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【つの版】ウマと人類史16・西極天馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 前129年から前119年にかけて、漢は衛青や霍去病率いる大軍を匈奴へ次々と送り込み、大打撃を与えました。また張騫は西域諸国の情報をもたらし、漢はこれらと手を組んで匈奴と対抗しようとします。西域諸国はあえて匈奴に対抗しようとはしませんでしたが、西方領土やオルドスを剥ぎ取られた匈奴は弱体化します。漢からの貢納も停止し、単于の権威は低下しました。

◆天馬◆

◆幻想◆

漢武大帝

 漢の武帝は、建国以来70年以上蓄積されたチャイナの富と大人口(数千万人と推測されます)を資本として、活発に対外遠征を繰り返しました。匈奴への大遠征のほか、前138年には越国の末裔の東甌(浙江省温州市)を取り潰し、その南の閩越(福建省)、南越(広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部)へもしばしば出兵して圧力をかけています。

 南越は秦代末期に地方総督が自立して建てた政権で、漢に対しては一応服属したものの、その王は国内では帝号を用いていました。前113年、南越の丞相の呂嘉は、漢の法律を受け入れようとした南越王とその母、漢の使者を皆殺しにすると、新たな王を擁立して漢から独立しました。漢は前112年に大軍を派遣して南越を攻め、激戦の末に前111年これを滅ぼします。

 同年、武帝は自ら国境地帯を巡遊して朔方まで行き、18万の騎兵を並べて武力を誇示しました。また郭吉を匈奴に送り、烏維単于に対して「漢は既に南越を滅ぼした。単于が前進して漢と戦うなら、天子ご自身が戦われよう。できぬのなら今すぐ漢の臣下となられよ。遠くへ逃れても無駄だ」と告げさせます。単于は激怒し、郭吉を謁見させた主客(匈奴の外交官)を斬り、郭吉を北海(バイカル湖)のほとりに流します。しかし漢の国境地帯に侵入する勇気はなかったので、兵馬を休養させて軍事訓練をしつつ、たびたび使者を漢に送っては講和を申し込みました。

 前110年、漢は閩越を滅ぼして住民を内地へ強制移住させ、前109年から前108年にかけては朝鮮を滅ぼし、各々に郡県を設置しました。ここに漢は、東は朝鮮、南は越南、西は酒泉、北は陰山にまで版図を拡大し、西域諸国と使者を通じさせるほどになったのです。勝ち誇った武帝は、始皇帝を真似て封禅の儀式をしばしば行い、不老不死の薬を求めるようになりました。

 匈奴に対しては使者を派遣し、単于の太子を人質に差し出すよう要求しますが、単于は「もとの条約では漢が公主と贈物をこちらへ差し出したのではないか」と突っぱね続け、なかなか承諾しませんでした。そこで前105年、漢は西方の烏孫(ジュンガル盆地・キルギス)に皇族の女性・江都公主を送り、烏孫の王である昆莫に嫁がせました。彼は匈奴から娶った妃を左夫人、江都公主を右夫人としますが、匈奴は怒って烏孫を圧迫します。しかし同年に烏維単于が世を去り、まだ若い烏師廬単于(詹師廬、児単于)が即位したため、烏孫を攻撃するどころではなくなりました。

匈奴衰弱

 児単于と彼の家臣たちは、国全体を北西へ移動させ、東方領土(もと東胡の地)を棄てました。すなわち左方(東方)は雲中(フフホト)、右方(西方)は酒泉・敦煌で漢と境を接するようになったのです。東胡は匈奴から独立し、烏桓山(赤峰市、ウラーン・ハダ)に拠ったために「烏桓(烏丸)」と呼ばれるようになりました。ここは上古に遼河文明が栄えたあたりで、遼河上流のシラムレン流域にあたり、のちに契丹が興る重要な地域です。彼らの北方には鮮卑と呼ばれる諸部族がいました。

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 南方・西方に加え東方も失った匈奴は、オルホン渓谷を中心として漠北(外モンゴル)に割拠し、なおも勢力を保ちます。烏孫や月氏にとっては、恐ろしい匈奴がぐぐっと近寄って来たわけで相当ビビったでしょう。このため西域諸国はますます漢を頼りにするようになりました。また漢は匈奴を内部分裂させるため、単于と右賢王に別々の使者を送って互いに疑わせます。右賢王は単于の弟や叔父が任命される西方の総督ですから、仲違いさせれば匈奴をさらに弱体化させられます。単于は怒って漢の使者を勾留しました。

 さらに同年冬、匈奴では大雪が降り、多くの家畜が飢えと寒さで死亡しました(ゾド)。また単于はまだ幼く、国民の多くは落ち着かなかったので、左大都尉(東方の万騎のひとり)は漢へ密使を送り「単于を殺して漢に降伏したい。迎えに来てください」と申し出ます。前103年春、漢は2万騎を派遣して左大都尉を迎えに行かせますが、計画が発覚して左大都尉は処刑され、単于は左方(東方)の兵を繰り出して漢軍を包囲します。将軍の趙破奴は夜襲に遭って捕虜となり、漢軍は全て匈奴に降伏しました。単于は大いに喜びましたが、前102年に病死しています。

 児単于には子がいましたがまだ幼く、叔父で右賢王(西方総督)の呴犁湖が単于に擁立されました。彼は同年秋に匈奴を率いて漢の国境地帯を襲撃し、城塞を破壊して多くの人民を拉致しましたが、同年冬に世を去り、弟の且鞮侯が単于の位を継ぎました。この頃、漢は遥か大宛(フェルガナ)への遠征を行い、西域諸国を従属させています。

大宛遠征

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 霍去病によって河西回廊が開かれ、郡県が設置されて西域への道が通じると、漢は盛んに使者を西方へ派遣しました。張騫や現地人はナビゲーションを行い、漢の使者は楼蘭などタリム盆地の都市国家群を訪れ、異国の文化に触れます。西域諸国の人々も物珍しがり、漢へ訪れて互いに交流が行われました。こうしたことは周や秦代にも細々と行われたようですが、漢は匈奴という大敵に立ち向かうため西域諸国との交易を活発化させ、遥か烏孫へ公主を嫁がせてすらいます。お付きの漢人も現地人と交流し、ここに匈奴や月氏を介さぬ「シルク・ロード」が切り開かれたのです。

 武帝は烏孫から張騫らが持ち帰った馬を寵愛し、「天馬」と呼んで宮中で飼育していました。ある時、烏孫の彼方の大宛に名馬がいるとの報告を聞いた武帝は、使者に財物を持たせて大宛へ派遣し、名馬を請わせます。大宛ではすでに漢の産物が有り余るほどもたらされていた上、漢が遠くにあることから大軍は派遣できまいと見くびり、これを拒否します。怒った使者が大宛の王や貴族を罵ると、大宛の貴族は怒って使者を殺し、財物を奪いました。

 逃げ帰った者から事情を聞いた武帝は激怒し、漢をナメた大宛への遠征を計画します。漢の使者らも大宛をナメており、「兵3000もあれば充分です」と唆し、武帝はすっかり乗り気になりました。この頃武帝が寵愛していた李夫人の兄に李広利という者がいたので(隴西の李広とは無関係)、彼に手柄を立てさせようと遠征軍の総大将に任命し、騎兵6000とならず者数万人を集め、前104年に出陣させます。

 ところがこの年、関東(函谷関以東)に飛蝗が大発生し、遥か西方の敦煌まで飛んできたので、各地の食糧が不足します。漢軍は兵糧を現地調達すべく西域諸国を歴訪しますが、諸国は恐れて守備を固め、食糧の供給を拒みます。漢軍は諸国を攻めて食糧を調達しようとしますが、各地で頑強な抵抗に遭い、ようやく大宛の国境の郁成(キルギスのオシュ州ウズゲンか)に到着した頃には数千人にまで減っていました。大宛軍は疲れ果てた漢兵を散々に打ち破ったので、李広利らは相談の末に撤退し、前103年にようやく敦煌まで戻った時にはもとの兵の1割か2割しか残っていませんでした。

 報告を聞いて武帝は怒り狂い、使者をやって李広利らを敦煌にとどまらせると、天下から大軍と大量の軍需物資をかき集めます。正規兵だけで6万、部隊長は50人おり、牛10万頭、馬3万匹、ロバ・ラバ・ラクダ数万頭を集めて輜重隊とし、敦煌を含む酒泉郡防衛のためには18万人が動員されました。前102年、李広利がこの大軍で再遠征すると、諸国は恐れおののいて食糧や水を供出しました。ただ人数が多すぎるため南北二道に分け、タリム盆地の南北を通って合流します。かくて安全に行軍し、大宛まで到着しましたが、それでも兵は半減して3万人になっていました。

 また漢は烏孫へも使者を送り、大宛討伐に協力せよと要請します。烏孫は騎兵2000を派遣しますが、前回漢が負けているので巻き込まれてはならじと途中でとどまらせ、結局参戦はしませんでした。

 漢軍は迎撃してきた大宛軍を大量の弓矢で撃退し、王城を包囲すると付近の川を決壊させて水源を絶ち、40日余りも居座ります。大宛の貴族らは相談して王の毋寡を殺し、彼の首を持たせた使者を漢の陣営に派遣して降伏しました。また「申し出を拒むのなら馬を全部殺します」「康居(タシケント)からの援軍も来ます」「城内には井戸があり、食糧も豊富です」と喧伝したので、李広利は降伏を受諾し、良馬3000頭を獲得しました。郁成も別働隊が陥落させており、漢軍は大宛に親漢派の王を据え、意気揚々と凱旋します。しかし前101年に敦煌まで帰還した時、兵は1万人にまで減っていました。

 武帝は大喜びし、李広利はじめ功績ある諸将を高位高官に取り立て、帰還した兵卒らにもたっぷりと褒美を与えます。また大宛の馬を烏孫の馬に勝るとして「天馬」と呼び、烏孫の馬は天馬を改めて「西極」と呼びました。漢の使者は大宛から蒲桃(葡萄)と苜蓿(もくしゅく、馬の餌にする牧草アルファルファ/紫馬肥)の種子を持ち帰り、武帝はそれを離宮の傍に植えさせたので、見渡す限り増え広がったといいます。

 烏孫や大宛の馬は「汗血馬」とも呼ばれ、走るときは血の汗を流し、一日に千里(450km)を駆け抜けたといいます。匈奴の冒頓単于が月氏から奪った馬もこれだったかも知れません。中央アジアは名馬の産地で、古代ギリシアではザグロス山脈のニサ平原で産する「ニサ馬」が最高と讃えられましたが、これは現在のトルクメニスタンの馬種「アハルテケ」の先祖ではないかと言われています。

李陵降伏

 匈奴は大宛遠征に対して何もできず、勾留していた漢の使者を全員釈放して帰国させ、敵意がないことを伝えます。漢は蘇武を派遣し、多額の贈物をして和約を結ぼうとしますが、この時に事件が起きました。漢人の虞常らは匈奴に仕えていましたが、漢に帰還しようと思い、副使の張勝に話を持ちかけます。ただ手ぶらで還るより功績を立てたがいいということで、単于に重用されている漢人の衛律を殺し、単于の母を脅迫して連れ去ろうと大胆な計画を立てました。この件が漏れて単于は激怒し、虞常・張勝らは処刑されます。蘇武は寝耳に水で捕らえられ、匈奴に抑留されてしまいました。

 彼は投獄されると雪や毛をかじって生きながらえ、単于に屈服しなかったので、北海(バイカル湖)のほとりに移されて羊を飼うよう命じられます。そして「牡の羊が乳を出したら帰してやる」と言われ、20年近くを過ごしました。彼は野鼠(タルバガン)や草の実を食って生き延び、単于の弟に気に入られて援助を受けますが、屈することはなかったといいます。

 翌前99年、漢は李広利率いる騎兵3万を酒泉から出撃させ、右賢王を天山で攻撃して多数の捕虜を獲得します。しかしこれは罠だったらしく、匈奴は帰路に油断していた漢軍を包囲しました。漢軍は6-7割が戦死し(あるいは降伏し)、李広利は僅かな兵を率いて脱出を果たします。また騎都尉の李陵は李広の孫で、歩兵5000を率いて李広利の軍を救うべく出陣しますが、途中で単于率いる騎兵3万に遭遇しました。李陵は8日間戦い続けて1万余人を殺傷し、部下を脱出させて漢に救援を要請しましたが、刀折れ矢尽きる戦いの末に兵糧もなくなり、やむなく匈奴に降伏します。

 武帝は李陵の降伏を聞いて腹を立て、李陵を弁護した彼の友人・司馬遷を「李広利を誹謗するか!」と叱責して投獄します。また翌年、匈奴の捕虜から「李将軍が匈奴に漢の軍略を教えている」との情報が入り、激怒した武帝は李陵の一族郎党を皆殺しにした上、獄中の司馬遷を宮刑(去勢刑)に処してしまいます。この李将軍とは、李陵より先に匈奴に降った李緒という漢人のことでしたが、嘆き悲しんだ李陵は(特に罪もない)李緒を殺し、匈奴に仕えることにしたのです。単于は娘を彼に娶らせ、右校王に任命しました。

 且鞮侯単于は前97年にも李広利率いる漢軍を撃退しますが、前96年に世を去り、左賢王(太子)の狐鹿姑が跡を継ぎました。匈奴の貴族は「左賢王は病があるから」と彼の弟の左大将(左谷蠡王)を擁立しようとしましたが、弟は兄に立つよう説得し、単于の位を辞退します。狐鹿姑は単于になると弟を左賢王としましたが、彼は数年で病死したので、その子の先賢撣を日逐王とし、自身の子を左賢王としました。

 前91年、漢では「巫蠱の禍」と呼ばれる事件が起きました。武帝はこの頃在位半世紀に及び、66歳の老齢となっていましたが、長年の独裁ですっかり疑り深くなり、耄碌してオカルトにハマっていました。そこへ「陛下の病は巫蠱(呪い)によるものでございますぞ!」と吹き込む者が現れたものですから、武帝は怒り狂って容疑者を次々とひっ捕らえ、処刑させました。たちまち長安じゅうで魔女狩りが始まり、フェイクニュースが飛び交いますが、これは江充という者が自分の政敵を排除するために仕組んだものでした。

 皇太子の劉拠は事情を知るや挙兵して江充を誅殺しますが、武帝は「皇太子が謀反を起こした!」との誤報を受けて兵を差し向け、皇太子を自害に追い込んでしまいます。後から事情を知った武帝は嘆き悲しみ、江充の一族を皆殺しにして皇太子を弔いました。次の皇太子に誰を建てるかで宮中は陰謀が渦巻き、李広利は姉の子の昌邑王劉髆を丞相の劉屈氂に推挙します。

 前90年、匈奴がしばしば漢の国境を破ったので、漢はまたも李広利を総大将として大軍を派遣します。李広利らは善戦して匈奴を追撃しますが、宮中では劉屈氂が讒言を受けて処刑され、李広利の一族も皆殺しに遭います。やむなく李広利は匈奴に降伏しました。単于は彼に娘を嫁がせて寵愛し、衛律はこれを妬んで讒言したので、李広利は前88年に処刑されたといいます。

 前87年、漢の武帝は半世紀を超える在位の末、69歳で崩御しました。臨終の床で武帝は劉拠の子の劉弗陵(8歳)を後継者に指名し、後見人として大将軍の霍光(霍去病の異母弟)らが立てられました。これが昭帝です。匈奴でも狐鹿姑単于が前85年に世を去り、子の壺衍鞮が単于となりました。武帝の崩御とともに漢と匈奴は和解し、共存への道を探ることになります。

◆戦いは◆

◆飽きたのさ◆

【続く】

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