」との「天壌無窮の神勅」を与えたのもこの時です。いかにも漢文調で、持統女帝が皇孫の珂瑠皇子(文武天皇)に皇位を譲った時の詔勅を流用したのかも知れません。

サルタヒコの描写は詳しくなっており、鼻の長さは七咫(126cm)、背丈は七尺(210cm)とも言いますが、鼻との釣り合いから七尋(12.6m)ともされ、巨大な天狗めいた姿です。しかも口と尻が明るく輝き、眼は八咫鏡のようで、ホオズキめいて赤く輝いているというのです。尻が赤いなら猿めいていますが、空中で天地を照らし伊勢にいたということから、本来は太陽神だったのかも知れません。あるいは天津甕星のような星神でしょうか。

恐れた神々は誰も近づけませんでしたが、アメノウズメが勅命により向かっていきます。彼女は天岩戸の時のように豊満なバストを露出し、スカートの帯を臍の下まで押し下げ、笑いながら近づきました。性と笑いのパワーによって相手を驚かせ、恥ずかしがらせるという真面目な呪法です。面食らったサルタヒコは名を名乗り、天孫を地上へ道案内したといいます。

第二の一書では、タカミムスビが自らの娘三穂津姫を大物主神に娶らせたとあります。またアメノコヤネとフトダマが祭祀・神事・太占の始祖として強調され、アメノウズメやサルタヒコ、オモイカネは出てきません。どの氏族を重んじるかによっていろいろな説が生じたのでしょう。

高千穂と高天原

記紀や一書のどの伝承でも、天孫降臨の舞台は筑紫の日向であり、出雲でもヤマトでもありません。「筑紫というからには北部九州だ」という人もいますが、筑紫島(九州)の南部の日向国(宮崎・鹿児島)です。日本書紀で襲(そ)というのは襲国・熊襲で、大隅国に曽於郡があります。笠沙の岬は薩摩西端にあり、続く物語もみな南九州が舞台で、北部九州ではありません。

「韓国へ向かい、笠沙の岬まで道が通じる」とあるのはどうでしょう。南九州が韓国に面しているわけはありませんが、道を海とすれば長崎か熊本か、天草諸島のどこかに降臨したことになります。とすると九州の西岸、東シナ海を南下して笠沙の岬に着いたのでしょうか。しかし高千穂とされる山は、およそ宮崎県北部の高千穂町か、鹿児島県との境の霧島連峰です。また古事記では「ここはいい場所だ」としますが、日本書紀では「膂宍之空国」として別の場所へ国を求めています。

霧島連峰の方の高千穂峯の北西には、韓国まで見渡せるという韓国岳(からくにだけ)があります。周囲は火山灰土のシラス台地で「膂宍之空国」ではありますし、南西の笠沙の岬まで見渡せるかも知れません。宮崎北部の方の高千穂に降臨したのであれば、阿蘇山から南東へ山道を越えて来たのでしょうか。高天原が筑紫や阿蘇にあったとすればですが。

もし高天原が地上のどこかであるなら、筑紫や南韓にあったと推測するのはとても合理的です。国譲りの際、タケミカヅチは船で出雲西部の稲佐の浜に上陸し、タケミナカタを諏訪まで追い詰めました。高天原がヤマトや山陽や四国にあれば、陸路で来るか西の美保関へ船で来るかしたはずです。スサノオが出雲へ追放されたとか、新羅から渡って来たというのも辻褄が合います。さらに「日向・高千穂・クシフルタケとは筑紫である」と強弁すれば、朝鮮半島南部から天孫族が渡来して弥生文化とか古墳文化をもたらし、日本列島を征服した…と妄想を繋げることも可能ですね。

倭奴国は金印が出たことからも筑紫にあったのが確実ですし、魏志倭人伝を「素直に」読めば邪馬台国はヤマトではなく、九州の南の方にあったように読み取れます。11世紀の『新唐書』には、日本国からもたらされた『王年代紀』を引用して「天之御中主から32世の倭王は筑紫城にいた」と書かれています(『宋史』では23世とし、筑紫日向宮にいたとしますが)。記紀を編纂した人々も、チャイナの史料や倭国の伝説を参考して「初期の倭王は筑紫にいたのではないか」と考えてはいたでしょう。

しかし、天孫が南九州に降臨したというのはなぜでしょうか。もし神話が史実を伝えているのなら、筑紫や肥後から南下した天孫族が南九州に勢力を築き、東方へ遠征してヤマトを征服した、ということになります。しかし日向は長らく熊襲・隼人の国で、ヤマト王権に服属したのは遅く、景行天皇の頃としても4世紀以後です。いかに天孫族が剽悍でも、このような辺境から現れた連中がヤマトへ襲いかかり、征服することが出来たでしょうか。

また「国譲り」が実際にあったとすれば、筑紫倭国(高天原)が出雲(葦原中国)を征服したということになりますが、そのような証拠はありません。弥生時代には出雲に筑紫の銅矛が存在しましたが、同時にヤマトの銅鐸も存在しており、銅剣も多数ありました。それらが埋納された後、出雲は四隅突出型墳丘墓の文化圏となり、北陸から筑紫まで勢力を広げています。これは筑紫の影響によるものではありません。出雲の国譲りという神話は、後世に作り出されたものではないかと思われるのです。

疑問は尽きませんが後回しにし、古事記の続きを読みます。

石と花

高千穂に天降ったニニギは、笠沙の岬に至り、美女と出会いました。彼女の名を聞くと「オオヤマツミの娘で、アタツヒメと申します。またの名はコノハナサクヤヒメです」と答えました。まことに美しい名ですね。アタとはこのあたりの地名で、薩摩国阿多郡に名を残しています。オオヤマツミの娘らはたくさん出てきますが、土着の豪族の娘程度の意味でしょう。

ニニギが「兄弟(姉妹)はいるか」と問うと、「姉のイワナガヒメがおります」との答え。そこでニニギは「私は君を娶りたい」とプロポーズします。コノハナサクヤは「私は返答できかねますので、父にご相談下さい」と答えたので、ニニギは彼女の父を訪ね、「娘さんを下さい」と訴えます。オオヤマツミは大喜びし、姉イワナガヒメと多くの品々を添えて献じました。

ところが美人の妹と違い、イワナガヒメは甚だ凶醜(すごか醜女)でした。恐れをなしたニニギは彼女を実家に送り返し、コノハナサクヤだけを嫁としました。オオヤマツミは大いに恥じ、ニニギに使者を送ってこう伝えます。「私の二人の娘を共に奉ったのは、あなたの生命がのように堅固不動となり、のように栄えますように、との思いからでした。しかしイワナガヒメを送り返されたので、あなたの寿命は石のように久しくはならず、花のように短くなってしまうでしょう」。こうして神(イモータル)であった天孫は寿命を持つ存在(モータル)となったと言います。

これは、いわゆる「バナナ型神話」の典型例です。インドネシア・スラウェシ島のトラジャ族では「石とバナナ」の二択なのでそう呼ばれますが、類似の神話は世界中に見られます。

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旧約聖書・創世記のエデンの園の神話では「生命の樹の実」と「善悪を知る樹の実」の二択で、アダムとイヴは蛇の誘惑により後者を選び死すべき存在となりました。ギリシア神話では、プロメテウスが神々に犠牲を捧げた時、白い脂肪で骨を包んだものを神々の、臓物で肉を包んだものを人間の取り分(モイラ)としたため、神々は骨のように不滅となり、人間は死んで腐るようになったとします。また『抱朴子』には「世人は(金石から作る)神丹ではなく、草木の薬を信じている。だが草木は埋めれば腐り、煮れば爛れ、焼けば焦げる。自らを生かす力もないものが、どうして人を生かせる(不老不死にする)だろうか?」と書かれています。

日本神話ではイザナギとイザナミの時に民草の生死の数は決定されていましたが、ここでは天孫の寿命に限定されています。日本の国歌である『君が代』には「細かな石が岩となり苔が生すまで、君(天皇)よ長生きなさいませ」と歌われていますが、天皇・皇族の寿命は民草と変わりません。

民草・青人草というように、日本では一般人民は「草」とみなされています。いつどのようにして人民が発生したかは記紀に語られません。地面から生えてきたのなら、草の神・野の神であるカヤノヒメ(ノヅチ)がいますから、彼女がオオヤマツミと交合して産んだのでしょうか。ただ「あおひとくさ」は漢語の「蒼生」を倭語で読んだに過ぎず、民草とは「民の草葉」を室町時代以後に略して呼んだものといいます。チャイナの人民は「草のようにいくらでも生えてくるもの」とみなされていたようです。

『日本書紀』本文では、高千穂から笠沙の岬に来たニニギは事勝国勝長狭(ことかつ・くにかつ・ながさ)という人(神)に出会い、彼の国であるこの地域にとどまります。第一の一書によると、彼はイザナギの子でシオツチノオジといい、海の潮(塩)の神でした。後でも登場します。

やがてニニギは鹿葦津姫、またの名を吾田津姫、すなわちコノハナサクヤに出会いました(鹿葦もこのあたりの地名)。第三の一書では彼女を紹介したのもシオツチノオジです。イワナガヒメの話は省かれますが一書に見え、彼女の恨みで天孫の子孫ないし民草の寿命が短くなったとします。

故磐長姬、大慙而詛之曰「假使天孫、不斥妾而御者、生兒永壽、有如磐石之常存。今既不然、唯弟獨見御、故其生兒、必如木花之移落。」一云、磐長姬恥恨而唾泣之曰「顯見蒼生者、如木花之、俄遷轉當衰去矣。」此世人短折之縁也。

火中出産

『古事記』によると、コノハナサクヤはニニギと一夜を共にしただけで妊娠し、臨月を迎えました。これを聞いてニニギは「我が子ではあるまい。国津神の子であろう」と疑いましたが、怒ったコノハナサクヤは戸のない産屋を建て、中に入ると土で入口を塗り塞ぎ、産屋に火を放ち、その中で出産しました。火が盛んな時に産まれたのが火照(ホデリ)、次に火須勢理(ホスセリ)、最後に火遠理(ホオリ)が産まれたといいます。

『日本書紀』本文では、コノハナサクヤが「天孫の胤でないなら必ず焼け死ぬでしょう。天孫の子なら無事でしょう」と宣言しています。産まれた子は三柱で、ホノスセリ、ヒコホホデミ、ホアカリと名付けられました。もちろん全員無事で、コノハナサクヤも無事だったでしょう。産まれた子の名や順序には諸説ありますし、ホアカリはニニギの兄とする説もあります。

それから久しくしてニニギは崩御し、筑紫の日向の可愛(え)の山陵に葬られました。明治時代に宮内省により薩摩川内市の神亀山と定められましたが、他に同市の新田神社、宮崎県西都市の男狭穂塚古墳とする説もあります。どれも考古学的には古いものではありませんが、朝野の崇敬を集めています。

コノハナサクヤは『播磨国風土記』では伊和大神(大国主神)の妻として現れますが、地理的にも全然別なので同名の別神でしょう。また火と山の女神として、近世には富士山の女神ともされましたが、これも元来全く無関係です。彼女は日向で夫と共に生涯を終えたとされ、夫の御陵の傍らに彼女の陵墓が設定されています。

◆Born from◆

◆Fire◆

こうして日向国(宮崎・鹿児島)に新たな国が誕生しました。ニニギが崩御した後、子どもたちはこの国を受け継ぎ、出雲にもヤマトにも向かおうとしていません。どうなることでしょうか。

【続く】

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