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【つの版】ウマと人類史:中世編07・藩鎮蕃将

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 735年に東突厥のビルゲ・カガンが逝去したのち、モンゴル高原にはウイグルが進出して取って代わります。西突厥に取って代わった突騎施も、ウイグルやカルルクに取って代わられ、内陸ユーラシアには新時代が訪れます。

◆回◆

◆紇◆

回紇起源

『旧唐書』迴紇(回紇、回鶻)伝などによると、ウイグルは匈奴の末裔であり、北魏の時代には勅勒テュルクの諸部族のひとつでした。突厥が興るとこれに従属し、特勒テュルクと呼ばれたといいます。古くは匈奴の時代に呼掲があり、高車には袁紇、鉄勒には韋紇がありましたから、テュルク系の部族名として長らく存在していたようです。そもウイグルUyghurとはオグル、オグズと同じく「同盟、連合体」を意味しており、諸集落がオクを持ち寄って軍事同盟を締結したものです。

 605年、鉄勒諸部族は西突厥の攻撃を受けると、これに対抗するため部族連合「特勒」を結成しました。これには僕骨・同羅・回紇・拔野古・覆羅などの諸部族が参加しており、族長は各々俟斤イルキンを称しました。のち回紇部はこの連合の盟主となり、連合全体が「回紇」とも呼ばれるようになったのです。彼らは薛延陀部の北、バイカル湖周辺からミヌシンスク盆地にかけての領域を支配し、その人口は10万、兵士は5万人いたといいます。

 回紇部の俟斤は薬羅葛ヤグラカル氏の特健テギンといい、妻の烏羅渾との間に菩薩プサという子がいました。彼は知勇に優れ、父より民衆の心を得ていましたが、父に疎まれて追放されました。のち父が逝去すると、民衆は彼を推戴して俟斤とします。627年、彼は薛延陀と組んで突厥と戦い、活頡利発イルテベルと号して牙帳を独楽水トーラ川のほとり(ウランバートル付近)に建て、629年に唐へ朝貢しました。同年に菩薩が逝去し、子の吐迷度トメイトが即位します。

 おいしそうですがトマトの英語風発音というわけではなく、頭曼や土門と同じくトゥメンの騎兵を率いることをいう名でしょう。後世にもトゥメトという部族が存在しました。

 彼は東突厥に代わってモンゴル高原を支配した薛延陀部と戦い、大いに撃ち破り、645年に唐と協力してそのカガンを討ちました。勝ち誇った吐迷度はカガンを自称し、唐に朝貢して国際的な承認を求めました。唐は彼に懐化大将軍・瀚海都督の官位を与えて羈縻政策に組み込み、回紇部は唐の瀚海都督府として燕然都護府の支配を名目的に受けましたが、実態はカガンとして漠北に君臨していたのです。

 突厥の車鼻可汗はこれを厭い、648年に吐迷度の甥にあたる烏紇を唆して吐迷度を殺させますが、唐の燕然都護は烏紇を招き寄せて斬首し、吐迷度の子の婆閏を建てて跡を継がせました。彼は唐が阿史那賀魯や高句麗と戦った時、援軍を派遣して手柄を立てています。婆閏は660年頃に逝去し、甥の比粟毒ビソグドが跡を継ぎましたが、彼は同羅・僕固とともに唐に背き、辺境を侵略しました。唐は彼を討伐して服属させ、燕然都護府を回紇に領させて瀚海都護府としました。オルホン川のほとりにあった都護府がトーラ川のほとりに遷ったわけで、回紇を従わせるために唐が妥協したのでしょう。

 しかし680年頃に東突厥が復興し、唐の勢力が漠北から退くと、回紇はこれに撃ち破られて服属します。比粟毒の子の独解支らは南の河西回廊へと亡命し、瀚海都督の称号を名目的に保ちました。これより60年に渡り、回紇は突厥に再び服属するのです。

 741年、突厥の毘伽可汗ビルゲ・カガンの子登利可汗テングリ・カガンが内紛で殺されると、回紇ウイグル葛邏禄カルルク抜悉蜜バシュミルの三部族は突厥の支配に反旗を翻し、抜悉蜜部の大酋長である阿史那施を立てて賀臘毘伽可汗、のち頡跌伊施可汗イルティリシュ・カガンとしました。阿史那氏ということは突厥の王族です。三部族は登利可汗を殺して即位した骨咄葉護可汗クテュル・ヤブグ・カガンを討ち滅ぼします。突厥は別に王族を建てて烏蘇米施可汗オズミシュ・カガンとしますが、彼も744年に殺され、その弟の鶻隴匐が即位して白眉可汗となりました。

 同年、頡跌伊施可汗は回紇部と葛邏禄部に殺され、回紇部の頡利発イルテベルであった骨力裴羅クトゥルグ・ボイラが即位して骨咄禄毘伽闕可汗クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガンとなります。頡跌伊施可汗は阿史那氏でしたが、骨力裴羅は薬羅葛氏ですから、ついに突厥王族の権威も否定して新しい王家を建てたのです。骨力裴羅は唐に使者を派遣して懐仁可汗の号を賜り、745年には白眉可汗を殺し東突厥を滅ぼしました。回紇は東突厥の地を手に入れてウトゥケン山に牙帳を立て、東は室韋、南はゴビ、西は金山を境とします。

 一方、葛邏禄の族長は葉護ヤブグを称して回紇可汗の宗主権を認めつつ、金山の南の西域諸国を平定します。かつての西突厥、突騎施の地はことごとく葛邏禄の手に落ち、南の吐蕃と境を接することになりました。

藩鎮蕃将

 回紇も葛邏禄も唐に一応従っているとはいえ、事実上は独立国であり、唐はチャイナ本土を支配する程度の帝国に戻りました。唐では玄宗が在位して善政を敷いてはいましたが、次第に政治に倦み疲れ、740年からは楊貴妃を寵愛するようになり、政治は宰相の李林甫に委ねられました。

 睿宗から玄宗の時代にかけて、唐は各地に節度使を置きました。これは皇帝の使節として辺境に駐屯し、管轄地域の軍政を委任された地方総督で、税収の多くを軍隊の兵糧や兵士への給料に当てることが許可されていました。駐屯する兵士は募兵制(長征健児制)で集められ、辺境で屯田を行って自給自足し、また給料として絹と銅銭を支給されました。

 もともと唐は北魏以来の律令制度を受け継ぎ、健康な成人男子全員に軍事訓練を施して兵士とする府兵制(一種の徴兵制)をとっていました。しかし騎馬遊牧民や胡人が多かった北魏や北周はまだしも、天下統一後の隋唐では漢人農民にまで府兵制が強制されたので反発を受けました。高句麗や突厥・吐蕃との戦争で徴兵された農民たちは、数だけは多いものの弱くてバタバタと死に、内地の田畑は放棄されて荒れ果て、反乱や逃散が頻発します。唐はこれに対処するため、やる気と資質のある者だけを募集する募兵制や、降伏したり捕虜になったりした外国人部隊を雇い入れて将兵とするやり方に切り替えます。彼らは騎馬戦闘のプロですから戦場で活躍してくれますし、国外諸部族との折衝でも彼らの文化や言語を理解していますから話が早く、非常に有用でした。ソグド人、突厥人、契丹人や高句麗人など、隋唐で多数の非漢人が活躍したのはこのためです。

 このうち西には安西・北庭・河西・隴右・剣南の五節度使が置かれ、突厥や突騎施、吐蕃の侵攻を防ぎました。北から東にかけては朔方・河東・范陽・平盧の四節度使が置かれ、突厥や契丹・奚・室韋・靺鞨などの侵攻を防ぎました。南方には嶺南五府経略使が置かれています。都護府が有名無実化する中、これらの節度使は唐の本土を防衛する重要なポストであり、莫大なカネと権力、軍事力を独占する危険な存在でした。

 当初は安西・北庭・平盧の三節度使のみ武人や蕃将(非漢人出身の軍人)が任命され、ほかは中央から派遣された文官が任命されてシビリアン・コントロールを行い、数年で転勤・栄転して権力を握り続けないよう配慮されています。節度使を勤めた文官は中央へ栄転し、宰相に任命されるのが常でした。李林甫自身も河西節度使を経て宰相になっています。ところが李林甫は自分の権力が脅かされるのを恐れ、慣例上は宰相になれない蕃将を積極的に節度使に任命して恩を着せることにしました。742年、平盧節度使に任命された安禄山はそのひとりです。

安禄山伝

『旧唐書』『新唐書』などによると、彼は営州柳城(遼寧省朝陽市)出身の胡人で、本姓(父方の姓)は康といいました(旧唐書では姓氏なし)。これはソグディアナの康国サマルカンド出身であることを意味し、父はサマルカンドのソグド人であったようです。また母は阿史徳氏といい、突厥王家である阿史那氏に代々可賀敦を娶らせた名門でした。旧唐書では「雑種胡人」としますが、ソグド人と突厥貴族の混血なのです。

 伝説によると、母は突厥の巫女・占い師で、突厥の軍神である軋犖山あつらくさんに祈って男児を生んだため、彼にその名をつけました。生まれたときには光がほとばしってゲルの中を照らし、野獣がみな鳴き声をあげ、望気者占い師は吉祥であると告げたと新唐書にあり、ジーザスの誕生めいています。范陽節度使の張仁願はこれを怪しみ、人を派遣し殺そうとしましたが、匿われて無事だったともいい、ますますジーザスめいています。

 703年頃に生まれた彼は幼くして父を亡くし、母に従って突厥へ行き、母は将軍の安延偃と再婚しました。この人物は唐に仕えた安波注の兄です。また安とは安息国アルサケス朝の安で、この頃にはその末裔とされるソグディアナの安国ブハラ出身者の姓氏でした。前の夫と同じソグド人と再婚したわけです。ソグド人は都市の商人としての側面がピックアップされることが多いですが、遡ればサカやスキタイと同じ騎馬遊牧民ですから、戦場での活躍はお手の物です。

 開元の初年(713年頃)、一家は突厥を去り、親戚の安道買とその子らとともに唐へ亡命しました。唐には安道買の子の安貞節が仕えており、彼を頼ったといいます。默啜可汗が周辺諸国とドンパチしてた頃ですから、なにか政変でもあったのでしょう。この時、十余歳の軋犖山は安波注の息子である安思順らと約束して義兄弟となり、彼らと同じく姓を継いで名を禄山と変え、安禄山と名乗ったのです。

 突厥の軍神の軋犖山(中古音:ʔˠɛt̚ /lˠʌk̚ ʃˠɛn)とは、千年前にソグディアナまで来たアレクサンドロス大王のことではないかという奇説があります。彼の伝説はイスラム世界にも広まっていましたから、ありえなくもないかも知れません。また禄山(中古音:luk̚ ʃˠɛn)とはソグド語のrwxn「光明」を意味するともされ、とすればアレクサンドロス大王の妃となったバクトリア出身のロクサネ(Rhoxane)と同語源です。漢語では「禄(幸い、マネー)が山ほどある」と解することもできて縁起がよいですね。

 安禄山はこのような出自を持つ人物で、唐と突厥・契丹・奚・渤海・靺鞨などが接し、烏桓や鮮卑慕容部が本拠地を置いた朝陽市に生まれ育ったのです。自然と国際的な感覚と才能を身に着け、「六蕃語」すなわち六種類の蛮夷の言語に通じ、互市牙郎(唐と蛮夷との交易を司る官吏)に任じられたといいます。その性格は狡猾で知恵が多く、よく人情を憶測したといいますから、商人としても軍人としてもうってつけの人材でした。

 伝説によれば、開元20年(732年)に張守珪が幽州の節度使であった時、安禄山は仲間の史思明とともに羊を盗んだことが発覚して捕らえられ、守珪に棒で撃ち殺されそうになりました。すると彼は大声で叫び、「貴方は両蕃(契丹と奚)を滅ぼしたくないのか!なぜ私を殺そうとなさる!」と告げました。守珪は彼の言うことや見かけがなかなか立派なので釈放してやり、史思明ともども部下とします。彼は地形や水のありかをわきまえており、わずか五騎で契丹人数十人を捕獲したりしたので、武将として重用されました。ただ色白ながらデブだったため、守珪に「少し痩せろ」と言われて節食し、ついに守珪の養子になったといいます。見込みのある若者や部下を養子にとって面倒を見てやることはこの頃多く、安禄山も大勢の養子がいました。

 しかし739年、守珪は罪を得て左遷され、まもなく逝去します。安禄山は賄賂やおべっかを使って玄宗の信頼を集め、740年には平盧兵馬使、741年には営州都督・平盧軍使、742年には平盧節度使・左羽林大将軍に任じられました。744年には范陽節度使と河北採訪使をも兼任し、唐の北東部における最大の軍閥となります。彼は各地に部下を派遣して情報網を築き、玄宗の寵愛を失わぬようご機嫌取りにつとめました。

 この頃、西方では高句麗出身の高仙芝が西域諸国を平定しています。彼はパミール高原を越えて小勃律ギルギット国を討伐し、750年には吐火羅トハラ国の要請に応じて朅師チトラル国を討ち、石国タシケントの王を捕らえるなど活躍しました。

 しかしタシケントの王子は逃亡して各地に救援を要請し、大食アラブすなわちアッバース朝イスラム帝国の軍勢が大挙して攻め寄せます。高仙芝らはタシケントの北のタラス河畔でイスラム軍と戦いましたが、唐側が援軍としていたカルルクが寝返り、高仙芝は大敗を喫して撤退しました。これによりソグディアナとホラズムはアッバース朝の手に落ちたのです。そしてまもなく、唐では安史の乱が勃発し、滅亡寸前の状態に陥ることになります。

◆Alexandros◆

◆閃光◆

【続く】

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